台風のコイヌ
台風を飼い始めたんだ、と友人が言ってきた時は流石に彼の頭を疑った。私の顔、眼差しがひどく胡乱なものを見るようなものになっているのを見たのか、友人は本当だよといそいそと棚に向かう。ホームセンターで売っているような水槽を持ってくればそれをテーブルに置いた。
水槽は四方、黒いシートで覆われて外から中をうかがい知ることが出来ない。台風は怖がりで、外を見せると暴れてしまうのだと友人が大真面目に語るものだから、私はそうなんだ、と曖昧に頷いた。そして、もしかすると台風というのは正しく台風というわけではなく、この風変わりな友人が何かの小動物に〝台風〟という名前をつけたのではないかと私は思い始めた。
「ほら、蓋を開けるよ」
同じく黒い蓋の両端を持ち、友人は私を隣に立たせる。驚かせないようにね、と言い含められつつ、そうっと上から水槽を覗き込む。
――台風が、じっとしている。
まさしく、台風である。台風接近をつたえる天気予報でよく見る、いざ日本列島縦断と意気込んでいる白い渦と同じものが、手のひらサイズの台風が水槽の中でじっと、留まっている。よくよくこの中を見てみると、どうやら日本列島を模したレイアウトらしい。幅六十センチの水槽を日本近辺の地図に見立てたとして、台風は紀伊半島の沖合で渦を巻いていた。
「あの真ん中の丸いところが、〝目〟だよ」
呆気にとられて水槽の中を凝視している私に、自慢げに友人が語る。台風の〝目〟と呼ばれるところには、まるで錐であけたような穴があり、瞳も見えず、この台風という生き物が起きているのか、眠っているのかすら分からない。
「飼ってるってことは、名前とかつけてるの?」
「勿論。〝コイヌ〟っていう名前だよ」
友人の声は誇らしい。自分が呼ばれたものだと勘違いしたのか、水槽の中の台風は己の回転を激しくさせ、うろうろとし始めた。手のひらサイズでも台風は台風、水槽のなかは一気にごうごうと強風が吹き荒び、その余波で前髪が靡いた。
「これは」
「コイヌ」
「……コイヌは、何を食べるんだい?」
「あったかい塩水をあげると大きくなる。でもやりすぎると水槽に収まりきらなくなってしまうから、注意が必要だ。あとはおやつにコロッケをあげるんだ。すごく嬉しがってね、ついついやり過ぎてしまいそうになる」
相変わらず紀伊半島沖合でぐるぐるとしている台風〝コイヌ〟に慈しみの眼差しを向ける友人に私はなんと言えばいいのか分からなかった。否、聞きたい事は山ほどある。
「どうして台風を?」
「かわいいと思って。ホームセンターに売っていたんだ。台風。ハムスターの隣でさ、かわいそうに、値下げされていたんだよ」
「それはひどい。……コイヌには触らない?」
私はふと浮かんだ疑問を、友人にぶつけてみた。それこそハムスターや、小鳥、トカゲなんかは手のひらに載せて撫でたり出来る。この小さな住人も、そうなのだろうか。そんな疑問が湧いたのだ。
友人はきりりとした顔で、首を横に振った。
「そんなストレスがかかるような事しないよ。渦が乱れて弱ってしまうかもしれないしね。それに僕は、この子を眺めているだけで幸せなのさ」
大真面目に語る友人の圧とも言えるものに圧され、私は曖昧に頷く。
「……ずっと生きているの?」
「いつかは温帯低気圧になって、消え去ってしまうだろうね。でもきっと、随分先だよ」
水槽の中で頼り無げにうろついている台風を暫く見つめて、友人は蓋をそっと閉めた。どうやら彼は本気で、この奇妙な生き物とも自然現象ともつかない存在を、日々を過ごす友として面倒をみていくつもりらしい。
それから二ヶ月後。梅雨も明け、夏も盛りの頃に友人から連絡が入った。
どうやら、台風が水槽から逃げ出して行方知れずになったらしい。
「近所に張り紙をしてるんだけど、誰も見ていないって」
「台風を探していますって?」
思わず声の端に笑いがこみ上げるのを耐えつつ、私は誠心誠意、友人を慰めた。どうやら一晩中探したらしい、電話口の彼の声色には疲れがありありと滲んでいた。
「ああ、どこにいってしまったんだろう」
嘆息とともに声を落とす友人を宥めながら、私はふとつけっぱなしになっていたテレビを見る。
『本日、紀伊半島沖合で突発的に発生した台風十号通称コイヌですが、勢力を拡大しながらゆっくりと北上し関東方面へと――』
どううやら台風が発生したらしく、お天気キャスターがどこか緊迫したような顔で、私たちに供えを促していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます