第5話
「わたしね、伯父さんを押したの」
ユキはその最初の夜から度々忍び込んでくる伯父を殺そうと決めた。ある日有休をとって出勤した伯父を駅で待った。その都市は地下鉄があって伯父は家の近くからバスに十分ほど乗って駅で乗り換えていた。人ごみの中伯父を見つけると、滑り込んできた電車の前に伯父を押した。手の押す力は昔より強くなっていると感じていた。三度押して伯父はホームから落ちた。ユキは興奮していたし、無我夢中だったが満足感はなかった。それどころか三日もすると罪悪感で落ち込むようになった。
「わたしはヒデオちゃんが原っぱ返したのを知っていた。だから一年くらいたってからこの町へ返しにきたの、その時健一さんにも会った、そのころはここも大きく変わっていてヒロちゃんがあの崖が崩れるのに巻きもまれて亡くなったことも知った。そしてあなたの話を健一さんから聞かされた」
ユキはぼくをあの場所へ連れて行くと言うのだ。そしてこう続けた。「病院の事件もタカちゃんだって聞いたから」
ぼくはあの時の状況を説明し、そしてヒロちゃんの時のことも話した。
「タカちゃんはわたしたちとは違った経緯でその力を授かっている、でも場所は同じなんだから、きっとうまくいくと思う、肝心なのはタカちゃん、あなた自身が『返す』っていう意思をことばにしてあの土地に伝えることなんだと思う」
「だけど」とぼくは言った。「怖いから、もう誰も巻き込みたくないから、ユキちゃんは離れていて」
ぼくはユキちゃんに車椅子を押してもらい、原っぱへ行った。そこはすっかり変貌し今は市が管理する公園になっていた。サチコの父親の会社が所有していたが買い手がつかないうちにヒロちゃんの事件が起こったので、擁壁工事をし新たにフェンスを設置し、市に移譲したのだ。市は歴史的な意味合いを消すようにフェンス沿いにさらに防護柵を設け、花壇を配置した。芝生が敷き詰められ幾つかのベンチ、東屋もあった。昔転がっていた岩は今もあって、それだけが名残りとして懐かしくもあったし、公園のいいアクセントになっていた。
「本当に返せるのかな」その変わりぶりにかつての原っぱの面影はない。
「わたしが来た時はここまで整備してはなかったけれど、でも返せた」
ぼくはユキちゃんに東屋で待ってもらい、一人で車椅子を進めた。芝生をまっすぐに行き、あのテーブルみたいな岩のところで止まった。ここが昔は刑場だったなんて信じられない景色だ。芝生の緑と花壇の花と青空と、人の心を癒す優しい場所だ。
ぼくは深呼吸をして「もう返したい、この手を返したい、普通の手が欲しい」と誰にともなく言った。それはこの景色の中で心の底から噴出してきたぼく自身の声だった。
あたりが光に包まれた。音もなく広がりやがて景色が見えなくなった。光の中から声が響いてきた。
「それでいいのかい」
ぼくは突然あの時の約束を思い出した。『神の手』を返しても何も変えられないということだ。
「起こった事実はそのまま残る、タカの身体もそのままだ」弥兵衛の声だ。
自転車の少女は運よく横によろけ、サチコは本当に原っぱでつんのめって崖から落ち、ヒデオは教室を走り回っていて窓から落ち、橋元先生は道路端でめまいを起こしてトラックとぶつかり、ヒロユキは崖崩れのタイミングであの場所にいた。そして病院の奥田は酒を飲んで自殺した。すべてはそれが事実となり、ぼくは若年性パーキンソン病とも、ギランバレー症候群ともとれる身体で自分の意思で動かせない状態が続く。
「その手を持っていれば身体はよくなる、いずれ普通に歩けるようになる、手も動く、今はタカが疑問を持っているから動かせなくなっているだけだ」
それはわずかな間、迷いを生んだが振り払った。
「弥兵衛さん、もう十分なんだよ、それでも普通の人間になりたい」
声は途絶えた。そしてふいに光が消えた。
ぼくの前に元の景色が戻った。今のが夢でも幻でもなく本当のことだと証明できるものは何もなかった。ただ、幼児の時の記憶と合致するそれだけでぼくは『神の手』を返せたんだと理解できた。
後ろを振り返った。ユキがこちらへ向かって歩いてきた。
「返せたのね」と言った。
ぼくは頷いて弥兵衛さんと話したことを言った。身体ももうよくならないと言われたことも。
ユキは意外なことを言った。「本当はタカちゃんが返す前に言うべきかどうか迷っていた、でもこれはわたしの考えだから押しつけたくはなかった、手を返すと死ぬんじゃないかって思っていたの」
「死ぬ」ぼくは驚いてことばを返した。「まさか」
「ヒデオちゃんもヒロちゃんも死んだ、健一さんが返さないのはそういう気がするからって言ってた」
「でもヒロちゃんは」とぼくはあの時の状況をもう一度言った。
「健一さんが言っていた、前の晩に電話もらった時、タカちゃんを見ていて怖くなったから返すつもりだって、たぶんタカちゃんと会う前に返してたんだと思う、確かなことじゃないけど」
「じゃユキちゃんは」とぼくは言わすにはいられない。
「わたしはもう死ぬことがわかっているの」
「わかってるって」
ユキは怯むことなくぼくの目をしっかりと見て答えた。「わたしが伯父さんを地下鉄の駅で押してからしばらくして変だなって気がついた、腕にイボや斑点が増えていたの、しかもその勢いが凄くて」そして右手の服の袖をめくりあげて見せた。ぼくはその腕から目を逸らした。ほぼ埋め尽くされているイボや斑点は人の腕とは思えないものだった。
「病院へ行ったら癌だと言われた、それもこれまで見たこともない速さで転移をしてもう身体のあちこちにある、医者からこんなのは初めてだと言われた」
ぼくはどう応えたらいいのかわからない。じゃあ、ぼくは死ぬのか。
「でもこれは本当に偶然かもしれないし、考えすぎかもしれないし、それにもしそうだとしてもタカちゃんはわたしたちとは違うって、そんな気がするし」
「ぼくは違うのかな」
「だってそもそも授かった経緯が違うし、それにその身体は元には戻らないって弥兵衛さんが言ったんでしょ、だったら」
ユキはもう会うことはないだろうと言って帰っていった。あとどれくらい生きられるかわからないが、入院はせずに好きなことをして生きるといった。
それから四十年が過ぎた。弥兵衛さんが言ったとおり、ぼくの身体が戻ることはなく車椅子に乗り、左手だけで生きた。身体障害者手帳を申請し、身障者の給付金を支給された。生活はそれだけでは出来なかったが父母に支えられた。その父母が亡くなると健一に支えられたが、パソコンが普及しネットで仕事ができるようになると、ワードやエクセルを習得し、補助ツールを使って自宅で仕事を請け負い毎日やるようになった。健一は大学を出て市役所に勤め、普通に恋をし結婚した。子供は太一と誠二の男の子二人で、実家からそこそこの距離の場所に家を建てた。その実家はぼくが相続をし、預貯金はぼくの将来を心配した父母が三分の二をぼくに残すと健一にかけあってくれた。身障者の生命保険にも加入し、まんいちに添えた。それでも日々はつつがなく過ぎてゆき、六十歳を越えた。町は昔の面影を残しながらも時代と共に変化を続け、高速道路の高架が横切り、原っぱあとの公園は維持費削減と利用者が少ないという理由で民間に払い下げられた。ほどなく宅地として分譲され、四件の家が建った。昔そこが刑場でたくさんの人が死んだなど知っている者は誰もいない。
そんなある日、甥の誠二が訪ねてきた。いつもはケータイで前もって知らせてから来るので、突然の訪問になんかあったのかなと予感した。
「どうしたんだ、急に、仕事はだいじょうぶなのか」誠二は専門学校を卒業してソフト開発会社に勤めていた。
「有休とったから」そう言って勝手知ったるナントカで冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取って飲み始めた。こちらに様子を伺いながら言い出せないでいるのがわかった。
「どうしたんだ、用事があってきたんだろ、言えよ、できることだったらするよ」
「うん」と迷いつつ言い出したことに驚いた。「兄貴のことなんだ」
太一は東京へ出て、フリーランスのデイトレーダーとしてやっている。一旦は証券会社に勤めていたが、株のおもしろさに惹かれて退職し、自分で始めるようになった。何度か危ない時もあったが乗り越えて頑張っている。
「ああ」と返事をし、「また危ないんだ」と言った。「まだ若いんだから、辞めて別の仕事につけばいいのにってみんな言っているのに」
健一も何度も言っているらしいが、危機を乗り越えたことでそれがかえって自信に繋がっているようだと聞いている。
「違うんだ、危ないどころじゃなくて、死んでしまったんだ」
ぼくはそのことばに何も返せず、誠二を見つめるばかりだった。
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