第2話 夫とのすれ違いと姑からの宗教入信勧誘
私は高卒で、当時学歴にコンプレックスをもっていたので、学歴面では夫に小さな憧れを感じていたが、それはとんでもないお門違いの勘違いであることを知らされた。
夫は私とは違い、いわゆる高学歴のエリート男性で、大学の理工学部を卒業した後、コンピューターの専門学校を卒業したが、就職には恵まれていなかった。
現在は、専門学校の講師をしているが、一年契約の人気稼業でしかなかった。
生徒数と生徒からの苦情によって、一か月後、あっけなく解雇される。
もともと給料は安い上に、なんの保証もない人気稼業でしかない。
夫は、タバコも酒も、ギャンブルも、そして女遊びも関心のない、表面からみると、童顔の堅物であった。
しかし、結婚してからわかったことであるが、人間性は三流であったというより、もともとコミュニケーション力の乏しい人間嫌いだった。
自分を棚にあげ(?!)あの人は不細工な容姿で、センスが悪いなどと平気で言ったりする。
ファッションコーディネーターにでもなったつもりなのだろうか?
人形のような童顔と、ほとんどセンスのかけらもない服装をしているのに関わらずである。
やはり夫は、人間性の乏しい人で、本来ならば有難いお客様である筈の生徒の批判ばかりしていた。
「あの生徒は、覚えが悪くて鈍いんですよ」
その覚えの悪い生徒がいるおかげで、商売は成り立ち、鈍いのを鋭くするための指導が講師の仕事なのではないか?
「あの肥満オーバーの女生徒は、座っている椅子が可哀そうだ」
その肥満オーバーの女生徒を、根気よく教え、就職に導くのが講師の役目ではないのだろうか?
だいたい、IQの高すぎる覚えのいい生徒だけなら、専門学校など必要はない。
IT化時代で求められるのは、礼儀作法とコミュニケーション力を身につけ、就職に導くことではないか。
そういう意味では、夫は専門学校の講師としては、失格である。
夫は案の定、私の予想通り、生徒から苦情がでて、契約満了を言い渡されていた。
そういうことも相まって、私は姑から、ある宗教に入信するように持ちかけられていたが、私はクリスチャンだったので、全くその気はなかった。
しまいには、私がいつも身につけているクロスのネックレスまで外すように、命じられた。
姑曰く、キリストなんていうのは西洋の宗教だなんて時代遅れのことを言う。
私はぼんやりながら、クロスというのは、紀元前に神の子イエスキリストが、地上に君臨し、人類の罪の身代わりになって、処刑道具であるクロス(十字架)にかかって下さったと聞かされていた。
そういえば、実母が小学校二年のとき、初めて買ってくれた絵本が「イエスキリスト」だった。
私の家は、代々浄土真宗にも関わらず、その当時は月に一度は僧侶を招いて、お経を唱えてもらっていた。
私はいつも、ぼんやりとしているが、変わることのない信仰心を持ち、十字架をお守りがわりに身につけていた。
この十字架さえあれば、私は大きな災難に合うこともないし、人に騙されたり利用、いや悪用されたりして、道を踏み外すこともないと確信していた。
私は被害者になっても、加害者にはならないという予感さえあった。
そんな私の唯一のお守りまで、奪おうとするつもりなのか。
しかし、私が夫と結婚した裏には、資産家の息子だったという事実に魅かれたという理由が七割方占めていた。
人間嫌いの仕事嫌いの夫に対して、尊敬や愛情を感じることは、いくら努力しても難しいことだった。
ある日、私は夫が専門学校の講師を契約満了ー要するにクビであるーすることを恐れ、夫に忠告のつもりで言った。
「ある先生は主任の立場だが、その人の社交性を見習うようにした方がいいと思うわ」
その日から、夫は私に嫌ごとを言うようになった。
なんとその主任が私の悪口を言っているだの、自分を棚にあげ服装のセンスが悪いだの、挙句の果てに私の実母の服装のセンスまでけなすようになってしまった。
私は、経済的に離婚という方法をとると不利なので、夫のたわごとは仕事ができず、社会で活躍不能な負け犬の遠吠えとして、黙って聞き流すことにした。
それでも私はガマンを重ね、姑の介護をしていた。
それと引き換えに、私に宗教を押し付けてこないでほしい、十字架のネックレスも自由であるはずであると、条件を出した。
姑は、離婚だけは避けていたので、しぶしぶその条件をのんだ。
三年後、姑は私の看取られながら、死を迎えたが、さすがにそのときだけは、夫も私には感謝の念を表した。
そんなある日、十年前に隣の部屋に住んでいた礼香姉妹の母親から声をかけられた。
「久しぶりね」私は一瞬わからなかった。
しかしさすがに、元高級ラウンジの雇われママだった頃の垢ぬけたムードと、かすれ声だけは変わっていない。
「ああ、あのときの。確かキレイなきみどり色のスーツを着てらっしゃいましたね」
「よく覚えてるわね。やはり頭がいいわ。
真由にいろんなものをくれて、可愛がってくれて」
などと、お世辞を返した。
しかし、十年前の当時、礼香の話によると、母親は私のことを
「あのお姉ちゃんとは、話してはダメ。お母さんはあの家が嫌いだ」
と厳しい批判をしていたという。
無理もなかろう。
私と年代はそう変わりはないが、私は平凡なOL、そして母親は高級ラウンジの雇われママ、住む世界が違っていた。
しかし、無邪気で人なつこい真由は、初対面で私の胸を触るほど、私になついていたのである。
もしかして、真由は私のことを、夜は不在である母親と同じように思っていたのであろうか。
真由の母親曰く
「結婚してこの近くに住んでいるの。長女の礼香は九州地方で結婚し、次女の真由は、息子をもつシングルマザーよ」
ということは、真由の息子は地元の小学校に通っているのだろうか。
とりあえず、ハッピーエンドに終わったのだろうか。
私はほっと安堵した。
一方、私の方は、やはり夫は専門学校の講師を契約満了といった形で解雇され、なんとAI会社の営業に転職するという。
営業という職種は、非社交的で口下手な夫には、最も向かない職業である。
しかし、AI会社は童顔で、一見真面目そのものの夫に好感を感じ、歩合制の営業を推薦したのであった。
AIの知識を身につけ、スーツ姿で営業に出かけて行った。
意外な奇跡が起こった。
なんと、無口でコミュニケーション不足の夫は営業に向いていたのである。
営業というのは、立て板に水のようにペラペラと口のたつ話上手だと、かえって金目当てのお世辞のお愛想言いと誤解され、警戒されてシャットアウトされてしまい、二度と会ってもらえなくなる。
また、酒の誘いーもちろんキャバクラなどキャストも含めたーに応じる人よりも、案外、夫のような無口で酒の飲めない人の方が、かえって珍しく新鮮に映ったのかもしれない。
しかし会社内部においては、月ごとに営業成績を伸ばしていく夫に、妬み嫉みという魔の手が伸びていくのに、時間はかからなかった。
SNS上に、夫がある女性と五歳の男子との妙な写真がアップされていた。
一見見たところ、夫がある女性と親しくなったのが原因で、五歳の連れ子に虐待を加える危険性があるのではないかという内容のコメントが寄せられていた。
全く事実無根であるが、私はその写真をみて驚愕した。
なんと、夫の隣にいる女性とは、十五年前に隣の部屋に住んでいた真由だったのである。
真由の隣に移っていた五歳の男の子は、目鼻立ちが真由にそっくりだった。
くりくりとした大きな瞳と、はっきりとした顔立ちは、いかにも真由を彷彿させていた。
全く事実無根であったが、私はコメント返しに、サイバー警察に訴えると書くと中傷はいったん収まった。
夫は営業成績を上げたことで、社会的にも自信がついたのだろうか。
私に思いやりの言葉をかけるようになっていった。
無口で不愛想で、自分を棚にあげ、平気で人の容姿をけなしていた夫が、仕事を成功させたことで、まるで魔法にかかったように、私をいたわるようになり、週三回風呂やトイレの掃除をしてくれるようになった。
この調子なら夫とうまくやっていけそう、私は今までのひんやりと冷たい家庭に、希望の光が射し込んでくるのを感じていた。
これで仮面夫婦ではなくなるかもしれないという、淡い期待さえあった。
私はぜひ、十年ぶりに真由に会いたいと思ったが、連絡をつく術はなかった。
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