4-3 コップいっぱいの水と十円玉

「それはたぶん、心の傷が積み重なったからじゃないかな」

 絵が全く描けなくて困ったぼくは、ポッケ先生のケータイに電話をしていた。先生から「何かあったらいつでもどうぞ」と名刺をもらっていたので、遠慮なくかけた。

 プルルの音が十回ぐらい続いて、さすがにあきらめようかと思った時。受話器の向こうから「もしもし」という声が流れてきた。いつもより少し低く透き通っていて、何だか先生の声じゃないみたいだった。

「心の傷って、積み重なるの?」

「そうだよ。例えば水がたっぷり入ったコップを想像してごらん。コップのふちギリギリまでたっぷりだよ。そうしたら、その中に十円玉を入れてみようか。水はどうなる? そう、あふれるよね。これが君の今の状態。心の傷が十円玉で、水が君の心だ」

「ぼくは絵画コンクールに出せないことは、そんなに辛いと思ってないよ」

「うーん。わたしはミノルくんの心の中までは覗けないからね。ハッキリとは言えないけれど、自分では気づかないだけで、実は傷ついているんじゃないかな」

 そうなのかな。よくわからない。でも実際にぼくは、似顔絵はおろか風景画すら描けなくなっているのだ。


「でも先生。今のぼくは、水がタプタプなんでしょ。だったら、これから何かいやな事があったら、すぐにあふれちゃうじゃん」

「そうだね。だったらどうすれば良いと思う?」

「水を捨てちゃうとか」

「なかなか良い回答だ。でも、どうやって捨てようか?」

 答えに詰まってしまった。水を捨てる方法、ほうほう、ホウホウ……どんなに頭をひねってみても、良いアイデアは浮かばなかった。

「こういう考え方もあるんじゃないかな。水を入れるコップがバケツならどうだろう」

「大きい容器にするってこと? でも、すぐにまたタプタプになっちゃうじゃん」

「だったら、もっと大きくすればいい。バケツでダメならお風呂。お風呂がいっぱいになるならプール。って具合にね」

 難しい例えなんてやめて、わかりやすく説明してくれればいいのに。先生の悪いクセだ。でもなんとなくだけど言いたいことはわかる。傷ついてもこぼれない、大きな器を持たなければいけないのだ。

「で、先生。どうすれば大きくなるのかな」

「それは君が考えなきゃ」

 そう言うと先生は、「診察があるから」と、名残惜しそうに電話を切ってしまった。

 やっぱりね。肝心なことは教えてくれない。大事なことは、自分で見つけるしかないのだ。


 結局、コンクールに提出する前日になっても、ぼくの絵は完成していなかった。

 “顔みたいな何か”に怯えていた昔のように、ぼくは自分で描いたものが“建物みたいな何か”、“川みたいな何か”にしか思えなくなってしまっていた。ぼくの中のもう一人のぼくが、「こんなの描きたくない」と、ずっと叫んでいる。じゃあぼくは、一体何が描きたいんだろうか。

「コンクールとは別物だから、無理して間に合わせなくても大丈夫よ」

 ヨウコ先生はそう慰めてくれるけれど、ぼくはなんとかしたかった。うまく言えないけれど、先生の言葉に甘えちゃったら、この先ずっと後悔してしまう気がした。

 お父さんお母さんは、普段通りに接してくれた。普段通りが、ありがたかった。お姉ちゃんも、いつものようにぼくに「バカ」と言ってくれた。バカと呼ばれて嬉しかったのは、初めてだった。


 放課後、校庭の鉄棒に寄りかかりながら、ぼくは画用紙とにらめっこをする。ここ二週間続いた日課も、今日でとうとう最後だ。周りを見ると、みんな楽しそうに遊んでいる。一輪車にのっている女の子。来週のなわ跳び大会に向けて、二重跳びの練習をしてる男の子。ベンチに座ってカードゲームをしてる子たちもいる。時おりわき上がる歓声が、どこか遠くの国の出来事のようだった。

 時間はあっと言う間に進み、夜が紫色を連れて近づいてきた。夕陽はまだ粘っているけれど、もうタイムリミットだ。もうすぐ五時。子供は帰らなくちゃいけない。ぼくは筆箱をランドセルにしまい、画板を抱えながら校庭を後にした。

「おっ、そこにいるのはミノルじゃん。何してんのよ」

 校庭から出てすぐ、聞き慣れた声がした。

「お姉ちゃん。こんな時間まで何やってんの」

「それはこっちのセリフ。まだ寒いんだから、早く帰ろ」

 夕陽に照らされて、お姉ちゃんのランドセルが鈍く光る。よく見ると色んな場所に、六年間の傷が刻まれていた。ぼくとお姉ちゃんは、並んで歩き始める。そのとき、あしながおじさんのような、大きな影が飛び込んできた。ただし、タテじゃなくてヨコにだったけど。

「お姉ちゃんじゃないか。それにミノルも。なんだ今帰りか。いやいや偶然だな」

 いやいやいや。偶然にもほどがあるよ、お父さん。

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