第3話
【彼女の夢の話】
私はどうやって家に帰ったか覚えていない。気がついたときには古ぼけた商店街や鬱々とした雰囲気はなかった。
ただ薄いオレンジの明るい光と白い霧があるだけの世界があった。ミルクのような甘い香りがする。直感的にここは怖くないと思う。私はなぜか不安を一切感じなかった。この世界は美しくてとても安心する。
「よく来たね。お嬢さん。」
急に聞こえた声に驚き振り向くと、さっきの黒髪の魔女がいた。魔女以外に形容しがたい彼女はこの暖かな世界には少し不釣り合いに思えたが、その姿はとても魅力的に見えた。
白磁のような肌に黒い髪、そして黒すぎて深い緑に見える瞳、毒林檎色の真っ赤な口紅が彼女の顔だちを引き立てている。
あぁそうだ。私はこの人に連れてこられたんだ。
「お嬢さん、夢を見る気はないかい?」
商店街ではおよそ聞かないどことなく古風な響きを感じる言葉に、私は戸惑いを感じた。
「今なら夢を売ってやるよ。金は後払いで。満足したら出ておいで。」
厄介なセールスかキャッチかと疑ったが、奈落の底まで落ち切ったような気分の私は彼女の言葉に強く引き込まれてしまい、すぐにその疑念は頭から消え去った。彼女にもそれが伝わったようだ。
「今この場で寝られると困るな、早々に家に帰ってくれ。それから会おう。」
そこから私の記憶はほとんどない。
何があったかは分からない。今私の目の前に再び黒髪の魔女がいる。私を先導するように歩き出そうとする彼女の仕草には軽さと優美さも感じられた。私はただついていくだけだったが、温かい雲の中を進むうちにポツンと小さな木作りの受付のようなものを見つけた。
どうやら彼女の行先はここだったらしい。
「あのおチビちゃんは仕事ができるかな。」
女性にしてはやや低くて深みのある声で彼女は何かを呟いた。その言葉には、何か含みがあるように感じられる。私がその含みを読み取ろうとしていると彼女は急に私を振り返った。
「お嬢さん、ようこそ夢の国へ。」
私をみて胸に手をあてるその一連の仕草は、まるで舞台の上の悪役のようで、私はただその美しさに圧倒されていた。
「お嬢さん、如何したかな?」
「あ、いえ、なんでもないです。」
私のさらに奥深くを見つめようとする彼女に私は息を呑んだ。彼女は何者なのかは分からない。しかし私の直感は怖くないと告げている。
「ここはどこか、とは聞かないんだね。肝が据わっているわけでもないようだが。」
毒々しくて、甘い空気に圧倒されて状況を理解する余裕が無かったことに気づかされた。
彼女の話し方は、どこか挑発的で、語尾に艶があり、片方の眉と口角がわずかに上がっている。その仕草は、まるで私の反応を楽しんでいるかのようだった。
何も考えていなかった自分がどれだけ間抜けに見えているのかを自覚し、顔がじわりと熱くなる。
「ここは…どこですか。」
結局聞くことにした。しかし自信なさげな弱々しい私の声は、新たなる登場人物によって打ち消された。
「いらっしゃいませぇー!あっ!ゆきさんだぁ!こんにちわぁ!」
子供の声だ。声の主は小さな女の子だった。
ここがどこかは分からなかったが、この魔女がユキさんという名前であることは分かった。
「やぁ、今日はお客さんがご一緒なんだ。お願いできるかな。」
そのユキさんは日常の一部のように少女に応えた。先ほど感じた毒々しくて甘い空気は消え去り、遊び心のある大人の声だった。
「おきゃくさま、どちらからおこしですかぁ?」
一瞬言葉を失った。そもそもここは一体どこなのか、自分のいる場所さえわからない状態で、その質問にどう答えるべきか悩んでいた。質問に質問で返すのも気が引ける。場所や時間によって答えが変わることを、この子にどう説明すればいいのだろう。
「あ…ちがった。おきゃくさまはどのじだいのかたですか?」
どうやら場所について訊かれていた訳ではないようだ。少しホッとした。
「2023年から来ました…?」
この答えが正しいかどうかはわからなかったが、ユキさんが視界の端で頷いているのが見えた。
「わかりましたぁ。しょうしょうおまちください。」
小さな身体をめいいっぱい使って動く少女を観察する。この子もとても綺麗な子だった。 幼いわりに長い金茶髪、大きくて澄んだ同じ色の瞳、白い肌、高く小さな鼻。全てのパーツが美しくそして全体のまとまりもとれている。フランス人形がゼンマイで動いているのかもしれないと絵本のようなことを思った。
「おきゃくさま、ここではこのおぼうしをかぶってください、えーっと…」
黙って少女の説明を聞き、少し変わった形の帽子を受け取る。形状はニット帽に近いだろうか。柔らかくて温かい感触が心地良い。
少女の話は要領を得なかったが帽子の装飾品に触れることで移動できると説明しているようだった。どこかで聞いたような話なのに思い出すことは出来なかった。
「これでおしまいです。こまったことがあったらすぐよんでくださぁい。」
少女は一通り話し終えたらしい。私は説明を聞き終えてもまだここにとどまっていたいと感じた。居心地がとても良い。私は子供好きだっただろうか。
少女はもう私には用事がないというように隣に立つユキさんに話しかけた。
「ゆきさん!きょうままはどこにいるの?」
ユキさんはなぜか私を気遣うような目でみて少女に向き直った。
「ママは今日と明日がとても忙しいんだ。ミシェルなら立派に留守番出来るだろうと言ってたよ。いい子でいてくれるかい?」
「…?うん!だいじょうぶ!わかった!」
少女はミシェルというらしい。こんなに幼い子を1人で置いておかなければならないほどの仕事とはなんだろうと少し考える。考えたところで何もでてこなかったが。
「お嬢さん、行かなくていいのかい。」
どうやら私はこの場所から動かなければならないようだ。だがこんなに何も無い空間ではどうしようもなかった。
「あの…どこに行けばよいのかさっぱり…」
どうしようも何もないのだ。移動するとして目的地はあるのだろうか。
「ここは夢の国だ。自分が行きたいと思う場所に行けばいい。幸せになれるとこ、とかどんなことでもこの世界には存在するさ。」
目的地は幸せの場所。やはりどこかで聞いたような設定。
そうだ、思い出した。なぜ今まで分からなかったのだろう。この設定、この帽子。これは
「メーテルリンクの青い鳥…」
ユキさんは反応しない。私は周囲を見渡しながら絵本の中身を記憶の底から引っ張り出そうとしている。主人公は兄妹、いや、ケチなおじいさんだっただろうか。幸せの青い鳥を探して、
それで、肝心の結末を覚えていない。青い鳥を見つけたか、逃げられたか、青い鳥は幽霊だったか。幼少期の記憶なんてあてにならないものだと実感する。
結末をどうにか思い出そうとした矢先、ミシェルの高い声が響き渡った。
「ユキさん!みて!またとりさんがきた!」
「えっ、」
この暖かな世界の上空が青く光った気がして思わず声の先を振り返る。居た。
あれは間違いなく、
「青い鳥……」
青い鳥がこの霧と雲だけの世界の上空を羽ばたいていた。体の小ささに比べて大きな翼。静かにこの世界の上を飛び交う鳥の姿はとても青かった。
そこには私の知らない青があった。暖かな光が当たるたびに少しずつ変化する青。世界の何よりもきっと鮮やかで目が覚めるような青。
透き通って鮮やかで、美しい羽をもった青い鳥に気づいた時には手を伸ばしていた。
「どこに行くの!待って!」
あの鳥が欲しい。なぜか私はあの鳥に吸い寄せられていた。
「待って!」
私は走りだそうとした。でも
「ぁ…」
青い鳥は砂が崩れ落ちるように消えてしまった。
私はユキさんを振り返る。
「あの鳥はどこに…?」
「別の国に移動しただけだ。夢の国同士は地続きじゃないからああやって移動する。」
あの鳥が欲しい。あんなに美しい鳥は今まで見たことがない。
私はきっと今恍惚とした表情をしている。
「どうやったら私もそこに…」
ユキさんは私の言葉を最後まで聞かないうちに答えた。
「そのために帽子を貰ったんじゃないのかい。」
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