森のなかにて

 唇に泡がついたと感じれば、喉に熱い苦みが落ちる。その苦さが目を覚まさせるのか、それとも、カップ一杯に含まれたアルカロイドの類いが身体に巡り巡っているからなのか、ともかく、私はゆっくりと瞬きをして目尻に残る眠気を雫に変えた。

「それで」

 泡の失せたカプチーノが僅か底に溜まっているカップを傍らに置きながら口火を切ると、目の前に座した男はびくりと肩を跳ねさせ、どこか虚ろであった双眸をぎょろぎょろと彷徨わせながら、乾いた唇をぱくつかせる。

 人は語るべきものがあっても、いざ語れと促されればこうも言葉が出ないものだ。この青ざめた男から言葉を引き出す為の時間と、早朝に保護した際に彼が喚いていた言葉を思い出し、要約する為の時間はどちらが早いか、と思案し、私はもう一度、それで、とはっきり声に出した。

「あなたは森の中で、何かを見た。きっと恐ろしいものだったのでしょう、あなたは今とても……顔色が悪い。冷めないうちにカプチーノをどうぞ。――ゆっくり、私に何を見たのか話していただけますか」

 ここから少し離れたところにある森の入り口で、この男を保護した。顔を汗やら涙やらでぐしゃぐしゃにしながら、私に掴みかかり、あれはなんだ、あのおそろしいものはなんだ、と喚きだしたのをなんとか宥め、この詰め所に連れ込んだのである。独り言を繰り返していた男は、水を飲まされ席に座らされてようやく興奮から脱したらしく、今度はひどく怯えた様相を見せた。私がカプチーノを勧めれば恐る恐るカップに手を伸ばし、柔らかな色のそれをぐっと飲み干す。熱さを気にせずにそれを喉へ、更に腹へと導き、私が差し出したパンを引っ掴み、貪るのを私はどこか冷ややかに眺めていた。――無理もないだろう。何故なら、男が立ち入った森は立ち入り禁止区域なのだから。

「お、おれぁ、アオメウサギを捕まえにきただけなんだ」

「……アオメウサギは法で捕獲を禁じられているのですが、ご存じないのですか?」

「ン、ぐ…………」

「まあいいでしょう。続けてください」

 彼が法に背いたことは明白として、今は立ち入り禁止区域の森で何を見たのかが、私にとっては重要だった。法に背いた彼が、法に照らし合わせてどういった罰を受けるのか心底どうでもいい。無法を咎めなかった私に男は少し驚いたが、寧ろそれが彼の縮み上がった心を幾分か和らげたらしい。少し身を乗り出して、彼は眉間に皺を寄せた。

「サーカスだ。ありゃ、そうに違いねえ」

 サーカス。

 男の口から飛び出したのはこの場の空気には似つかわしくない単語であった。無意識に片眉を上げていたらしい私の顔を見た男は慌てた様子で、嘘じゃねえ、からかってるわけじゃねえんだと付け足した。

「そのサーカスというものは、何かの喩えですか」

「いいや、本当に、ほんもののサーカスだ。おれぁ、夜中にあの森に入って小一時間ほどウサギを探していたんだよ。あの森に入った事があるか、兄ちゃん。満月でもあそこは真っ暗なんだ。だからちいせえランタンなりを提げて……歩いて行く。ウサギは臆病でよう、灯りなんざ見たらすぐに巣に逃げ込んじまう。灯りに気がつかれる前に、奴らの姿を見つけて巣穴を突き止めねばなんねえ。ただ、今日は一匹、様子が違うやつがいた。目の前にぴょん、と飛び出してきたと思えば、こっちをじっと見るんだ。別のウサギかと思ったが、確かに青い目に灰っぽい毛皮の奴だ。そいつが――森の奥へと走っていくんだ。今思えばおかしかった。やっこさん、おれが手を伸ばして届くかどうかのギリギリを駆けて、そう、おれを誘い出してたに違いねえ。おれも獲物を逃がしちゃならねえと必死で追いかけてよ。それで、それで――」

 ごくり、と大げさな音と共に男が喉を鳴らす。大きな嘆息の音が部屋に響いた。

「サーカスがあったんだ。兄ちゃん、サーカスを見たことあるか? おれぁ、ある。まだガキだったころだァ……あのでけぇテント、楽しげな音楽、中から聞こえてくるンだよ、客が盛り上がってるのが分かって、思わず入っちまいたくなるんだ。あの中じゃあ、曲芸師やら虎やら奇術師がよう、跳ね回って、踊って、客を騙くらかしてんだ――」

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