第5話 第二ラウンド
「すまない、もう少しだけ休ませてくれないか。」
「え??」
次はどのグラスを手渡そうかと、鼻歌交じりで思考を重ねていた涼花は、思いがけない問道からの言葉に思わず振り返った。
「知ってるだろう?俺は体力がない。数年前に精神を病んでから活動可能な時間ていうもんが極端に減ったんだよ。」
座り込み、うつむきながら訴える問道に、涼花は数歩近づき語りかける。
「気持ちはわかります。初めての体験でしたし、いつも以上に体力が削られたでしょう。ですが、休むことはできません。あなたはこれまでの人生そうした理由付けで逃げ続け、避け続け、その結果多くのものを失いました。」
問道は目を合わせようとしない。
「あなたが疲れやすいのは紛れもない事実です。しかしそれは戦わなくてもいい理由にはならない。」
涼花は問道の前にしゃがみ込み、少し震えた声で言う。
「...私は恐れています。人間とは時間がたつと思考も変化するものです。仮にあなたがここで戦いをやめ、そして将来再度この世のすべてに対し疑いの目を向けたとしても、またこの無の世界を迎えられるかはわからない。今回あなたは疑念を抱きつつもその先に戦いを求めた。まだあきらめたくなかった。でも、疑念の先にあるものがこの世への諦念だったら・・・?」
問道の頭に、自作の首つり台がフラッシュバックする。
「やるなら今しかないんです。今でなければ手遅れになるかもしれない。」
涼花は眉をキリッとさせ力強く問道に言葉をかけている、ように見える。
問道は立ち上がり、涼花越しに遠くを見つめた。
「適度に休ませてあげるのが令和の時代ってもんだぜ。」
「大丈夫です。何よりこれはあなたの奥底に眠る、あなた自身の渇望なのですから。」
戦いに臨もうと気持ちを整える問道の前に、涼花は青色のグラスを持ってくる。
「これがいいかと。」
そのグラスを見て、そういえばと問道は思い出す。
「さっきのグラス、緑色でさ。芝生がきれいな河川敷の風景に飛んだわけなんだけど、もしかして色に意味のある一つのグラスってさっきの?」
涼花はハッとする。
「ごめんなさい、そこのつながりは見えてなかったです・・・。」
淡い期待が打ち砕かれ、問道はため息をつく。
「もし!次またこんなことがあったら!」
いつもより涼花が小さく見える。
「・・・涼花の伸びしろを、一緒に喜ぼう。」
問道は、青いグラスの水を飲み干した。
「次は~、すすきの~、すすきの~」
無機質かつ聞きなれたその声が、問道に飛んだ先を認識させる。
ここは札幌の地下鉄だ。自分自身はスーツを着込み、周囲には同じようにしてスーツを着た大人たち、あるいは制服姿の学生たちが、くたびれたテディベアのようになりながら椅子に腰を据えている。
「なんとなくどういう状況かはわかるけども、確証がないな。
今回はどういう感情と戦えばいいんだい?」
「私に聞かずとも、あなた自身が知っているはずです。」
「あいかわらず冷たいねぇ」
問道は軽くため息をつきながらも、静かに目を閉じる。そうだ、自分の心に目を向ける時だ。
地下鉄がレールを走る音、過ぎ去っていく風の音、重く地を這うような淀んだ空気。
そうしたものが少しずつ薄まっていく。地下鉄は確実に動いているのだろうが、もはやそれも思い込みに過ぎない。無を願えば、それはおのずとやってくるのだ。
コツ、コツ・・・・
静まり返った地下鉄のなかで、その音だけが静寂を切り裂く。
コツ、コツ・・
確実にそれは近づいてきている。
問道は少しずつ目に光を取り入れつつ、その音のほうに目を向ける。
視界に、一人の女性が映った。
その女性は問道より少し小さい程度の背丈かつ、長く艶やかでしなやかな黒髪を携えている。よくみると青いインナーカラーを入れているようだ。
女性用のスーツを身にまとい、一見するとバリバリのキャリアウーマンという感じだが、その端正な顔立ちと佇まいには、どこか取り返しのつかない闇が眠っているように思えた。
「ダウナー系お姉さんってやつか?」
「ああいう大人っぽいひと、あこがれちゃいます・・・」
問道は未知の戦いへの覚悟を決め、椅子から腰を上げる。
そうして二人は、無となった地下鉄の車両の中で、静かに相対した。
「ごきげんよう」
「ど、どうも・・・」
その女性は優しく問道に微笑みかけた。だが目は笑っていない。なんというか、本当の意味での笑顔というものを忘れてしまっているように感じる。
問道はその美しい顔を十分に直視することができないでいた。女性経験の乏しい問道にとっては、今過ぎ去っているこの瞬間そのものが、ある意味での戦いと言えるような、そうした様相を呈していた。
「・・・なぁ涼花、これほんとうに俺の感情の権化なのか?」
「もちろんですよ。・・・・まぁちょっと私の趣味的なものも入ってるけど・・。」
「ちょっとどころの騒ぎじゃないだろ」
「あら、お兄さん。私を目の前にしといて他の女の子とお話だなんて、失礼しちゃう
わ。」
「いやぁ、ははは・・・・、そいつはすんませんね・・・・・」
うつむき加減でへらへらしていた問道の視界に、スゥッと女性の足元が入り込む。
完全に油断していた問道は、反射的に顔を上げた。そこには女性の端正な顔立ちが、問道をのぞき込むような形で居座っていた。吸い込まれそうなほど澄んだその黒い瞳の奥に、問道は確かな闇を感じ取った。気のせいとかではない。この女性には確実に何かがある。
引き付けられる。引き付けられてしまう。
「ふふっ、その驚いた表情。とてもかわいいわ・・・・
あなたとならきっと、楽な道を選ぶこともできる・・・」
そう静かに問道の耳元で囁き、その女性は問道の手を自らの手で包み込んだ。
冷たいながらも、どこか身を委ねてしまいそうなその温もりを手に、問道は呆然と立ち尽くしている。
問道の意識は上に飛んだのか、はたまた下に引きずり込まれたのか。
少なくともここには無いのは確かである。
あぁ・・もう・・・いっそこのまま・・・・
問道は完全にふやけきった表情で、何気なくその、女性に包み込まれた手に目をやった。
そうして仕入れた視覚情報が、問道を我に返した。
問道の手は黒に近いような青の色に、どんどんと染まっていっていたのだ。
その光景にギョッとし、脂汗を額に浮かべながらとっさに問道は女性の手を払い、距離をとる。
スーツの下に着たワイシャツの裾を捲り、自らの腕を確認すると、その青は既に問道の肘より上の部分まで侵食を済ませていた。
「こわがらなくていいのよ・・・全部お姉さんに任せてね・・・・・」
ゆらりゆらりと近づいてくる女性の姿が、問道に戦いの念を自覚させ、覚悟の火をつけさせる。
「悪いけど、そういう気分じゃなくなったんだわ。」
相手の顔をしっかりと見据え、再び二人は相対する。
「では、
感情の抑制には対話が効く。得た学びは生かしてこそ真価を発揮するのだ。
「なぁあんた、なんか無理してんじゃないのか?どれだけ気丈に振舞っても、心の闇ってやつがムンムン漂ってやがるぜ。」
「やぁね、さっきまであーんな情けない顔してたのに。そもそもあなたに話す義理なんてないわ。」
「なんだよ急にそっけなくなっちゃって。話す義理がないわけないだろ、あんたは俺の心の中に眠っていたもの、つまりあんたは俺で、俺はあんただ。」
既知の事実に深くため息をつきながら、女性は窓の外へと目をやった。静かに震えるその唇は、ため込んだ感情を今にも吐き出さんとする一種の前触れのようなものだ。
「話すことで解決することはないかもだけど、話したら少し気が楽になってまた歩き出せるようになるかもよ。」
「そういうのは疲れたの。」
「だったらなおさら話すべきさ。」
「わからずや・・・」
そうして女性はまた一つ深く息を吐き、そのうつろな目で問道を見つめる。
「・・・就活よ。」
「やっぱり。」
その一言は、問道の中にあった予測を確かなものとした。
「私、いやあなたは道内最高峰の学力を誇る大学を受験し、そして失敗した。それが尾を引き、あなたはブランド力やら高学歴という存在やらに縛られる形で道内大手企業の面接を何社も受けた。ただ・・」
「浪人した上にFランと呼ばれる大学に行ってるようなやつを採る企業なんてどこもなかった。」
「そ。もちろんあなたは浪人中に精神を病み、自ら命を絶つ寸前まで追い込まれてたわけだから、受験なんて満足にできなかった。それで死に物狂いでとりあえず大学に進学したわけだけど、そんな裏事情を採用面接で表になんか出せるはずもなく、あなたはただ負け組のレッテルを張られて捨てられていった。『人間性重視!』と謳っている大手企業があったとしても、それは優良なラベルが貼られた商品にのみ適用されるお話。あなたみたいな負け犬は、一生劣等感という枷を引きずりながら、ただ社会の奴隷として生きていくだけだわ。結局世の中はそんなもんなのよ・・・・」
「(なるほどね、一戦目が怒りなら、今回は圧倒的なマイナスと来たもんだ。)」
ぼそぼそと念仏のように呟かれたその言葉の一つ一つを確実に脳に刻み込みながら、問道は考えた。マイナスを0(無)に引き上げるにはどうすればよいのか。
「ね、これであなたも生きることに諦めがついたでしょう。私と一緒に楽になりましょう。」
女性は再度問道に微笑みかけ、ゆらりと距離を詰めてくる。確かにこの世には『死は救済』という言葉があるくらいだ。いっそ諦めたほうが楽なのかもしれない。その道が正解なのかもしれない。だが人生において大切なことは、何が正解か、ではない。
本当に大切なのは、自分の中で一つの道を正しいと信じ、その道で戦い続けていくことだ。何が正しいかなんて人それぞれで不確かなものだ。だからこそ、正しいと信じるその思いこそが生きていくうえで最も重要なものなのだ。
ここで人生を絶つ、なんて道は、今の問道にとってはただの不正解の一つに過ぎなかった。
「なあお姉さんよ、恋は盲目というように、思いつめてたら視野が狭くなっちまうもんだぜ。俺が新たな道を示してやるよ。」
不思議そうに問道を見つめるその女性をよそに、問道は車両の座席の上に大きな横長のスピーカーを召喚した。
「なによ・・・」
「まあ見てなって」
そう告げると問道は、スピーカーの再生ボタンを押した。流れてきたのはロックンロール、R&Bといった類に分類されるような陽気かつ洒落た音楽だ。
「止めて、今の私にはただ耳障りなだけよ。」
先ほどまでの虚ろな表情とは打って変わって、眉間に強くしわを寄せながら制止しようとするその女性の声を、問道は全く相手にしない。
それどころか、問道は踊り始めた。
踊り方としては一般にツイストダンスと呼ばれるものに近い踊り方。上手いなんて口が裂けても言えないような出来だが、陽気な音楽に合わせて着の身着のままに感情を表現する。
「あぁもう!うるさいうるさい!!」
女性は手を耳に当て完全にふさぎ込んでいるが、その繊細な指先を貫くかの如く大きな声を張り上げて問道は言う。
「ほら!あんたもやってみろよ!」
「そんな気分じゃないって言ってるでしょ!!」
「いいから!踊り始めたら自然とノッてくるもんさ!」
問道の言葉に、女性はうぅ~と呻きながらも体全体をリラックスさせ、音楽に合わせるように体をゆらゆら左右に揺らし始めた。さながら海底に漂う海藻のようだが、ポジティブな感情に身を委ね始めただけでも大きな進歩だった。
音楽が盛り上がるにつれ、問道のバイブスも上がっていく。ここで問道は目の前の
「やだ、あたしうまく踊れないし・・・・」
「大丈夫。全部俺に任せて。」
そうして問道は近づいてきた女性の手を取る。手と手が触れ合ったことで、再度負の感情が問道への侵食を始める。だがその侵食のスピードは、ファーストコンタクトの時と比べて明らかに劣るものとなっていた。
問道の手に導かれるようにくるくると回ったり、体を預けてみたり・・・・
もはやその女性は、問道というよりも、ポジティブな感情そのものによって深い沼から引き上げられていくようであった。
「悪くないだろ?こういう生き方も。」
「ええそうね・・・ 今の生き方だけが人生のすべてじゃないわ。」
「塞ぎ込まずに自分の世界を広げてみようぜ。きっとそこには」
「まだ見ぬ幸せがあるはず。」
音楽が終わると同時に、女性は光り輝き浄化された。
大いなるマイナスが、大いなるプラスによって打ち消された瞬間だった。
「
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