最終話 漂白

問道は真っ白な台の上に乗った白いグラスを、眉をひそめながら見つめている。

問道の後ろには、涼花が息をのんで佇んでいる。

涼花の足元にはスケッチブックとクレヨンが転がっており、スケッチブックには何やら絵が描かれているが、中途半端な形で終わってしまっている。



「この戦いで最後です。」

涼花は恐る恐る問道に言葉を届ける。

「この戦いに勝利すれば、あなたの心の中の引っかかりが無に帰され、を迎え入れることができる・・・」


問道は振り返らない。


「本当の無を迎え入れた先には何があるのか。それを示す時が来ました。」

涼花がスッと前方に手をやると、問道の前に一つの白い扉が現れた。

「これは・・・?」

「その扉の奥にはあなたが欲しいもの、あらゆる過去の鎖から解放されたあなたの心が、本当の意味で欲しているものが置いてあります。もちろん既にお分かりかと思いますが、水を飲むことで行けた空間だけでなく、今私とあなたがいるこの世界もに過ぎませんから、その扉の先にあるものを現実世界に持って帰ることはできません。」

「だからこの扉の奥のものを自分の目で確かめたら、あとはそれを現実世界で生きる糧にしろってことだな。」

「そういうことです。」

問道は涼花に背中を向けたまま、深く息を吐き出した。


「今の人類は『自分に適したもの』を追い求めすぎです。仕事探しの適性検査・・・MBTIの相性診断・・・・。そんなちっぽけなことよりも、もっと自分がいったい何をしたいのか、何を成し遂げたいのかというところを追い求めるべきなのです。たった一度きりの人生。たった一度きりの『山谷問道』という人間の人生。自分を殺して生きていっていいはずがありません。そんなのは『生きてる』なんて言えない。」


「山谷問道。あなたはこの戦いに勝たなければいけない。あなた自身のためにも。

これ以上、大切なものを失わないためにも。」





「二年前・・・正確に言えば577日前だ。その当時俺には好きな女の子がいた。名前は春風琥白はるかぜこはく。バイト先が同じで、涼しげな印象ながらもかわいげがあるおもしろい子。たった数か月の間だったけど一緒に帰ったり、通話でくだらない話をして笑いあったりしていた。ずっと一緒にいたい。この時間が一生続けばいい。そう願っていた。だから告白しようと思ってある日その子に連絡を取ってみたんだけど、一向に既読がつかない。電話をかけてみても出ない。それどころか、バイト先からもいつの間にかいなくなってしまっていた。」


「初めてだったよ、誰かを失った苦しみで眠れなくなったのは。なぜいなくなったのか。自分の何がいけなかったのか。『大人な人が好き』と言っていたあの子の肉声が、かすれながらも色濃く脳内を支配していた。そこから俺はただひたすらを目指して生きていたんだ。いつかあの子が自分のもとに帰ってきてくれると信じて。帰ってきたときにあの時よりもでいられるようにね。」


「だけど、その漠然としたという概念を目指すのは想像以上に難しくて、俺はいつからか自分そのものも見失ってしまったんだ。」


「自分を見失い、生きてるんだか死んでるんだかわからない状態で、あの子の帰りを求めてこの世をさまよう・・・・。まさしくゾンビって感じだな。」


問道は軽く自らを鼻で笑った後、呼吸を整えて言葉を続けた。



「無を迎え入れることができれば心の器が広がる。大人ってやつにきっと近づく。

そうしたらもう一度、琥白のために生きていくことができる。伝えられなかった想いをぶつけることができるんだ。」

語気が強まっていく。


「春風琥白は俺の希望だ。あの子への想いが、俺の血となり肉となる。

俺にはあの子が必要だ。心からあの子のことを求めている。」




「だけど・・・・・」

問道は体に芯を入れなおすかのようにして、大きく息を吐き出す。

そして白いグラスに入った水を、一思いに流し込んだ。



「それは違うって言うんだろ?なあ」







「琥白」






問道が振り返るとそこには、涼花が立っていた。

涼花の顔を覆っていた光が消え、表情があらわとなっている。その整った顔立ちと透き通った白い肌は、光が覆っていた時よりも美しく光り輝いて見えるものだった。

【純白】。白いワンピースも相まって、まるでその言葉がその子のために用意されていたものなのではないかとさえ思わされてしまう。

問道をここまで導いてきたのは、春風琥白だったのだ。


琥白はまっすぐ問道を見つめている。

問道は視線が逃げたがっているのを必死に堪えて、琥白のことを見つめ返す。

彼女のことを見ているだけで、問道はいまだ癒えぬ傷をぐりぐりとえぐられ続けるかのような苦しみに襲われていた。

胸が苦しい。だが向き合わなければいけない。もう逃げてはいけない。

これまでの戦いの中で、そう心に決めたのだから。


「いつから私だと気づいていたの?」

「この空間に来て初めて君に会った時から、もしかしたらと思い続けていた。」

「へぇ。それなら『涼花』じゃなくて『琥白』って呼んでくれたらよかったのに。」

「ごめんよ。その時の俺には春風琥白を受け止められる自信がなかった。今感じているこの痛みに耐えられる気がしなかったんだ。だから君を曖昧なもののままにしておきたかった。」

「なるほどねぇ。わかりましたよ。私は寛容なだから、そんな問道のことも今回は許してあげるとするよ!」

「助かるよ。」

自信満々の表情で胸を張る琥白に対して、問道は一貫した浮かない顔だ。

「どうしたの。念願の琥白に会えたのに、全然うれしそうじゃない。」

「そりゃあそうだろ。そもそも君は琥白本人じゃない。あくまで俺の心の中の琥珀だ。それに・・・」


「ここまで俺は、グラスの水を飲み、無を体現した空間の中で、自らの断ち切るべき感情・トラウマを敵として、一対一で戦ってきた。」


「そしてさっき俺は白いグラスの水を飲んだ。どこかの時間軸に飛んだわけではないけど今いるこの空間は紛れもなく無の空間だ。そんな無の空間の中で俺は琥白と一対一で向き合っている。それが意味することはつまり」


「そう。最後の敵は私だよ。」


いたずらに微笑んだ琥白は、右手を自らの背中側に回す。そして帰ってきたその手には一丁の拳銃が握られていた。透明感のある少女には全くと言っていいほど似合わない、黒く重々しい雰囲気のものだ。


「じゃーん」

「似合わないな。」

「うわ、そうやって女の子のファッションにケチつけるんだー」

「ファッションというかなんというか・・・・」

「まあでも、そんなことはもうどうだっていいの。」


琥白は拳銃を握ったまま歩き出し、そして問道の前に立ちはだかった。問道の顔がぐらつく。

「さっきあなたが言った通り春風琥白はあなたが本当に求めるもの、すなわちこれからの山谷問道の糧となるものではない。勘違いしないでほしいんだけど、それはあなたの心にある琥白への想いが偽りだって意味ではないわ。ただ、今後帰ってこないものを生きる糧とするのには限界があるって意味よ。」

「帰ってこないって、そんなことわからないじゃないか!そんなこと君にだってわからないだろう!君はただの俺の中の琥白でしかないんだから!」


思わず声を荒げた問道に、琥白は諭すように告げる。


「・・・そう、私はあなたの心の中の琥白。だからこそあなた自身の心の声をダイレクトに反映する。問道。心のどこかではわかっているんでしょう?あの子はもう帰ってこないって。」


「・・・・・」


「あなたは前に進まなければいけない。でも過去に縛られていたら、人生におけるを感じることはきっとできない。いつまでも春風琥白に心をつなげていてはいけないの。」


「問道、ここでの最後の戦いだよ。ほら手を出して。」



琥白は右手の拳銃を器用にくるりと回転させて持ち直し、銃口が自分に向くようにして、問道の手のひらにぽんっと置いた。



「あなたの中の春風琥白という存在を殺して。」


「私を殺して。」




手のひらに乗った一丁の拳銃が、質量以上の重さでのしかかる。


「っ・・・・・」


問道の口から、声にならない音が漏れ出す。

汗が首筋をつたい、心臓部を目指す。


こうなるとわかっていた。こうならないでほしいと願っていた。

しかしその時は来てしまった。


涼花という皮を被せられた琥白と一緒にいる時間が長くなれば、それだけこの別れの時がつらくなる。この戦いに勝てなくなる。そう考えていたがどうやら時すでに遅しといった感じらしい。


「できないよそんなこと」


「また逃げるの?」


真剣なまなざしで、琥白は言葉を突きさす。

いやこれはもはや自分からのメッセージなんだ。

逃げてはいけない。向き合わなければならない。

また大切なものを失わないためにも。第二の琥白を生み出さないためにも。






カチッ





問道は震える指先で、静かに銃のセーフティを外した。グリップを握り直し、引き金に指を近づけ、一つ一つの行程を噛みしめるかのように終わりの時へと歩みだしてゆく。



「あのさ」


「うん?」


は今どんな気持ちなんだ?」


「君?」

表情から察するに、どうやら不機嫌な様子。


「・・・悪い。は今どういう気持ちでいるんだ。」


「それは問道次第だよ。」



「・・・そっか。」


「琥白」


「琥白の言う通り、春風琥白という存在で自らを縛り付けるのはこれでおしまいにする。時間がかかってしまって申し訳なかった。最後まで身勝手だった俺をどうかゆるしてほしい。琥白を失ったことで味わった苦しみは正直耐え難いものだったけど、琥白が俺に与えてくれた幸せの大きさに比べたら大したことはなかったよ。そんな琥白に銃を向けるなんてことは俺には絶対にできない。だからこの言葉を・・・・本物の琥白の代わりに受け取ってほしい。」




「琥白に会えて本当に良かった。ありがとう。」





真っ白な空間に響き渡る一発の銃声。



今この空間に存在するものはたったの二つ。



淡い笑みを浮かべたまま横たわる一人の男と、消えゆく一人の少女の姿。



白く染められたその世界は天のほうから少しずつ崩壊を始め、その結晶が雪のようにしんしんと二人のもとに降り注いでいた。




問道は、自らに銃弾を撃ち込むことで真の無を迎え入れることに成功した。

たとえ扉の先にあるものを確認できなくなったとしても、愛する人に銃を突きつけるよりは何倍もマシだと判断したのだ。

潰そうとしなくとも、自らが引くことで無に帰す。

この世界のどこかで琥白が幸せでいることを願いながら、そこに終止符をうったのだった。






問道の瞳に少しずつ見慣れた天井が入り込んでくる。

自分があの不完全な無の世界に飛んだ時にいたベッドの上。

そこで問道は仰向けになっていた。


時刻は17:30。どうやらこの戦いはわずか三十分間での出来事だったようだ。


問道はこの出来事を忘れまいとベッドから跳ね起き、未使用のノートにがりがりと刻み込んだ。


だが書き込んだのは体験したことや琥白に関することではない。


ただ一言、「逃げない」とだけ。

それをノート両開き分いっぱいいっぱい使って大きく書き残した。

それ以上のことは必要なかった。




大学四年生の中盤が過ぎ、学生としての時間は限られてきているが、社会人になる前のこの時間を有効に使わない道はない。


問道は自分のやりたいことを見つけるために、とりあえず思い立ったことは何でも挑戦していく姿勢のようだ。まずは学校の掲示板に貼られていた地域ボランティアに参加してみるご様子。どうやらそのボランティアには、小学校時代のお友達だった高杉君と一緒に参加するみたいだ。











もしあそこで琥白に弾丸を撃ち込み、過去の因縁に決着を付けれたのだとしたら。


問道があの扉の先に進めていたのだとしたら、そこで問道は何を見たのだろうか。



それはここまでの物語を見ていたのなら、火を見るより明らかなことではないだろうか。




そう。



何も無いのだ。

扉を開けたとて、その先には何も置いてない。


それはなぜか。


というものは他人から授かるものではなく、自らの力で探求し掴み取るものだからである。

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