記憶を払う

驟雨

第1話

「えーっと、田山俊、二八歳、男、死因交通事故。地球の日本って国の子ね。へー、なかなかいい国じゃない。豊かだし街の治安もいい。けど人間の子は久しぶりだからちょっと手こずりそうだな。」

 真っ暗な闇の中に浮かぶ一つの机を二人の人間が囲っている。私と目の前の少年だ。正面に座る少年はかなり古風な服を着ている。甚平と言うのだろうか。いや男性用の浴衣と言うのが一番適切だろう。その少年は木でできた机に向かい、分厚い本を捲りながら私の個人情報をブツクサと言っている。お互い椅子に座り机を囲んでいるので何処か面接のような緊張感がある。周りを見渡しても何処までも真っ暗で何もない。一つあるのは少年の後ろの大きな鏡である。円形で直径は三メートル近くあるだろうか。縁にはかなり丁寧な装飾がされている。鏡は何か写すわけではなくただぼんやりと闇の中にいる。

「あの、」

 一人で本を捲りながら喋る少年に声をかける。少年が口を開く。今度は独り言ではなく私への返事を。

「今、君の資料を見ているんだけど。何かあったかな。」

 開いた本から顔を上げないまま少年は話す。

「ここって何処ですかね。」

 あたりの闇を見回しながら私は聞く。なんとなく察しはついているのだが聞かずにはいれなかった。

「あぁ、説明がまだだったね。ここは死後の世界、君たちの国の言い方に沿うと地獄と言うのが一番近いのかな。と言っても君を針山地獄なんかに送ろうって訳じゃない。君の人生を見て話して、君が来世何になるか決めるのさ。肩の力抜いて臨んでくれよ。」

「はぁ、なるほど。」

 さらりと話された事に気の抜けた返事を返す。もしやと思ったがやはりそうだったか。トラックに轢かれ気がつけばこんなちんぴな所にいたのだ。いやでも察してしまう。しかし本当に死後の国があろうとは思わなかった。死後の国など昔の人々が死の恐怖から生み出した幻想だと思っていたのだが、世の中わからないものである。

「そういえば客人がきているというのにお茶の一つも出していなかったね。」

 突然目の前の少年はそう言うと机上のベルを鳴らす。チリンチリンと小気味良い音が鳴り、少しすると闇から人影が浮かび上がってくる。骸骨だ。闇から突然お盆を持った骸骨が現れた。骸骨はお盆に置かれた饅頭と器を私の前に置くと、器に急須でお茶を淹れる。そうするとお辞儀を一つしてまた闇へ消えていった。

「どうぞ。食べてくれ。これも来世に向かう為の一環だからね。もし甘いものが苦手なら煎餅でも持って来させるけど。」

 突然の出来事に何処か放心状態の私に少年は言葉を投げる。我に返った私は一言礼を言ってから饅頭に手をつける。饅頭の控えめの甘さが口に広がる。粒あんだった。うまい。骸骨の淹れた茶は暖かくほんのりとした苦味が饅頭にあっている。

「さて、食べながら答えてくれたらいいんだけど。君は来世何になりたいか希望はあるかな。」

 口に残る饅頭を咀嚼しお茶で流し込んでから私は考える。来世か。私は思いついた事をそのまま口にする。

「あの、来世で死んだらその後はどうなるのでしょうか。」

「またここに来る事になるね。そしてまた次の来世に向かう事になる。」

「その来世でも死ぬと。」

「また同じ事の繰り返しだね。」

 少年は答える。なんとも味気ない答えである。死んでまた来世を生きて死んで、その繰り返しであるなんて何処か悲しく感じる。まるで終わらないマラソンのようだ。てっきり私は死後の世界ではもっと悠々と暮らせるものかと思っていた。

 何処か悲しい気分になりながら、私はまた思いついた事を口にする。

「先程この饅頭を食べるのも来世に向かう一環と言っていましたけど、それはどういう事ですか。」

「あぁ、それ。それはね、今から来世に向かうにあたって君は今世の記憶を全て失う事になる。その為に君には死後の世界に依ってもらった方が都合がいいのさ。そのためにこちらの国の物を食べてもらいたくてね。ほら旅行に行ったらその土地の物を食べるようなものだよ。その土地の物を食べ、その土地の住民の生活の真似をする訳だね。」

 少年の言葉に私は気づきを得る。そうか私はこれまでの記憶を失うのか。当たり前の話ではあるが嫌な話しでもある。私のこれまでの人生に何か絶対忘れたくない記憶があると言うわけではない。記憶で言えば思いも出せないくだらないものが大半である。しかしこれから私は死ぬ度に記憶を失うのである。これを苦行と呼ばずなんと言おうか。地獄には人に河原の石を積ませ、かなり高くまで積むと鬼がそれを倒してしまいまた最初から積み直す地獄があると聞いたことがあるが、まさしくそれではなかろうか。

 小さな絶望にぶつかる私を差し置き少年は言葉を続ける。

「で、君は来世では何になりたいんだい。やはり王道をいく人間かな。人間はまた人間になりたがることが多いからね。」

「……そう、ですね。」

 心ここにあらずなまま私は言葉を返す。少年は手に持っていた本をペラペラとめくる。

「えーっと、人間ね。ちょっと待ってて。うーんと、あったあった。ちょうど君にいいものがある。今世と同じ日本だ。これでいいかな。」

 そう言いながら少年は一枚の紙を差し出してくる。その紙には私の来世の事が大雑把にだが書かれている。性別やある程度の身体情報。生まれや親の事も少し。それを見て私は少し笑ってしまう。まるでこれでは不動産を探しているみたいだ。

「はい。これでお願いします。」

 一枚の紙に笑った事で私が少し調子を取り戻し、少しばかり元気に返事をする。

「わかった。じゃあ君の来世はこれでいいとして。最後に少し自己紹介をお願いできるかな。名前、年齢、生まれと職種について簡潔に頼むよ。」

 テキパキと少年は話を進める。少年に促されるまま私は口を開く。

「ええと。田山俊。年は二八、生まれは……」

 そこで私は言葉が詰まる。何故か続きが出て来ない。

「生まれは……」

 言葉を繰り返してもやはり続く物はない。生まれ、育った街の景色は思い出せるのに肝心の地名が出て来ない。そんな私を見て少年が口を開く。

「生まれはもう言わなくて構わない。職種について話してくれ。」

 私はその言葉に飛びつくように少年の質問に答える。

「えっと、職種は……その……、」

 だが職種も思い出せない。数年勤めていた会社の事を私は何も思い出せないでいた。むず痒いと同時に恐怖でもある。何故私はこんな大事な事を忘れているのか。私の様子を観察するように少年が話す。

「うんうん。ちゃんと記憶を失くしているようだけどまだ不十分かな。」

 少年の言葉で、私はやっと現状を理解した。私は記憶を失っているのだ。同時に自分が死んだという事実がひしひしと感じられた。私は今来世に向かっているのである。来世へと一歩進む毎に記憶が欠けていく。怖い。死ぬ事が、記憶を失う事が、また来世を生きる事が。積み上げてきた記憶が失われていくのがただ恐ろしかった。

 少年は立ち上がり、私に歩み寄ってくる。気づけば向かっていた机も闇に消えていた。

「さて、仕上げといこうか。立てるかい。うん大丈夫そうだね。じゃあこの鏡を見て。」

 少年に手を取られながら私は鏡へと向き合う。少年の言葉から察するに私はこれから完全に記憶を失う。それが怖い。積み上げた人生を簡単にわすれるのが怖くて虚しくて泣きそうになりながら鏡を見る。鏡には私が写っていた。涙を流す私が。こんな大人になっても泣いているなんて恥ずかしい。……あれ、そう言えば俺は何歳だっけ。

 少年の声がする。

「よしじゃあ鏡に向かって歩こうか。大丈夫。鏡にぶつかっても足を止めないで。」

 その言葉のまま鏡にぶつかる。しかし鏡には実体がないようで水面にぶつかるかのように通りすぎてしまった。鏡の向こうにも闇が広がっていた。闇の中に二人の人間の姿が見れる。両親だ。両親の手には赤子が抱えられている。両親が赤子に嬉しそうに何か喋りかけているのをぼんやりと眺めていた。先程まで俺は何故か悲しくて、虚しくて、怖くて泣きじゃくっていた気もするのだが、何故だろう。思い出せない。

 また少年の声がする。

「生まれたばかりの記憶か。やはりどんな生物も最後まで忘れないのはこれなんだね。」

 そう言いながら少年が二人の大人をそっと撫でる。すると撫でた所から闇に溶けて見えなくなった。ところでこの少年は誰を撫でているのだろうか。知っている人の気もするのだが思い出せない。最近思い出せない事が多い気がする。それも思い出せないが。

 二人の大人を闇に溶かした少年は最後に、闇に浮かぶ赤子をそっと撫でると赤子も消えてしまった。少年がこちらに声をかける。

「君は誰かな。」

 少年の言葉に答えようと口を開く。

「えっと、僕は……、ぼ、くは」

 だが言葉が見つからない。満足気に少年は頷く。

「うん。大丈夫そうだね。じゃあ。後ろの鏡まで歩いて。鏡にぶつかっても足を止めないでね。」

 少年の言葉に促されるまま私は後を向く。確かに鏡だ。円形の大きい鏡だ。三メートル近くはあるだろう。縁にはかなり丁寧な装飾がされている。

 しかし何故だろう。大事な物を失くしている気がする。何かに怯えていた気もする。

 鏡に歩く私に少年が声をかける。

「大丈夫。失くしたものもまた見つかる。信じて歩くんだ。」

 少年が言うならそうなのだろうと私は歩く。失くした物を探す為に。心は晴れやかだった。

 何処からか声がする。

「思い出しても。また失うぞ。」

 知らない男の声。何処か悲しくて、虚しい。だがどうでもいい、この声は私ではない誰かなのだから。

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