🔮パープル式部一代記・第七十六話

 小式部内侍こしきぶのないしは、かなりぎこちなくはあったが、和泉式部を母として無事に裳着もぎを執り行っていた。そしてそんな彼女に賢子かたこと紫式部は、ひたすら圧倒されていた。


小式部内侍こしきぶのないしちゃん……裳までうっすらイワシ柄、刺しゅうのイワシが青海波の波間に浮かんでる……」

「凄いな……イワシ柄の裳唐衣もからぎぬ十二単じゅうにひとえとは……やはり和泉式部は、ひと味もふた味も違う……これが伝説の女が繰り出す圧倒的とやらか……勉強になる……あとでメモしよう……」


 後日、小式部内侍こしきぶのないしは大恥をかいたとプリプリしていたが、ふろころの深い保昌やすまさの仲介もあり、まあ、ほどほどに母と付きあうようにはなっていた。


 しばらく「いわし内侍ないし」なんて、ヒソヒソされていたらしいが……。


小式部内侍こしきぶのないしこそかわいそうな娘だな」そんなことを、あとで話を聞いた道長が言ったとか、言わなかったとか。


 史実と同じように成人した賢子かたこと、小式部内侍こしきぶのないしは、もてまくっていた。


「こんなしょうもない恋文……紙がもったいない……真っ白なまま、ふみをくれればいいのにな……」

「母君……」


 どっさり届く恋文こいぶみへ、賢子かたこが巧みに源氏物語の引用を入れて返事を返しがてら、物語の宣伝に励んでいると聞いた紫式部は、賢子かたこにきたふみをもらって裏面を再利用しながら、そんなことを言っていた。


***


 そして、『権・紫式部卿』、根暗の紫式部は相変わらずいつも乱れた生活習慣を送りながら物語を書き続け、バカさまはバカさまで相変わらず暗黒闘争を続け、少し手こずりはしたが、彼は、おのれの野望を成し遂げようと抱えるやまい、酒の飲みすぎによる飲水病(糖尿病)で悪化し続ける体調も顧みず、無理に無茶を押し通し、ひたすら走り続ける。


 ***


 寛弘五年(1008年)中宮・彰子あきこは、一条天皇の第二皇子になる敦成親王あつひらしんのう(後一条天皇)を出産。同六年(1009年)、第三皇子・敦良親王あつながしんのう(後朱雀天皇)を出産。


 同八年(1011年)定子の産んだ敦康親王あつやすしんのうは、実子と変わりなく大切に育てていた中宮・彰子あきこの遅れてきた反抗期、そんな父の道長への抗議や健闘むなしく、道長の圧もあるが、後見のなさが最後まで響いて、ついに立太子は叶わず、せめてもと最高位の親王、一品親王いっぽんしんのうくらいを送られ、なに不自由のない風雅の中に暮らすこととなり、中務卿なかつかさきょうであった六条宮の娘、祇子女王のりこにょおうとの間に、嫄子女王もとこにょおうを持つが、幼い女王にょおうを残して早世。


 寛弘八年(1011年)、一条天皇は病に倒れ、道長やメロスたちの企みに飲み込まれ、ついに出家。太上天皇となるも、数日後に崩御。皇后・定子を土葬にて弔ったと聞いていた太上天皇は、同じく土葬を望んでいたが道長により火葬されてしまう。


「哀しみのあまり、忘れてた……哀しすぎて……うぅ……」


 道長は袖で顔を覆いながらそんなことを言っていたが、周囲は平たい目で道長を見ていた。


 そして、譲位された皇太子居貞親王いやさだしんのうは三条天皇となり、ラフレシア・ 妍子きよこは、長和元年(1012年)に立后されて中宮となるも、今度は、三条天皇がいままでの仕返しとばかりに無印・愛する妃の娍子すけこを、彼女の亡き父、藤原済時ふじわらのなりときへの贈右大臣という、掟破り、死後の出世を無理矢理させて、本来であれば望めなかった立后の資格を持たせると、道長が利用した「一帝二后」の制度を使って皇后とする。


 以後、道長と帝の関係は悪化の一途をたどるが、その最中、ラフレシア・ 妍子きよこが懐妊したため一時休戦。しかし、産まれたのが皇女であったために、ついに関係は破綻しラフレシアも内裏へ帰ることはなかった。


 なお、この皇女誕生の知らせに、いつもラフレシアから姉の彰子あきこは密かに、と笑って幼い息子、親王しんのうたちは、おびえていたとか、いなかったとか……。


 長和三年、三条天皇は重い眼病を患い、ここぞとばかりに道長が譲位の圧をかけはじめる。同四年、内裏焼失によりついに三条天皇は最後の嫌がらせか、元無印、敦明親王あつあきらしんのうを皇太子に立てることを条件に、彰子あきこが産んだ、一条天皇の敦成親王あつひらしんのう、(後一条天皇)に譲位したが翌年には崩御。


 しかし、皇太子となった敦明親王あつあきらしんのうは、早々に道長にKo負けして、みずからリングにタオルを投げ入れ皇太子の座を降りていた。

 あれほど暴れまわっていた黒い流れ星も、外孫、後一条天皇の摂政となり、出力を上げて、ほぼフルスロットル状態に近づいていたには、最早、敵にもならなかったのである。


 なお流れ星は、内裏焼失のときに母の娍子すけこを必至に抱き上げて避難したが、やはり烏帽子えぼしを落としていた。が、すぐにそのあたりにいた他人の烏帽子をかぶって走り去った。そして彼は帝の地位からも流れ星のように去って行ったのである。


 とにかくこれで、いままでふたつの系統、冷泉天皇系と円融天皇系で、交互に継いでいた帝の血統の慣習は潰える。


 長和五年(1016年)八歳で、後一条天皇となった敦成親王あつひらしんのうには、摂政として道長が就任していたが、帝の母となった娘の彰子あきことは、たまに、ぶつかりつつも絶大な権勢を振い続ける。


 後一条天皇には、彰子あきこと道長の意向で、彰子あきこの妹であり、道長の娘でもある、帝の叔母にあたる九つ年上の威子たけこを、帝の中宮に迎えて立后された。


 そう、遂に道長は自分の三人の娘、長女の彰子あきこが太皇太后、次女のラフレシア・ 妍子きよこが皇太后、三女の威子たけこが中宮となり、ひとつの家から三后が並ぶという、前人未到、空前絶後、権力という権力を手に入れ、ここに若き日の本懐を遂げていた。

 

 そして大宴会のあと、遂に道長は、後の世に御堂関白みどうかんぱくと称される男は、


「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば! はははっ! やってやったぜ! 見たかっ! この俺の天下取りを! 半端やろうの大馬鹿やろうが……」


 そう……紫式部は、ひたすら源氏物語を書き続けていたは、志半こころざしなかばで、流行り病に倒れ、物語のあとを賢子かたこに託したまま、とっくに黄泉の国へ旅立っていたのである。


 紫式部日記は、紫式部が書いたであろう……そんな思いで彼女の信者・宰相さいしょうの君が、彼女の筆の跡を真似て書き続けていた。彼女の父は、道長の近い血縁、腹違いの兄という名の丁稚でっちだったので無事に人生を送っていた。


 道長は、自分が建てた法成寺の無量寿院の下に火葬にしたゆかりの亡骸を、密かに持ち出して埋めていた。

 そう……彼は、無量寿院の床に向かって、ひとり言を言っていたのである。


 それからときは流れゆき、満身創痍の道長は、万寿四年(1028年)、法成寺の無量寿院に転がって延々と続く読経を耳にしながら、「まあ、浄土なんて無理筋だろうが、ゆかりも地獄で待っているだろうし退屈はしね――な……ノド渇いた……」なんで思いつつ、「一応、なむなむ……」なんて言いながら、すべての栄耀栄華えいようえいがを鷲掴みにして満足げな笑みを浮かべあの世へと旅立っていた。


 享年六十二歳。


 道長の人生も終焉を迎えた……が、しかし、だがしかし、話はまだ続くのである……。


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