いきづく明日もそのまた明日も。

鈴ノ木 鈴ノ子

いきづく明日もそのまた明日も。

 岐阜県に出張できた会社員の辰巳義明、今彼は亡き母親の「毎日の繰り返しがアナタを作るのよ!」と過去に口酸っぱく言われた言葉で目を覚ました。

地方いや田舎のラブホテルの一室で目を覚まして、あたりの寂れた風情を漂わせる旧遺物的な室内に、現代的なプラスティックのコップや低い唸り声を上げるウォーターサーバーや薄型テレビ、そしてアンバランスの代表格たるような大型壁掛けエアコンが吐き出して部屋も気持ちも冷凍庫に放り込んでしまったような空気が漂っている。

 隣にはブラウンの髪をした若い女が寝息を立てていた。

細面で良く手入れされた眉毛と唇、昨日の酒ののちの朧げな記憶ではもう少し年齢を経たと思っていたのだが、キャンパスの絵の具を削り落としたとして、まったくの無垢で真っ白な下地が見えるように、その顔には幼さが残って見えた。もし、未成年であったならと背筋が幾分か冷えたが乳房や挿入時の感触や体の至る所の部位の皮膚は間違いなく幾分か年を経ていることは間違いなかった。もちろん、沢山の女を抱いたわけでもないから、もしかしたら間違いはあるのかもしれない。だが、友人の母親が私の初めてを奪った記憶が間違いないと告げていた。

「起きたの、おじさん」

 程よい形と感触を味わったその唇がそう私へ声を掛けてきた。カラーコンタクトを入れたアンバランスな大きな黒目は見開かれてはいない。長い睫毛を湛えた柔らかく閉じた瞼がその眼を覆い隠していて、私は少しだけ安堵した。

「おじさんか……、君の方がおばさんじゃないのかな」

 私はこのような性格だ、だから、モテない。顔は悪い方ではないはずで付き合った女性もそれなりには居たが、その誰それも同じような言葉を吐いてこう諭してくれた。

[デリカシーがないのね]

 と、まるで口裏を合わせているのかのように、いや、もちろん浮気などという不義理は私からはしていないが相手からは2回ほどされた。その時もその女にもう興味はないから終わりにしようと言って、相手の話も良い訳もなにかこう訴えかける言葉さえもすべて遮って関係を清算した。涙を流して素直に応じる女と泣きわめきながら私を罵倒した女と2種類だったが、そのどちらの言葉にも振り向くことも声を掛けることもなかった。

「あら、良く分かったわね」

 アンバランスな目が開かれたが、その眼はカラーコンタクトの黒目を失っていて、その顔にとても似合うガラス玉眼球のような綺麗な目が二つあって、口元の笑みが観音の微笑みのように穏やかに笑っていた。

「体は誤魔化せないんだよ」

「意地悪なこと言うのね、これでも顔に合わせるために必死に維持しているのに」

 観音は微笑から口元を尖らせて抗議の声を上げた。その仕草もまたよく似合っていた。

「でも、貴方は若いわ、まさか堕とされるなんて考えてもいなかったもの」

 悔しそうにそれでいて嬉しそうでもあるかのような口調でそう言った。

「堕ちたの?」

「ええ、堕ちたわ、どう嬉しい?」

「どうだろう、そんなことを言われたのは初めてだよ」

「そ、喜んでいいことなのに、まぁ、いいわ」

 そう言って再び微笑を浮かべた彼女は目をつぶって唇を尖らせた。

 きっと普通の男なら女からそう言われれば喜ぶべきことなのだろう、だが、私はなんとも思わなかった。それが本心で言われているのか、それもからかわれているのか、判断もつかなかったけれど、でも、そんなことは正直に言えばどうでもよかった。ただ、男と女が寝たという事実がこの場にあるだけだし、彼女に恋愛感情のレの字も抱いてはいなかった。

「先に風呂に行ってきたらどう、私は後でいいから」

「もう、本当にドライな人」

 目と唇を解いて彼女が静かな声でそう言うと、布団から這い出すかのように弱弱しく立ち上がるとふらふらとまるで酔っ払いのように不安定な歩みでシティーホテルのような、そう後から取ってつけたようなユニットバスへと向かっていった。

ドアの閉まる音と共に私も体を起こしてあれだけ飲んだのに不思議と二日酔いになっていない頭に少し驚きながら立ち上がった。室内に散らばっていたはずの衣服は私のも彼女のもきちんと折り畳まれていて、それが通路に無理に置かれた丸テーブルの上に着る順番通りに並んでいた、靴下だけは私の革靴と彼女の黒いアーモンドトゥのパンプスの中に押し込まれていて、それが私を安堵させたのだった。やがて彼女がシャワーを浴び終えて入れ替わるように私もシャワーを浴びて体にこびり付いたものを洗い流して伸ばしていた髭をなぜかここで剃った。

「あら、ちょっと意外だわ」

 私がシャワーを終えて出るとブラウスとスラックスを纏って化粧道具を持ってベッドで待っていたのであろう彼女が少し驚いた顔で私を見ていた。あまりの驚きような気がしたので「未成年じゃないよ」と言ってやると「知ってる、管理職の愚痴をこぼす未成年なんて今まで出会ったことないわ」と言って笑った。

 とても素敵な笑顔だった。

 頬の笑窪と少しの小皺、そしてすこし眠たそうな瞼、どこにでもいる女性がハッと目の覚めるような笑顔を見せるのならば、このような表情のことを言うのだろうなと思わせるほどの、すっと心の間をすり抜けて入り込んでくるほどだった。

「ねぇ、お腹空かない?」

「そうだね、簡単なモノならここでも頼めるけど」

「ここでは嫌だわ、靴下だけを床に脱ぎ捨てるような貴方はここの朝食をとることに我慢できる?」

「無理だね、そんなことよく覚えているね」

 どうやら清潔感の感性は同類であった。そのことに私は安堵した。

 今だけでない普段の生活も彼女は真面目に、そう、規則正しい刑務所にいる受刑者のように、あるいは鬼軍曹のいる兵舎の兵隊のように、まるで規則を定規にして計ったような生活をしている姿を想像して声を立てずに笑ってしまった。

「ああ、服をありがとう」

「どういたしまして、でも、脱ぎ方は綺麗だったわ、綺麗なシーツ以外を触らなかったことも貴方という人が真面目な人であることは悟れたわ」

「どうだろう、案外いい加減な人間かもしれないよ」

「ふふ、靴下をソファーでなく床に揃えて脱ぎ避ける人はきっとそんな人はいないのよ」

 そう言って微笑んだ彼女は嬉しそうに私の頬にキスをしてからユニットバスへと入って行った。靴下の脱ぎ方というものについてここまで意味のある会話をしたことはいまだかつてなかったのでそれもまた面白くて笑ってしまった。昨日の仕事の汗にまみれた下着を履くのは些か気持ち悪かったので、私は部屋に持ち込んでいた正方形のスーツケースから下着を取り出しワイシャツも新しいモノを取り換えて新しくした。彼女の持ち込んでいたスーツケースの位置もズレていたから、きっと同じことをしたのだろうと思うとそれもまた面白おかしくて再び笑ってしまった。

 9600円の休日前の料金を妙に新しい両替機という名の精算機に新しい10000円札を差し込んで支払いを済ませる。私はこの新しい紙幣がお気に入りだった。正直に言えばセンスのないデザインであることに変わりはないのだが、文化的側面と実用的側面を兼ね備えたこの新札は高齢者と障碍者とそして酒で酩酊して支払い紙幣を探す酔っ払いには紙幣額が理解しやすかった。お目にかかることが少ない10000円は脇に置いておくとして、新紙幣の1000円は特に良い、裏面の葛飾北斎「富岳三十六景神奈川沖浪裏」の描かれた紙幣、中心に配された透かしの円形が太陽のようでもある。それはまるで「新富岳三十六景神奈川沖浪裏」と言い表しても良いだろう。お釣りで出てきたのも新1000円札であって裏面を上にして吐き出されたので、私はしばらくそれを眺めたのだった。

「ねぇ知ってる?」

「なに?」

 彼女は私の手にあった1000円札を取り上げると北里柴三郎の肖像画の表面へとひっくり返してから透かしを指さしたのだった。

「これ、鏡に見えない?」

「鏡?」

「そ、男は間近で鏡を見るの、でもね、女は少し離して鏡を見るのよ、私、津田梅子の書かれた新5000円札がお気に入りなのよ、鏡のデザインも五角形で可愛らしくて、厳しそうでいて優しそうなそんな姿、厳めしい男に囲まれて可哀そうだけれど」

「そんな考えには至らなかったな、今度、見てみるよ」

「今見たらいいのよ」

 彼女はそう言って自らの財布を取り出した、革でできて良く使い込まれた、しかし、手入れを怠らなかったのであろう赤い財布、その手入れに強い愛着を感じる長財布を開いて新1000円札をしまうと数枚入っていたお札の中から新5000円を取りだして差し出してきた。

「貸し借りはなしにしたいの」

 そう言って差し出された新5000円、それを私は素直に受け取ることにした。

「うん、分かった。受け取らせて頂こうかな」

 素直にそれを受け取った私は手入れとは程遠く使い込んだだけの財布にそれをしまった。

「嬉しいわ、素直に受け取ってくれる人、中々いないから」

「そう、それならよかった」

 そう言ってドアを開けて、夏の日差しが照り付け始めた世界へと出た。瞬間的に沸騰させるような暑さが程よい冷房で冷えていた体から、まるで氷の入ったコップが結露して水滴を滴らせるかの如く汗を沸き上がらせた。

「暑いわ」

「朝だってのに、さすがは真夏、8月の熱気だ」

 そうね、とでも言いたそうにあきらめ顔の彼女の手を握って私達は暑い中をホテルから少し先にある市営の駐車場方向へと向かった。私は2人分のスーツケースを引きながらホテルの敷地から出て田舎にしては交通量の多い二車線の主要道の歩道へと出た。互いに無言のままで細い路地へと入り、暫く耐えながら歩いてゆく、彼女はピンク色のフェイスタオルで首元や顔の汗を拭いながら前を歩いてゆく、ときより、拭き取られる前の首筋に浮かぶ玉のような汗が光って、妙な、本当に妙な色香を醸し出した。半袖でない、長袖のブラウスは両腕に少し張り付いて、薄絹越しの素肌のようであり、日の光に照らされるソレもまた妙な艶めかしさだ。8分くらいを歩いたであろう、やがて平屋建ての古いJR高山本線の飛騨金山の駅舎の前にでた、WELCOMEと書かれた駅前の道路を跨ぐ看板の下を通り抜けて、元は土産物屋であったのか、作りがそれに似ていて、軽食と喫茶と書かれた看板の店へと入った。

「いらっしゃい、好きな席に腰かけてください」

 人の良さそうなおばさんがそう言って迎えてくれる。冷房が良く効いていて汗が冷る、熱を持った体にはとてもありがたかった。彼女もほっとしたような顔をして一緒に近くの対面の二人掛けの席へと腰を落ち着けた。

 おしぼりとどこにでもある昔ながらの氷水の入った手のひらサイズのガラスコップが卓上に置かれた。注文が決まったら呼んでくださいとどこでも聞く声に頷いて、私はメニュー表を眺めた。

「私はサンドイッチとアイス珈琲でいいわ」

 特段メニューを見た訳でもない、彼女はただそう言った。まるで、いつもそうなの、とでも言っているように聞こえた。

「よく来るの?」

「初めてよ?でも、だいたい、どこに行っても朝はこのメニューなの」

「なるほど」

 気を使わないその言い方に私は好感を抱いた。誰かの手前に合わせる訳でもなく、ただ、いつも通り、普段通りの不自然さが一寸も感じられない声だったからだ。

「私も同じにしよう」

「選んでいいのよ」

「互いに選ぶなら考えるけど、でも、今食べたいものはそれなんだ」

「そ、注文お願いします!」

 そこからは特に記すことは無い、ただ、2人で朝食を静かに食べた。いや、朝食を摂ると言った方が適切かもしれない。とにかく無言で、互いにスマートフォンを見て入っていた連絡に返事を出し、おしぼりで手を拭き、卓上に置かれたサンドイッチと珈琲を食べ飲んだ。手慣れたようにサンドイッチを食べる彼女は確かに板についていて、どこに行っても朝はこのメニューという言葉の裏打ちをしているようであった。

「あ、両面宿儺」

「ん?」

 食後の最後の珈琲を飲み干そうとしたとき、彼女が不意に壁に貼られたポスターを指さした。仏師である円空が彫った両面宿儺像が円空佛特有の温かみのある笑みを浮かべていた。飛騨高山とさるぼぼ、そして高山の古刹の名前が記されていた。飛騨違いであることを理解していないのかと思ったが、そうではないようで、彼女はそのポスターの両面宿儺の顔に見入っていたのだと言うことに気がついた。

「好きなの?」

「あまりよく知らないわ、でも、円空佛は好きよ、円空佛は知ってる?」

「もちろん知ってるよ。帝都で良く見たからね」

「帝都?」

「あ、東京のこと、別に深い意味がある訳でもないんだけど、東京というより帝都と言った方が落ち着いた都市であるように思うんだ」

「どういうこと?」

 円空佛の話題から彼女は私の帝都の一言とそれに纏わる言い訳に酷く興味を抱いたようで、顔を突き出すようにして聞いてきた。妙なところで食いついてくるものだと思いながら、別段面倒臭くもなく、理解もされないかもしれないとも思いながらも自説を口にすることにした。

「帝都の帝(みかど)という文字は感じの作りからは些か離れていると思うけど、こう、ずっしりと重たいような感じがしないかな?都とという一種の華やかさなどを帯びた漢字をしっかりと上から抑えて、都市が暴走しないように、いや、礼節を失わないようにしている気がするんだ。小学生の修学旅行で京都へといったのだけれど、その時に京都という漢字を漠然と見て、都という文字を京の字が優しく包み込んでいるような気がして、そしてその時にちょうど「帝都展」というアニメーションの一種のポスターを見た時に、ああ、ここは東京ではなく帝都がピタリと合うんだとすんなりと受け入れてしまって、それ以来、たまに口をついて出てしまうんだよ」

「面白い説ね、でも、どうだろう、帝都……とことなくその言わんとするところは理解できるわ。漬物石みたいに考えると面白いわね」

「漬物石か……考えたこともなかったな」

 面白いことを言ってくれる、確かに都は発展を続ける都市だ。京都は1200年以上の歴史を誇り、そして東京も遷都から一世紀以上は過ぎている。歴史家は激怒するかもしれないが、歴史というものは確かに発酵と熟成なのかもしれない、それが都市を作りやがて発展を遂げるのだ、ただ、今の東京は熟成を失敗し腐敗へと進んでいるような気がしてならなかった。腐る都、腐都東京、そう思い浮かべるとあながち間違いでもない。利益と自益のみを追い求めるだけの都になっているような気がしてならなかった。

「ねぇ、そう言えば東京、あ、帝都に住んでるの?」

「東京でいいよ、変に思われるからね、そうだね、東京の会社に勤めているんだ。出身は愛知県の豊橋だけどね」

「そうなんだ、私は……、今は住所有定無職って感じかな」

「住所有定無職、面白い言い方だね」

「気にはならないの?」

「なにを?」

 笑みを浮かべてそう言った彼女は私の返事に急に狼狽した。それはまるでどうして不思議がらないのだろうとでも、いや、それが当たり前であるはずなのにとでも言いたそうであった。

「だって、無職なんだよ」

 急に世俗的なことを言うものだと私は驚いた。

「無職が何か悪い事かい?そりゃぁお金がないとか色々と不安にはなるだろうけど、でも、それは本人の問題であって、周り、いや、今まさに目の前にいる私になんら迷惑とはなっていないと思うのだけど?」

「それは……」

「まったく務めたことがないというならそれは問題であるかもしれない。でも、今の姿はつい最近まで働いていたか、もしくは就活中なのかもしれない、どちらにしろ、働く意欲とそれを探す実行力がある、無職を笑うことは簡単だけれど、だからといってそれは軽蔑するような言い方で一緒くたに否定する必要ないと思うんだよね」

「それは……」

「猫も杓子もすべて同じように考えるのは良くないと思う」

 そう言った途端に彼女の表情が崩れた。こう、泣くでもなく喚くでもなく悔しさでもなく、何とも言い表しようがない、なんと例えればよいのだろう。とにかく複雑怪奇な感じで会ったことは間違いなかった。

「あの、今日一日時間はあるかしら?」

「出張は終わっているからね、日曜日の夜までに東京に帰ればいいから十分過ぎるほどにあるよ」

「そ、じゃぁ、少しだけあなたの時間を貰えるかしら」

「もちろん、いいよ」

 その答えを聞いた直後だった。席を立ちあがった彼女が手を差し出してきた。それは間違いなく握手で指切りげんまんのように約束めいたモノを帯びていた。

「今日一日よろしく」

「うん、お願いします」

 その差し出された、昨日もベッドの上で激しく握りしめた手を優しく握って私達は約束を交わした。店のおばさんが不思議そうな顔をしてそれを見つめていたけれど、その視線は気にならなかった。

店を出た私達は駅前の駐車場へと向かった。私の愛車、トヨタの赤いヤリスが駐車場でその色の熱を帯びるかの如く光っている。ドアレバーに手を添えて鍵を解除して、後部座席に互いのスーツケースを載せる。私は運転席に彼女は助手席に座った。窓をすべて開けて籠った熱を流れてきた温風で追いやって、窓を閉めるとエアコンのスイッチを入れた。

「どこに行こうか?」

 行先を定めない昨夜からの続きの旅、彼女は不意に何かを思い出したようにスマートフォンを操作して私に指示してきた。

「ここへ、連れてって欲しい」

「どこ?」

 スマートフォンの画面に映し出されていたのは遺跡だった。[岩屋岩陰遺跡]と書かれていて古代の天文台の跡の遺跡だと記されていた。どうして、とか、なぜ、とかそんな無粋なことを言うつもりなかった。ただ、彼女の不安そうな視線に頷くと、ホテルで見た観音のような微笑みが浮かんでそれを見て私は嬉しかった。自らのスマーフォンを車にケーブルで繋いでマップを操作してカーナビを起動する。22分で到着予定と表示されていた。

「じゃぁ、行くよ」

「うん、お願いします」

 車が飛騨金山駅前の駐車場を出た、国道256号線を少しばかり走り、やがては馬瀬川沿いの県道86号線をひたすらに山へと走っていく。日差しは厳しい、だけれども山々の緑と川の水の色は美しく、ときより川の光の乱反射が波の乱反射のようにも見えていた。通り沿いの歩道は背の高い雑草に覆われていて、時よりすれ違う大型トラックの多さに驚いた。無言の車内というのは辛い、だからと言って、何かこう気の利いたことを言うべきでもないと思った。その無言というものはある意味では必要なことであったのだ。選手が準備運動をするかの如く、書きはじめるにあたり作家が思考するかのように、である。

 10分くらい走った頃だっただろうか、ついに無言思考の時は解除されて、彼女が口を開いた。

「私ね、昨日で仕事を終えたのよ。最低なことに不倫の同罪とされてね」

「そうなんだ」

 ただ同意した。彼女は助走をつけて走り始めた、あるいは一行目をようやく記したのだ。

「付き合っていた先輩がいたの。2年前に本社から出向で来ていて、出会って暫くしてから猛烈なアタックされてそう言う関係になったの。素敵ない人だった、この人ならこの年齢だから将来を考えてもいいかもしれないと考えてさえいたの、でも、それがうわべだけの間違いだって気がついた時には遅かった」

「相手に奥さんがいたんだ」

「うん、子供もいた、それも2人も。奥さんと子供がね、サプライズで支社に来たのよ。誰一人として彼が結婚してたなんて、もちろん、子供がいることさえ知らなかった。本社出向できていたからみんな知らなかったの。しんと静まり返った支社の雰囲気を感じ取った奥さんが彼を呼びつけてね」

 彼女が一息置くように、何かこう恐ろしいことを語る前の間を置くようにして唾を飲み込むように喉を鳴らした。

「アナタ、またやったの?今度はだれって?」

「それは……」

 言葉に詰まってしまった。想像していたよりもさらに悪い、胃の中が溜まらずムカムカとして喉に変な違和感が籠る。

「彼、私を指さしてから、そそくさと子供を連れて外へと出ていったわ、私は近寄ってきて目の前に立った奥さんの眼前で小さくなるしかなかった。綺麗な人だった、その顔が般若みたいに歪んで恐ろしくなって、アナタ、今日で退職、クビよって」

「え?どういうこ……」

 理解が追い付かなかったどうして一介の社員の妻がそんなことを言えるのかと思った、けれどすぐにその答えが返ってきた。

「彼女、社長の娘さんだったのよ。娘さんで取締役の末席に名前だけある人、けれど、立場はある人、昼には支社長から呼び出されて退職になったわ。その場にも奥さんが居てね、懲戒よって言ったけれど、支社長が社長の派閥でない人だったらしくて、それではあなたの夫も処分するがいいのか?って食ってかかってくれて、あとは言い合いの大げんかよ。3時間くらいは本社も含めてもめていたけれど、私、馬鹿馬鹿しく思えてきて、会社都合なら退職しますよって言ってやった。ダメだったら裁判までって言ったら、奥さんは戦ってやるっていって机の上のモノを投げつけてきたわ」

「やられっぱなしじゃなかったんだろ」

「うん、投げつけられたものを拾って投げつけてこう言ってやったわ。奥さんで満足できないから他の女に手を出すんでしょうね。きっと病気よって。私はそのまま退職処理の書類にサインして机の上を片付けて、後輩に引継ぎだけして、家に帰って、不思議がった父と母の顔を見て居た堪れなくなったの、それで荷物纏めて急な出張が入ってって言って家を出たの」

「壮絶としか言えないね……」

「で、名古屋から電車に飛び乗ってここまで来たら真っ暗になっていた訳、そうしたら丁度、酔っぱらった貴方を見つけたの」

「駅前で丁度別れたところだったからね」

 地元企業の方々と懇親会を終え駅前に送ってもらったところだった。駅前に車を残して数駅先下呂温泉のホテルへ予約の電話をしようとスマートフォンを取ったところで、彼女から声を掛けられたのだった。

「力んだ後って死にたくなるのよ。私も御多分なくそうだった。でも、あいつに抱かれたままで死ぬことだけは絶対に嫌だった」

「で、選んで貰えたわけだ」

「ごめんなさい、気分悪いわよね。誰かの代わりに……」

「いいんじゃないの?」

「え?」

「いきなり駅の自販機で女性が1人でワンカップを買ったのを物珍しく眺めていたら、一気に飲み干して私に声を掛けてきた、やけっぱちなんだなってことは十分に分かった。そこで断らなかった私も私だよ、結局、欲に撒けて手を出したんだ」

「優しいのね、でも、あの場で断られていたら惨めすぎて電車に飛び込んだと思うわ」

「酷いことを素直に白状するなら、タダで抱ける女が飛び込んで来たって内心喜んでいたよ」

「最低ね」

「最低だろ」

 2人してクスクスと車内で笑った。久しぶりにここまで心から笑った気さえするほど、空気の入って膨らみ過ぎた風船が空気を一気に漏らして縮むようにスッと何かが胸の中から出ていった。

「アナタより先に目が覚めて、出て行こうと考えたのだけどできなかった。その時も死んでしまおうって考えていたのだけど、もし、本当に死んだとして、今度は貴方の傷になってしまう可能性がある。それは嫌だなって……」

「優しいね」

「優しくないわ、我儘よ」

 そう言って笑った彼女の表情は柔らかくてとても可愛らしかった。もしハンドルを握ってなくてホテルで目の前にその笑顔があったならベッドへと押し倒してしまいたくなるほどの魅力的ものだった。

「さっきね、朝食を食べていたら噂を聞いた父から連絡が入っていたの。優しい父だから責めるようなことは書いてなかった。ただ、無職になったことも気に病まなくていいって書かれていたその無職の一言が、今までの人生を否定されたみたいで、そのあとで貴方に変な風に聞いたの」

「だからあんな変な言い方をしたのか、けれど相談した相手が悪かったね」

「ふふ、本当にそう思う。まったく意図しなかった返事が返ってきて、もう少しだけ一緒に過ごすのも良いのかなって思わせてしまうほどに」

「それは光栄だね」

「ねぇ、モテないし、良く損をする性格って言われない?」

「それについてはノーコメント、だけれどモテない訳じゃない、隣に座っている女に声を掛けてもらえるくらいだからね」

「誰でもよかったって言ったら?」

「お前を殺して俺も死ぬ」

「うわぁ、怖い」

 再度2人で笑った。シリアスな話をするには車内は狭すぎたし、太陽は明るすぎたし、緑は鮮やか過ぎていた。やがて車は馬瀬川第二ダムと青看板に記された道へと入って行く。緑の濃さは増し影もできるが、蝉の声と木々の間から見える空の青さがシリアスを遮る。

 上り道に入ってハイブリッドのエンジンがかかり音が響いた。その振動に会話が途切れると再び車内は無言になった。ただ、ときより外を見つめの彼女から鼻を啜るような音が聞こえてきていた。

『目的地に到着しました』

 先に声を掛けたのは私でも彼女でもなく、ただ、カーナビゲーションだった。細い道を下った先に大きな岩、いや、巨岩と記すのが正しいだろうか、本当に巨大な岩があった。

「ついたよ」

 路側帯に車を止めてサイドブレーキを引きパーキングにする。彼女は顔を見せないままで「うん」とだけ短い返事をすると、助手席のドアを開いて外へと駆け出して行った。慌てて追うこともなく、私はそのまま暫く車内で椅子に背を預けたままで目を閉じた。何も考えることもなく、ただ、しばらくそうしたのちにエンジンスイッチを押して切り運転席から外へと出た。蒸したような熱が押し寄せてくる。近くに小川が流れているのだろう、水音が聞こえるけれどその音が涼しさも涼風も運んでは来てくれなかった。

 スマートフォンをポケットに入れて妙見神社と書かれた石柱を見て鳥居で一礼をして潜った。参道の石段を昇りながらやがて昔本殿があった跡であろう規則正しく並んだ礎石のあるところまで登った。礎石の1つに彼女が座って空をぼんやりと見上げていた。声を掛けることもなく、私はそのまま参道をさらに上がって巨石に挟まれて背後の巨石に覆われた、そう三方を巨石で囲まれた小さな社殿の策の前で参拝を済ませた。再び彼女が座っている礎石跡の辺りまで降りると、彼女はその場に立って真摯な視線で私を見ていた。

「ここはね、昔の天文観測の施設だったの」

「来たことあるの?」

「大学の時に友人たちとね」

「そっか、楽しかった思い出の地だね」

「うん、そう、そして、彼とも来たことのある地」

「なるほど。で、気分はどう?」

「分からない、ただ、いい気分ではないわ、でも、なんと言ったらいいのか、分からない」

「分からないが気分なんだよ」

「え?」

「分からないっていう気分だということだよ」

 私はそう言って空を見上げた、この岩屋岩陰遺跡は整備されているおかげで周りの木々の間にぽっかりと空いた穴のようになっている。だから空は見えていて青空とちょっとした白い雲とそして蝉の声と暑さと微風があった。

 そして動くことのない、いや、不動の巨岩がそこに聳えていた。

「この巨石は4500年も前の頃にどこかから運ばれて来たらしいの」

「こんな大きなものを?」

 人間が手を繋いで40人以上で外周を囲う必要ではないかと思えるほどの巨石たちを据えたのだと思うと驚きを隠せなかった。

「うん、そして、天体観測をするように配して、古代の天文台を作り上げたのよ」

「壮大だねぇ」

 2人して参道を降りて案内板のところまで向かう。そこに詳しい内容としばらく歩くとビジターセンターのような詳しいことが書かれた小さな小屋のようなものがあって、観測の仕方などが事細かに説明されている。

「観測者は大変だっただろうなぁ」

 私は説明を読みいたく感心してそのように言葉を漏らした。

「どんなことを考えたの?」

 彼女がそう言って私をジッと見つめた。何かこう期待しているようなそんな眩しい視線だった。

「集落から離れていたそうじゃないか、だから、山に登り観測をしてそれを暗記して下った。集落に季節を伝える大切な仕事、金なんてものもない、絵を描くわけでもない、夜の闇にも耐える必要もあるし、野生動物に対しても警戒をしなきゃならない。きっと命がけだった。私は今、簡単にここに来てここに立って、馬鹿みたいに凄いなぁとしか言えないけれど、きっと生きていた観測者が聞いたとしたら、石斧で頭を叩かれるだろうなぁ」

「そうかもしれないわね……」

「でも、私はソレが分からないんだ」

「え?」

「その当時にあったこともましてや気持ちなんて、想像するだけでそれが正しいのか、正しくないのか、間違っているのか、間違っていないのか、そんな事すら分からないんだよ」

「それって……」

 私は彼女に振り向いてその眼差しをしっかりと見つめた。彼女もまた不安そうな眼差しで私を見つめてくる。互いの視線が交差して何かこう繋がった気がした。

「分からないことは分からないでもいいってこと、分からなければならないことは確かにある。だけれど、それは不変の価値を持つものだけで十分だと言うことだよ。自らの事なら突き詰めてすべてを把握する必要はない、分からないなら分からないでいい、いつか理解できるかもしれないし、理解できないかもしれない。でも、それはここが天文台であったときに観測した星々と、今の星々が違っていても観測できるように、この巨石たちのように君が君であればいいんじゃないかと思うんだ、だから、もう、思考するのは止めるべきだと思う。私の言葉はきっと理解できないかもしれないけれ……」

「理解できるわ」

 遮るように彼女はそう言ってからポロっと一粒の涙を落として、そのまま苦しそうな笑みを浮かべたのだった。

「分かりたくないもの、だって、分かってしまったら、惨めになるだけじゃない、分かったとしてなにかをできるわけでもない」

「うん、そうだね、それでいい」

「うん、それでいいのよね」

 ビジターセンターから手を握りながら私達は連れ立って出る。そのままもう一つの巨石と巨石の間を縫うような小道を歩いた。暑さも何もかも気になることはなかった。ただ、握り合った手が嫌悪感のない熱を持っている。

「ねぇ、分からないって不安なのよ」

 彼女が立ち止まってそう言った。もちろん、そんなことは百も承知であったから私も一歩先で立ち止まって、彼女の手を引くような姿勢のままで首を廻して振り向く。

「もし、許してくれるならこの行きずりの男としばらく歩いてみるってのはどうだい?このまま別れてしまっても、連絡だけになってしまっても、私は不安で、きっと考えてしまって傷になるだろうから」

「卑怯ね」

「ああ、卑怯だね、でも、卑怯でもいい。しばらく傍に居るためなら何だってするよ」

「私も同じだわ」

「じゃぁ、卑怯者同士よろしくということで」

 互いの握っていた手を解いてからお互いを真正面から見合う。喫茶店で交わしたように再び手を差し出して互いに握手をした。互いが互いに優しい握り方でそしてきつく縛った紐の結び目のように強固な約束を交わした。

「天文台が観測をするように、お互いに観測してみよう」

「面白いこと言うのね」

「でも、いいだろう。君だけじゃ不公平だよ、私だって分からないことはあるからね、そこは観測して貰わないと」

「どう観測して良いか分からないけれど、でも、見つけて見せるわ」

「頼もしいね、お願いします」

「そのかわり、いきづく明日もそのまた明日もきちんと見ていてね」

「うん、面白いね、それ」

「え?」

「いきづく明日もそのまた明日もってこと」

「たまたま思いついただけよ」

「いや、この天文台のある場所に相応しい言葉だよ」

「どうして?」

 私は空を見上げて彼女も空を見上げた。いつの間にか先ほどより雲が出てきて雲の中心にぽっかりと穴が空いていた、光の加減でその青はまるで宇宙空間に近い深い青が見えた気がした。

「天文観測はさ、繰り返しの毎日を続けていくことだから」

「そういえばそうね」

 腑に落ちたように納得した彼女は深く深く頷いてから、ふっと思い出したように私を見た。私もそれに気がついて視線を合わせる。柔らかな微笑みを湛える顔がそこにあった。

「桂川観音(かつらがわ・かのん)よ」

「辰巳義明(たつみ・よしあき)だ」

 握ったままの手を再度しっかりと握り直した。その手は新しい出会いを祝福するように、または、約束を再確認するかのように、そして分からないようでもあった。

「「お互いによろしく」」

 古代の天文台はまた観測する場所となった。いずれまた2人が訪れた時に起点となったこの場所で互いの観測結果を披露しあうことになるのだろう。


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