第7話 あとふたつ

 崩した態勢の三角座りでうなだれている問道。

 その横にちょこんと座っている涼花は、手に持った包帯をぺろーんと広げてはくるくる巻き戻して、ぺろーんと広げてはくるくる巻き戻してを繰り返している。

 問道が体に負った裂傷は、こちらの世界に戻ってきたときに全回復していたのだが、涼花は一応包帯を用意していたらしい。

「これ食べる?」

 涼花はどこかから取り出した大粒ラムネを差し出してみるが、問道は力なく首を横に振る。涼花は少々悲しげな様子で、ラムネを空間へとしまった。

 問道にとって初めてのだったのだ。ここまで体力を消耗しているのも当然の話と言えるだろう。


 涼花は少し離れた位置にある台をぼーっと見つめる。

 台の上には黄色いグラスと白いグラスが残されている。

「(あとふたつ・・・いや、もはやあとひとつなのかもしれない・・)」

 そんなことを考えながら涼花は問道の様子を伺うが、依然としてうなだれたままだ。

 困り果てた様子でさらさらの前髪をいじいじしていた涼花は、問道のためにも事実を伝えてみることとした。


「あのね、もうここまで来たら戦いは終わったようなものなの。」

「なんだって?」

 意外な言葉に、問道は思わず顔を上げる。

「ここから先はもはやウイニングラン。戦いらしい戦いになるであろうグラスはもう残ってないの。黄色いグラスはあなたの心の中のひっかかりとしては比較的弱いものだし、白いほうも・・・・」

 

白のグラスに言及しようとして、何故か言葉に詰まった涼花のことを、問道はじっと見つめる。


「・・・なぁ涼花。君はあの白いグラスを俺に最後に渡そうと、最初からそう決めていたんだろ?」

 涼花はどこかばつの悪そうな顔をしている、ように問道には思える。相変わらずその顔は光に包まれている。

「要するにあの白いグラスは俺にとって最後の敵・・・ってことだ。」

 問道は涼花のほうに身体を向け、首に血管を浮かべながら問い詰める。

「そんなラスボスが残っているのに "戦いはほぼ終わり" ってどういう意味だ?」

「それは・・・・・・」


 上手く答えられないでいる涼花に、問道はしびれを切らす。

「もしあの白のグラスが俺の考え通りラスボスなんだとしたら・・・俺の心にある、未だに癒えていない大きな傷との戦いなんだとしたら・・・・涼花が言っていた『色に意味のあるグラス』、それはあの白いグラスということになる。そしてその時敵となるのは・・・・・」


ここまで来て、問道も言葉に詰まった。涼花はこの先の戦いがどういうものか知っている。そして問道のほうも大体の検討はついている。だが、その核心には触れたくない。両者とも、まだそこについては明確に言葉として口に出したくないのだ。


何とも言えない空気が無風空間を流れてゆく。

二人はまた別々の虚空を見つめながら、そこに座っていた。




「行こう」

その声に、遠くへ飛んでいた意識を呼び戻された涼花がパッと問道のほうを見ると、問道はいつの間にか凛とした姿でそこに立っていた。物理的には涼花を見下ろす形となっているが、問道の目線は涼花の目線の高さに合わせられているように思える。


「行くって、どこに?」

涼花の口から漏れたこの言葉に、疑念は宿っていない。これには質問ではなく確認の意が溢れていた。

「残った戦いを終わらせに行くんだ。もし最後の戦いが俺の想像してる通りのものなのであれば・・・・時間が経てば経つほど、その戦いで俺が勝てる可能性っていうのは低くなる。」

どこか悲壮感の漂う背中を涼花に見せながら、問道は黄色のグラスを手に取る。

「ここまで必死に戦ってきたんだから、自分の頑張りを無駄にしないためにも最後までやりきらないとね。ほれ、涼花も一口飲んでみるかい。」

ひょいと顔の前に差し出されたグラスに、座り込んでいた涼花はふるふると首を振る。

「私が飲んでも意味ないもん。・・・・・・おいしいの?」

「うーん」

問道はグラスに口を近づけた。

「次があったら、その時はコーヒー牛乳にしてくれ。」






 ____キーンコーンカーンコーーン



過去の痛みを掘り起こす忌まわしき鐘の音色。無邪気な子供たちの声。

邪気にまみれた、窓際の自分。

「(小学校時代・・・・・)」


問道は小学生の時、いじめを受けていた。仲間外れにされたり無視されたり。まぁよくある過酷ないじめエピソードに比べたらそれほど大したものでもなかったのだが、それでも問道の心に傷を刻み込む程度には十分な力を持っていたし、そもそもいじめに大も小も関係はない。本人が傷つけば、それは忌むべき悪行なのだ。


問道は辺りを見渡してみる。どうやら今はみんなが下校していく時間帯。いじめられていた当時の疎外感を再認識するには絶好のタイミングと言えるだろう。


「(おっ、あれは・・・・)」

問道は懐かしい顔を見つけ、思わずテンションが上がる。あれはいつも一緒にいたお友達の高杉君だ。まぁ、と言ってもそれは五年生くらいまでのお話だけど。六年生に上がった時くらいから、高杉君も問道を避けるようになった。彼をそうさせたのは問道自身の責任だろうか。はたまた無邪気な学び舎に巣食う、幼き同調圧力か。その答えはいまだにわからぬままであるが、そんなことはどうでもよい。

を迎えるためにも、とりあえず問道は高杉君に接触を試みた。


「よぉ!ひさs・・・じゃなくて、一緒に帰らないかい?」


高杉君は自らの肩越しに問道の足元をちらと見るが、返答はしない。

そうして何もなかったかのように彼は生徒用玄関を目指して階段を下って行った。


地面に刺さった一本の木の枝のようにその場に立ち尽くす。

ショックだったから?・・・・いや違う。

未だ淀み切っていないガラス玉のような瞳で受け止められた視覚情報は、その体内に宿る成人した問道の脳内に一つの気づきを与えた。

体は当時の小学生の自分であっても中身は今の問道だ。あの時はわからなかったことが、今ならわかる。


高杉君が問道のほうに視線を向け、その視線をまた前方向に戻したとき。

ほんの少しではあるが、彼の口元がぐっと歪んだ。

まるで彼自身の心の奥底から湧き出るなにかを押さえつけるかのように。

まるで問道への気持ちを、身悶えしつつ噛み千切るかのように。


「高杉君・・・・」


奇しくもあの当時発した言葉と全く同じセリフ。

あの時は彼の背中を追うように発せられたものだった。

今は違う。

今は彼への理解を示すものだ。


複雑な感情が問道の中で渦巻く。

だが今の自分がやるべきこと、今とるべき行動はわかりきっている。

感情渦巻く暗闇の中では、そうしたことが自らの進むべき道を示す光となるのだ。



問道は、静かに瞼を閉じる。


無を迎え入れよう。戦いを終わらせよう。


子供たちの声が遠ざかっていく。


意識が、一つずつ上へと上がっていく。



もうすこし・・・・



もうすこし・・・・・・




・・・・・・・・





駄目だ。


心を無にできない。


なぜだ。


なにが引っかかっているんだ。



白いグラスだ。


その水を浸透させた先で迎える戦い。きっとそれは、問道の思い浮かべている戦いと一致している。

もしそうなんだとしたら。もしその戦いに臨むことになるんだとしたら。


勝ち方が全く分からない。

いやむしろ、とさえ思えてしまう。




白いグラス。

最後の戦い。

未だに癒えぬ大きなトラウマ。




それに比べたらこんな幼少期の苦い思い出なんぞ


「傷でもなんでもねぇよ。」


小学校の風景が砂のようにさらさらと、白き世界に溶けてゆく。

忌まわしき思い出が無に帰ってゆく。

その螺旋の中で問道は、瞬き一つせず前を見据えているのだった。

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