🔮パープル式部一代記・第弐話

 兄のゆかり@惟規のぶのりが震えて眠っていた翌朝、惟規のぶのり@ゆかりは絶望した表情ですずりを抱え、震えたまま床にへたり込んでいた。


「と、とうとう、ついに、す……墨がなくなった……」


 そう、父のフリーで不安定な収入では、とてもとても、毎日毎日、大量に書き散らしている彼女の墨まで、ほいほい購入できるはずはなく、彼女は落穂拾いならぬ、ちびけた墨拾い。そんな様子で父や亡き母、思いつく限りの血のつながりのある親戚中に、素晴らしい筆の跡で、「なんとか勉学を続けるために、余った墨があれば送って欲しい」そんな意味を含んだ和歌を詠み、もったいないので細く切った紙に素晴らしいふみを書いて送りまくり、ちびけた墨をかき集め、なんとかかんとか、やり過ごしていたのだ。


 しかしながらそんなに裕福な親族もあまりいないので、(いても、貧しい親戚が裕福な親戚に知らん顔をされるのは世の常である)そう潤沢に墨が集まる訳もなく、ついに最後の一本、最後のひとかけらまで、使い切ってしまったのである。


「…………」


 父が教えに行っているで地位と名誉と金だけしかない公卿の息子たちは、「奈良のどこそこの墨は色艶もよく……」「筆はどこそこの……」そんな会話をしていると言うのに……。


 そんな妄想すら頭を駆け巡り、彼女のねたそねみが、体中からあふれ出し、さながらそれはまるで呪詛の様相を呈し、家をうすい紫色の光が包み込みだし、家庭教師に出かけている父以外、ぼろ家に残っている者たちは、一同恐れおののいていた。


「金持ち貴族の子弟なぞ……能無しばかりのくせに……あいつらなんて、その辺の泥水で十分だというのに……おのれ口惜しや、口惜しや~~」


兄をどこぞへ売りとば……いや、絶世の美女なんてうわさを流して、とにかくアホな公達からなんぞ巻き上げて……そんな『かぐや姫計画』を、ブツブツとゆかりが考えていると、めずらしく引きこもり……いや、引きこもりにさせられている兄が声をかけてくる。


「ゆか……いや、兄君、市場でなにかと、えっと墨を交換してみては?」

「兄……いや、ゆかりいたの? 交換って、墨と交換できるような高価な品なんて……え? それは……」


 おびえながらも、ゆかり@惟規のぶのりは妹に、後の世に編纂され語り継がれることになる短編物語『わらしべ長者』を開いて差し出し、恐る恐る反応を探る。


「ああ、これ、ちっちゃいときに見たような……ふ――ん、わらしべが、あ――なってこ――なって最後には田畑に……うまいことやったな……」

「でしょ? そこらへんに、くらいなら落ちているし、だから試してみたらどうかな?」

「たまには頭を使うのね……そうか、元手はかからないし……一度、試してみるか……」


 物々交換も当たり前の時代、惟規のぶのり@ゆかりは、その辺に落ちていた「わら」を一本持って、出かけてみることにした。


***


「のぶ……いえ、ゆかりさま! 素晴らしい機転です!」

「そう? とりあえず呪いの爆弾低気圧がどこかへ消えてよかった……ちょっと昼寝してくる……」

「爆弾低気圧……?」


 下女には、なんの意味かは分からなかったが、とりあえず今日もまた「顔がうつるくらい、うすいおかゆ」を作ろうと姿を消していた。


***


 案の定というか、目利きが行き交う市場では、惟規のぶのり@ゆかりは、まったく相手をしてもらえなかった。

 

 そんな訳で、「なるべく、なのを探そう……」惟規のぶのり@ゆかりはそうつぶやきながら、夕方も近くなったので、おバカな公達が夜遊びに出てくるのを見張るべく、朱雀大路のあたりをうろついていると、「遊び歩いている場合ですかっ! もう、こんなに溜めてしまっては、間に合いませんよ!? 今日から夜なべしてなんとか写経を完成させねば、一体なにを言われるか……殿さま――!」そんな悲痛な叫びを聞き、そちらを覗いてみると、声の持ち主らしき大荷物の従者を従えて、かなり大きなやかたから出てきた、金持ちそうな貴族を見つけたのである。


『身ぐるみ剥いでしまえば、結構な実入りに……だが体格負け……なにか他の方法を……なになに写経とな? 写経をさぼっているということか……そうだ……』


 彼女は、地獄の極卒も裸足で逃げ出す……そんな暗黒色のとした笑みを浮かべ、すすすと、殿さまならぬ、「バカさま」に近づく。


 目を合わすなり、まるで鬼と出会ったように腰を抜かしている相手を無視して、「このわらしべと、お前の紙と墨を交換しろ……さすれば写経などすぐに仕上げてやろう……」そう言ってみた。


「え? なに? なんの話!?」「いいから交換しろ……交換……交換……祟られたくなかったら交換しろ……」などと、彼女は強引過ぎる交渉で、超高級品っぽい紙の束と、墨がつまった箱が入った大荷物、つまり、ふろしき包みを従者からよこせとばかりに取り上げて、自分のわらしべと交換して、また、陰気な声を出していた。


「なにか、お前の書いたものはあるか? ふみか、どれどれ恋文か……幾つもあるとは……つまらない内容だが、まあこれで十分だろう。三日後に同じだけの紙の束と墨がつまった箱を持って、同じ場所にこい。さすれば写経と交換してやる……」


 惟規のぶのり@ゆかりは、そう言うと、腰の抜けた「バカさま」と従者をあとに荷物を担いで、ひたひたと足音だけを残し、暗闇の中へと消えて行った。


 その「わらしべ」が目印だと言い残して……。


「バカさま」の名は、藤原道長ふじわらのみちながと言い、御年二十歳であった。


***


〈 三日後 〉


「殿さま大丈夫でしょうか……?」

「どうかな……騙されたのかもな……まあ、それならそれで、写経は盗まれたということで……えっ!? うわっ!」


 真っ暗な道沿いにある大垣の影から、まるでなにか小さな怨霊のような、先日の不気味なわらしが、ふたりの前にゆらりと現れたかと思うと渡したよりも小さな風呂敷包みを差し出してきたのである。


「バカさま」が中身を改めてみると、そこには確かに自分の筆跡で、完璧な写経が仕上がっていた。


「交換……」

「あ、ああ、そうだった、そうだった! おいっ例の物を!」

「はいっ!」


 道長に促された従者は、やはり真新しい高級紙と沢山の墨が入った包みを差し出す。

 すると童の姿は、ふつりと消えていた……ように思えたがなんのことはない、月明かりのない中を大荷物を背負って、ずるりずるりと不気味な背中を見せて、どこかへ消えて行ったのである。


「人だったのか……なんなんだろうなあいつ?」

「はあ……なんでしょうね?」


***


 それから十年のときが過ぎ、長徳弐年(996年)、ついにゆかりの父は無職の身を脱出したが、その陰には、この出会いがもたらした力がかなり働いていたことを、父の為時ためときは知らない……。


***


「ほれ、お前の父親はちゃんと就職させただろ? だからさ惟規のぶのりは俺の家人になってくれよ? な?」

「大学寮も出ていませんから……それに、執政になっても相変わらずですね……十年たってもしょうもない恋文しか書けないなんて……」

「うるさいな……あ、大学寮なんか執政の権限で出たことにするから! な!? な!? あとさ、元服も俺が後見人を探してやるよ? いいかげんその歳で変だろう?」

「元服はどうでもいいけど……数年後、道長の気持ちがまだ変わっていなかったら、家人のことは考えてみる……」

「え……?」

「父に同行するのでしばらく会えない……」

「そっか……体に気をつけてな……」


 十年の間、長い付き合いの間に、ふたりの間には、なんとか友情ともいえる関係が成立するようになり、そんな会話がされていた。


 越前守となり転勤が決まった父である為時ためときは、置いて行くには怖すぎると、惟規のぶのり@ゆかりと、ゆかり@惟規のぶのりの複雑なふたりをつれて、越前に旅立つことにしたのである。


 ゆかりは、自分の正体を知らない道長から、大量の墨と素晴らしい硯を、選別だともらい越前へと旅立っていた。


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