第1話

 *多少の暴力、暴言を含みます。

—————


 5月の某日。

 この時期、ある程度の湿度があることは仕方がないと諦めがつくが、気温が30°を超え夏日を記録した日だった。


 ——盆地、くっそあちぃー


 地下鉄を利用する人の多さもあって、蒸し暑さが増しているホームでそう内心ボヤくのは他でもない、浅村朔太郎である。

 彼の他にも首に浮いた汗を拭う人がいることからボヤいているのは朔太郎だけ、という訳ではないようだが、彼が盆地に存在するこの大学を選んだ自分を呪っているのは言うまでもない。


 タンタンタン。


 タップダンスでもしているかのような、微妙にずれた靴音を聞きながら朔太郎は地上に上がる。


 ——ダメだ……めっちゃ眠い……


 今日の最後のコマの民法900条第4項婚外子の法定相続の話は非常に心地よかったが仮眠を取れるほどではなかったのである。

 おかげさまで、講義を休んだ友人に売りつけるノートは取れたので、朔太郎は代返代——まさかの回文が出来てしまった——とノート代を合わせて後日集金するつもりでいる。


「ちょっと、やめて下さいっ!」


 朔太郎が今度提出のレポートの大体の内容を考えていた時だったか、若い女性らしき声が聞こえてきた。


 ——御霊信仰ごりょうしんこう

 「触らぬ神に祟りなし」を座右の銘にしかねない程こよなく愛する朔太郎にすれば、スルーするのが普段であるが、どういうわけかこの時の朔太郎は声の主を探していた。


「姉ぇちゃん、俺らと遊ぼうや」

「だ・か・ら、さっきからお断りします、と申し上げています!」


 この場より恵比寿橋が似合いそうな、半グレに毛が生えたくらいのチャラ男がアッシュブラウンのロングヘアをハーフアップにし、白っぽいロングのワンピースを着た如何にも清楚系の女性に絡んでいるという何とも不思議な画が広がっていた。

 しかもチャラ男はお世辞にも顔が良くないのに対してワンピースの女性——朔太郎は仮に"ナミ"と名付けた——はお世辞抜きの美人である。


 ——おいジャラ男、鏡と睨めっこしてから言えや、身を弁えろ。ジャラジャラと似合ってもないアクセが煩いんだよ。


 機嫌が悪くなると、お世辞にも言葉が綺麗とは言えない朔太郎がそう思うのも無理はない話だ。

 まだ、面と向かって言っていないだけマシと言え——


 ——るはずだったんだが。


「ちょっと悪いんだが、そこ退いてくれないか小銭が転がっていってしまったようで」


 朔太郎なりのスマイルを浮かべながら、チャラ男改ジャラ男にこう言う。


「はっ、小銭なんて持ってるからどうなんじゃね?」


 ——なるほど、札が風で飛ばされてしまうことはないらしい。それとも、キャッシュレスに対応しろということかな?


「悪いな。だが、君みたいに似合ってもない、ただジャラジャラ煩いだけのアクセを買うための札ならなくてもいいと思うが。

 それはそうとその低身長を補うためか何だか知らないが、無駄にゴツい靴も退かしてくれないか」


 何を思ったか、ご丁寧にそんな挑発もしてしまう。


「ああ゛? 兄ちゃん、俺に喧嘩売っとるんか?」


 もちろんその通りだが、朔太郎は相変わらずのスマイルを浮かべて言う。


「そんなまさか! 僕はただ小銭を転がしてしまって、それを取らせてもらいたいその一心で」


 もちろん嘘だが、朔太郎はこめかみに青筋を浮かべ出している単細胞くんにさらに続ける。単細胞は一つの細胞で様々なことが出来る有能とも言われるが、ここでは「ピーマンみたいな頭」とか

「ナスみたいな脳」のような意味で朔太郎は使っている。


「ああ、悪かった。どうやら君のジャラジャラとアクセが立てる音と小銭が転がっていく音を聞き間違えたようだ、すまないな。今後も紛らわしいし、小銭の音と間違えられる度に嫌な思いをするだろうから、お詫びにアクセをとってあげようか? 僕の方が似合うだろうしアクセにしても本望。まさにWin-Win-Winじゃないか」


 朔太郎は国宝的イケメンでは当然ないが、中高でそれなりの人気を誇った顔をしている。口の悪さがなければ、モテること間違いなしだったろうが……。

 それだけに、ジャラ男のブチギレさせるだけの効果はあったようだ。


「あんだとてめえぇ、黙って聞いてりゃ、ゴタゴタと——」


 ジャラ男は"ナミ"のことなど忘れ、朔太郎に蹴りかかったが——


「!?」


 朔太郎に簡単に避けられ、


 ——煙草を吸ってんな、しかも適当な武術スタイル……。


「ぐごぉ……」


 次の瞬間には何の防御もしていない鳩尾に朔太郎の右ストレートが打ち込まれていた。


「まだ、やるか?」


 ——結構人の目があるな、この程度で終わらせておきたい。

 そう思う、朔太郎の思いに従うかのようにジャラ男は何語か判らないような単語を発しながら、どこかに行った。


 ——消えてくれて良かった。


 朔太郎にしても、今回のはやりすぎた自覚があった。無理矢理に相手を苛立たせるようなことを言って、殴り合いに発展させた。


「あの、すい……」

「ありがとうございました!」


 朔太郎は危ない状態にさせてしまった女性に謝るのと同時に、女性は朔太郎にお礼を言ったのである。

 おかげで、朔太郎の目は点になってしまっている。

 確かに、女性のためというのもあったが、朔太郎自身あのジャラ男の存在に腹を立てたから自分の気の済むようにしただけに過ぎない。言わば、自己満足。


「いや、あの俺も危ない思いをさせてしまってすいません」


 朔太郎は基本一人称が"俺"だが、ああいう時は"僕"に変わる。


「いやいや、そんな。あの助けてもらったお礼をしたいのですが……

 あっ! 駒井こまいさん。こっちです」


「ああ、遅くなって申し訳ありません、お嬢様」


 ——……?


「大丈夫ですよ、この方が助けて下さいましたし……」


 女性はそこまで言って、目が点になっている朔太郎の方を向いて、


「ああ、この人、駒井さんはうちで働いてもらっている執事さんです」


「で、お嬢様、助けて頂いた、というのは……?」


「ああ、それはですね……」


 朔太郎が助けた女性はまさかのお嬢様だった。

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