第三章

🔮パープル式部一代記・第二十五話

〈 東三条邸ひがしさんじょうどの 〉


「きれい……」

「本当に麗しい……」

「……そうかしら?」

「そうですとも! 女院さまもお喜びになりますわ!」


 そう言われていたのは藤式部ふじしきぶではない。

 道長の腹違いの兄である道綱みちつなの娘で女房として、東三条邸ひがしさんじょうどのに出仕している藤原豊子ふじわらのとよこである。


 彼女は宰相さいしょうの君と呼ばれ、中宮さまの従姉妹でありの上臈(意訳:セレブ)である。なぜ出仕している? そんなお姫さまであった。


「わたしが読んでいないときは、好きに好きな本を読んでいいわよ」


 女房であるにも関わらず、女院さまにそう言われているくらいであった。なんとなく話し相手……そんな様子も透けて見える。


 そんな宰相さいしょうの君は女院さまが、「え!? おかみが中宮と揃ってお見舞いにいらっしゃる!? しかもオマケで藤式部ふじしきぶをつれて! え!? 藤式部ふじしきぶの娘も初披露!? あの子が結婚なんて訳!? 未亡人ですって!?」「そうなんですよ……わたくしも、でございました」「倫子みちこなにか言葉がおかしいわよ?」「あら、失礼いたしました。驚き過ぎて……」そんな、あれこれに巻き込まれてゆくのである。


 帝の行幸に向けて、東三条邸ひがしさんじょうどのはやかた中が奔走し、女院さまと中宮の母にして道長の正妻の倫子みちこが、女房たちへの指示が終わり、あとは明日の行幸をお待ちするだけ……そんな落ち着きを見せはじめていた。


「ほら、お見舞いですから早く御几帳台(平安時代の天蓋つきベッドルーム)で寝ていてください」

「じゃあ、宰相さいしょうの君を呼んでちょうだい。明日まで、ひとりで寝ているのもヒマだから」

「はいはい……」


 そんな風に女院さまが倫子みちこに追い立てられるように御几帳台へ滑り込むと、倫子みちこはやれやれと渡殿わたどの(廊下)へ出る。そこに側仕えの女房から招かれざる客、道長の正式な妻二号の源明子みなもとのあきこがきたと伝えられた。


 ちっ!


 倫子みちこは、思わず舌打ちをしたが、唖然とした表情の女房に気づくと、すんと、いつものおっとりとした上品な顔に戻り、「女院さまが、息子のいわお(のちの頼宗よりむね)の顔が見たいと仰せで……ご遠慮しようかとは思ったのですけれど……いわお(正暦4年、993年生まれ、六歳)の顔が見たいと……」

「あっ、そっ、かわいいわねぇ、いわおちゃん。無事に元服できるといいわね……流行病とか怖いから。うちも、頼通よりみち(正暦3年、992年生まれ、七歳)がくる予定なのよ。仲よくしてね」


 いわおは、「ひッ!」と声を出して、母の明子あきこころもを握り締めていた。倫子みちこの温和な顔に貼りついたまるで鬼の置き土産……そんな視線が怖かったのである。


「おやおや、はじまったよ、道長さまの妻、頂上決戦……」「決戦ってそもそも倫子みちこさまが正妻だし……」「いやいや明子あきこさまには、道長さまも頭が上がらない、女院さまのうしろ盾があるからね……」「頭が上がらないのは倫子みちこさまも一緒、でもそういや女院さまは、千年は生きそうな勢いだもんね……」「怖い怖い……さ、自分たちの仕事しよ!」


 女房たちは、「コブラ対マングース」そんな対決? を陰でしばらく見守ってから、解散して行幸に備えて様々に頑張っていた。


「あれ? 宰相さいしょうの君は?」

「女院さまの暇つぶし……えっと、無聊をお慰めするのに呼び出しくらってた」

「あら大変……」

「もっと華やかな、できたら……せめて内裏の藤壺とかに勤める方が、まだお似合いなのにね……本物のお姫さまなのに……」


 女房たちは、御几帳台の横で、延々と女院さまの愚痴に付きあわされているであろう、優しい人柄の宰相さいしょうの君に深く同情していた。


 ***


 そんな宰相さいしょうの君は、根暗とは似て非なるカテゴリー、『極端な小心者』だった。彼女は腹違いの弟である道長の圧に負けた父の圧に負けて、まるで玉突き事故のように、この東三条邸で女房をしていたのである。


「これ読んで!」

「は、はい……」


 あ、源氏物語……宰相さいしょうの君は、かなり嬉しく思いながら物語を読み上げはじめていた。


「いづれの御時にか、女御、更衣あまたいらっしゃる中に……」


 冒頭から読みはじめ……もう、喉が枯れちゃいそう……そう思い出した頃、ようやく女院さまはスヤスヤと眠り込んでいたので宰相さいしょうの君は、そっと、自分のつぼねに下がっていた。


「明日は、憧れの藤式部ふじしきぶさまがいらっしゃるのね……」


 宰相さいしょうの君は世間知らずの「寝殿入り娘」でもあったので、彼女の(ほぼ事実)はまったく知らず、ただただ憧れを抱いていたのであった。つぼねにある厨子に大切そうに置いてある小さな螺鈿細工の施された漆塗りの黒い箱をそっと手に取る。


「絶対に、絶対に明日はがんばってこれを藤式部ふじしきぶさまに渡そう!」


 父、道綱みちつなに無理を言い、女院さまにも一筆書いてもらって、順番待ちの行列に横槍を入れて無理矢理な形で手に入れた、「大和国(奈良)」名産、最高級の墨が入った箱であった。


藤式部ふじしきぶの好きな物? う――ん、取りあえず、墨とか紙じゃない?」

「そうでございますか……」


 宰相さいしょうの君は、そんな話を女院さまから聞いていたのである。


 そして翌朝の早朝どこからかやってきたらしき、すこし場違いな供人が連れてきた女童めわら? でもなさそうな少女に不思議そうな顔をしていた彼女は、女房越しに手渡されたふみを見て驚いていた。


「この子! この子が、藤式部ふじしきぶさまの御子!?」


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