🔮パープル式部一代記・第二十八話


 帝は出直して正式に輿こしに乗り、東三条邸ひがしさんじょうどのへ行幸していた。


「まあ、すっかりご立派に! いえ、帝に対して失礼なことを……」

「いいえ、母である女院さまを、すっかりお寂しくさせていた朕をお許しください……」


 出迎えた自分の弱さを見せぬためか、昔と変わらずはりのある美しい声で、母は自分と会話していたが、朝、こっそり見た幼い女童めわらを手招きして朕に紹介していた。


「この子、藤式部ふじしきぶの娘なんですって!」

「……えっ!?」


 その一言で周囲の時間は止まっていた。

 『時間よ止まれ……』そんな呪文はないのにも関わらず。


「お初におめもじいたします……藤式部ふじしきぶの娘、汝梛子ななしでございます……」

藤式部ふじしきぶ……娘……左大臣は知ってた?」


 帝は思わず孫庇まごひさしという母屋の外回りを囲んでいるスペースに並ぶ、固まった公卿たちの中から藤式部ふじしきぶ、もしくはとされる道長に声をかけていた。


「え? あ、いや、たしかいたような……いなかったような……あ、いましたいました。たしか、娘のためにもって言われまして……」

「母はそんなことを!?」

「え、うん。そうだよ……」


 汝梛子ななしに本当のことを道長は言えなかった。


『負の遺産だけどね……』


 そんな真実の藤式部ふじしきぶの言葉を知らない……目の前の、とにかく愛くるしい汝梛子ななしは、まるで子猫のようにキラキラした瞳をさらに輝かせ、「なにを抱えているの?」そんなことをたずねる中宮・彰子あきこちゃんの言葉に、「これで時間が稼げる!」そう思い、ゆっくりゆっくりとたどたどしくあのときの、「これでいいか……」そんな風に、まだゆかりであった藤式部ふじしきぶが置いて行った自分あてのふみを読み上げだし、帝をはじめとした周囲の大人たちは感動でむせび泣いていた。道長だけは泣いた振りであったけれど……。


行成ゆきなり!」

「はっ!」

「この歌を全部清書しておいて……いますぐ!」

「承知つかまつりました」


 いつもは藤式部ふじしきぶの物語を黒塗りばかりしている蔵人頭くろうどのとう行成ゆきなりも、しばらく袖で涙を抑えていたが、「少しだけ借りてもよいだろうか? 息子たちと遊んでおいで。すぐに返すから……」そう言うと女院さまの許しをもらい不安そうな汝梛子ななしに、にっこりと笑いかけて箱を預かると、借りた文机の上で歌を一首づつていねいに清書していた。


「母の思い……海よりも深く……あの、鬼のようなすさまじさは、我が子を愛し幸せを願うゆえ、あの物語は母の執念が生み出した物語か……」


 行成ゆきなりは少し藤式部ふじしきぶを見直していた。すぐに取り消すことにはなるのだけれど……。


 そうしてそのとき行成ゆきなりが、幼子おさなごが好きな女院さまのお慰めにと連れてきた自分の息子、定頼さだより、(長徳元年995年生まれ、四歳)や、道長の妻二号の息子、いわお、のちの頼宗よりむねをはじめ、のきなみ主要な公卿たちの連れてきた子息は、「ぼくは、しょうらい、汝梛子ななしちゃんを、正妻にする!」なんて言い出したので、藤式部ふじしきぶを頭に浮かべた公卿たちは、腰が抜けそうになっていたのである。

 少しは藤式部ふじしきぶに耐性のある? 中宮大夫ちゅうぐうだいぶ斉信たたのぶすらも、土壁のように固まっていた。


 それから、清書された歌を女院さまと帝がしみじみと眺めていると、娘である中宮・彰子あきこちゃんから話を聞いたらしき左大臣が、「実は、この機会を得てぜひに女院さまに土御門殿つちみかどどのへお移り願い、お暮しになってはいただけませぬか?」そんなことを奏上していたのであった。妻の倫子みちこも依頼を受けたのか説得にあたる様子であった。


土御門殿つちみかどどので? わたしがいたら邪魔でしょう?」

「いえ、わたくしだけでは、中宮さまにふさわしき実家をご用意できているのか心配で……女院さまの御知恵を是非……土御門殿つちみかどどのに、女院さまがいらっしゃれば心強うございます……」


 土御門殿つちみかどどのは、妻の倫子みちこの持ち物件であった。娘の中宮・彰子あきこちゃんから事情を聞いた彼女は、あえて女院を立てて願い出るという形で話を持ち出したのである。そして、倫子みちこは、こっそり女院さまにささやいていた。


「お引っ越しの祝いに、さかさ……例の物語のpart3、書いてもらいましょうよ?」

「おっと、それはいいわね……」


 そんなこんなで史実よりは、やや遅まきながら女院さまは、土御門殿つちみかどどのへ引っ越すこととなり、宰相さいしょうの君といえば、ようやく到着した藤式部ふじしきぶへ渡す例の箱を持ったまま、もじもじもじもじしていたが、「引っ越しが決まったし、あなたも内裏に引っ越しなさい! 藤壺へ! ほら、少しは華やかな生活をしなさいよ! 彰子あきこ、もちろん上臈じょうろうにしてあげてよ?」

「はい、女院さま……お付きの女童めわらも用意いたしますね」


 そう女院さまにお言葉を賜って、引っ越しが済んだあと、宰相さいしょうの君は、従妹にして中宮・彰子あきこちゃんの藤壺への出仕がいきなり決まっていた。


 そして、「お付きの女童めわら」その言葉に敏感に反応した汝梛子ななしは、母譲りの? 迫力と、父譲りの実に愛らしい誰もが愛らしく思わずにはいられない。そんな魅力を振りまいて、後日、宰相さいしょうの君付きの女童めわらとして、藤壺へと出仕が決定したのである。こちらは、史実よりも早い出仕であった。


「女院さまをお慰めした功績により、汝梛子ななしは裳着前、まだ女童めわらではあるが、五位・上に序し、正式な昇殿を許す!」


 彼女には特別な帝の裁可が降りていた。帝は、汝梛子ななしの話を自分も聞いてみたかったのである。


 周囲にはどよめきが走っていた。


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