🔮パープル式部一代記・第二十七話


 〈 時系列は、帝が東三条邸ひがしさんじょうどのへ行幸された日に戻る 〉


 御几帳台で、昨日からずっと寝ていた女院さまは、ひとり息子である帝に会えるのを楽しみにしすぎて、ずっとソワソワしていたのだが、実は彼女の知らぬ間に、帝はこっそりと中宮・彰子あきこちゃんを伴って、一度、東三条邸ひがしさんじょうどのへ来ていたのである。


『徒歩で……』


「あの、おかみ……輿こしとか、せめて牛車でも……」

「いや、朕は女院さまの本当のを知りたいのだ。東三条邸ひがしさんじょうどのは詳しいから大丈夫!」

「はあ……」

「すぐそこだし、すぐに帰って出直すから!」


 父、道長が聞けば……と言うよりも、誰が聞いても信じないであろうが、帝は、彰子あきこちゃんを伴って、清涼殿から続く秘密の通路を通り、こっそりと内裏と大内裏を通り抜け、曲がってすぐの「東三条邸ひがしさんじょうどの」まで記憶を頼りに向かう。はたしてそこには、ちゃんと昔育った「東三条邸ひがしさんじょうどの」があった。


 それからやはりこちらも塀にある隠し扉をくぐり、女院さま、母がいるであろう寝殿の母屋を、ふたりで庭の影からこっそり覗いていた。


「この時間なら御几帳台の中にいるはず……あれ?」

「どうかなさいました?」

「なんだか知らない小さい女童めわらと話している」

「あの子、見たことございませんわね……?」


 御几帳台の中にいるはずの母、女院さまは人払いでもしているのか、軽く上になにかを羽織り、見たことのない幼い女童めわらとふたり並んで、庭へとつながる木でできた階段に腰をかけていた。


『どういうことだろう?』 


 不審に思った帝は、あせる彰子あきこちゃんをつれて、ふたりの声が聞こえそうな近くの植え込みに移動する。


 実は、女院さまは汝梛子ななしがやってきたあと、彼女の話がおもしろくて人払いをしてからまだ帝がくる時間でもないと、彼女の「時間稼ぎ」に付きあっていたのである。ふたりが聞き耳を立てていると小さく会話が聞こえてきた。


「……ほう、そなた藤式部ふじしきぶの顔を、母の顔を知ったばかりとな?」

「そうなのでございます。母は、わたくしが赤子のときに出仕いたしましたので……」

「寂しかったであろう……わたしなど息子が赤子であった頃は、静かに寝ているだけで息でも止まってしまったのではないかと心配になり、ずっと横で見守っておった程だ。藤式部ふじしきぶもさぞ胸が引き裂かれる思いであったに違いない……」

「そうにございますか……」

「赤子はか弱き者ゆえな……しかしそなた母を憎むでないぞ。そなたの家は、藤式部ふじしきぶの父である為時ためときが、無職で無収入であったと聞く。わが弟の道長がもし藤式部ふじしきぶを中宮の女房に取り立てねば、そなたもそなたの祖父、為時ためときも立ちゆかなかったはず……そなたの母は、かなりの変わり者ではあるが、それも大切な阿児であるそなたのために必死になりすぎて、ゆえに、尋常でなくなったのかもしれぬな……」

「……わたくしのために?」

「母とはそういう者じゃ。たとえ、おのれが地獄に落ちようとも、すべてに憎まれようとも、なにより我が子が大切なものである……まあ、まだ、そなたには難しいか……とにかく母を憎んでやるな……」

「はい! 汝梛子ななしは母を憎んではおりません! 汝梛子ななしが悩みなく生きていられたのも母のお陰でございます! 父はすでに亡く、頼るべきただひとりの親族であった祖父は無職無収入……いえ、まあそれに、母は出仕前に赤子のわたくしめに、沢山の歌を詠んで置いて行ってくれておりましたので、祖父が読み聞かせてくれるたびに、母の思いがわたくしを包んでくれました……」

「ほう……歌を……」

「これにございます!」


 幼い女童めわらの差し出した、少し古びた箱の中にあったらしき紙に目を通していた女院さまは、まるで涙がこぼれぬように……そんな様子で、遠くの空を見上げていた。遠い懐かしい記憶を探るように……。


 帝は、遠くの空を見上げている母をじっと見つめていた。


「なんと母の愛が伝わる歌であろうか……わたしも、わたしにもこれほどの才があれば……」

「女院さま?」

「いや、言うてもせんなき、遅い、遅すぎる話である……そなたは幸せ者だ。それだけは覚えておけ……大切な物を見せてもらって嬉しかったぞ。なにかあとで褒美をやろう。さすがは藤式部ふじしきぶ素晴らしい歌である……」

「…………」


 帝は、ぐっと歯を食いしばっていた。の問題ではない。母にそんな余裕はなかった。

 なにせ、母は幼い自分を抱え、実の父や夫である帝に内裏、すべてを敵に回すような苛烈な権力闘争を、女の身でありながらおのれを捨て、日々、息子のために戦っていたのだから……。


 そして思う。母は、あのように小さな人であっただろうか? どこか声も弱々しい……母が少し弱っているように見えた彼は、やはりひとり暮らしを止めさせねばならぬと、心に思っていた。

 

「遠くて歌が見えんな……出直すか……」

「おかみ……」

彰子あきこ、そなたの実家である土御門殿つちみかどどので、女院さまが暮らせるように話をつけてもらえぬか? もうよいお年だ……ひとり暮らしは心配である」

「そうにございますね……本日すぐにでも父と母に話をしておきます……」


 そうして内裏に戻った帝は、なに食わぬ顔で内裏の清涼殿へと戻り、輿にて東三条邸へ行幸していた。


……それは母である女院が、過去の自分自身に語りかけているようであった……』


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