2-1 おねしょとねむち
わが家の覆面生活は、二年がすぎた今でも続いている。ぼくは小学三年生になり、お姉ちゃんは六年生になった。本当のことを言うと、べつにマスクをしなくても平気なのだ。声や見た目、話し方、クセ……いくらだってみんなを見わける方法はある。たとえばお父さんの頭のてっぺんが薄いとか、ね。
それなのに、誰もマスクを外そうとはしなかった。プロレス好きなお父さんやお姉ちゃんは案外ノリノリでやっているのかもしれないけれど、なぜだかお母さんもマスクを被り続けた。
マスクをするのは家の中だけ。それがわが家のルールだ。だってスーツ姿のタイガーマスクが町にあらわれたら、きっと警察に捕まってしまう。それは困る。だからみんなが居る家の中でだけマスクを被ることになっていた。
もっともご近所さんには、バレているみたいだ。だって晴れた日にはかならず、マスカラスとタイガーマスク、えべっさんの三枚のマスクが、二階のベランダに干してあるんだから。気づかない方がおかしいと思う。
ぼくの方はというと、あいかわらず人の顔を覚えられずにいた。治る気配は全然なし。それどころか、三年生に上がったとたん、夜中に一人でトイレに行けなくなってしまったのだ。名誉のために言っておくけれど、決してオバケや妖怪が怖かったわけじゃない。まっくらな闇が苦手だったのだ。
「暗闇から誰かがじっと見てる」
「それをオバケっていうのよ」
からかうようにお姉ちゃんは言うけれど、じっと見てるだけで何もしないオバケなんているもんか。いないに決まってる。いないはず……たぶん。
トイレに行けないということは、当然アレをしてしまう。そう、おねしょだ。夕ご飯のジュースをがまんしてもみたけれど、二日に一回はフトンを濡らしてしまった。名誉のために言っておくけれど、けっして寝ているときにしてしまうんじゃない。トイレに行きたくて目が覚めるけれど、フトンから出られずにしてしまうのだ。そこのところは、ぜんぜん違うのだ。
さすがに二日に一回は洗たくが大変だったんだと思う。お母さんの命令によって、トイレタイムが設けられることになった。夜なかの二時すぎになると、お母さんはぼくの部屋にやってくる。
「ミノル、おきなさい」
うっすらとまぶたをあけると、えべっさんが目の前に飛びこんできた。真夜中でも、お母さんはマスクを被っている。いっしょにいる時間が、家族で一番多いお母さん。だからぼくはいつも「マスクしなくてもいいのに」と言っていた。でもなにかと理由をつけて、マスクを外すことはなかった。その理由も毎回ちがっていて、よくそんなに思いつくなぁといつも感心していた。ちなみに今日は、「すっぴんで、はずかしいからね」だって。
どうせ顔を覚えられないんだから、お化粧をしてもしていなくても関係ないのに。そう言ったら、「それはそれ。オトメのたしなみよ」と、人さし指でぼくのおでこをコツンとはじいた。トイレをすませたら、まだ少し暖かいフトンにぼくはもぐり、お母さんは毛布を肩までかけてくれる。そして最後に、部屋のすみに向かっていつものあいさつをする。
「じゃあ、ねむち」
闇にかくれている誰かさんと、仲良くなるための魔法のことば。お母さんが教えてくれた。
「ねえミノル。怖いっていうのはね。何だかわからないから怖いの。オバケだってそうでしょ。どんな姿をしてるかわからないから、みんな怖がるの。だから昔の人は、オバケや妖怪なんかを絵に描いたのね。姿がわかっちゃえば平気だもの」
「そうかな……姿がわかっても、オバケは怖いよ」
「あらあら。ミノルはオバケなんて怖くないんじゃなかったかしら」
いつもはポーっとしているのに、こんなときだけやけに鋭い。図星だったぼくは、頭まですっぽりとフトンを被る。
「じょうだんよ、じょうだん。すねないの。でもね、闇から見てる誰かさんと、仲良くなれたらいいと思わない?」
「なれたら、トイレに行ける?」
「行けるわよ、だって仲良しなんだもの」
フトンから頭を出して、お母さんを見上げる。うす暗くてよく見えないけれど、細くて長い手の影が、頭を優しくなでつけてくれた。
「だからミノル。明日になったら“誰かさん”を想像して、似顔絵を描いてごらんなさい。そうしたら、すてきな名前をお母さんがつけてあげるから」
その日お母さんは、ぼくが眠るまでずっとそばにいてくれた。
次の日ぼくが描いた絵は、二本足で歩く、毛むくじゃらなお猿さんだった。ずっと前にテレビで見た“雪男”に似ている。単純というか、想像力がないというか。違っていたのは、毛の色が真っ白じゃなくて、黒く塗ったことぐらいだ。でもお母さんは「すてきな絵ね」とほめてくれた。
「この子の名前は、“ねむち”よ」
「ねむち?」
「そう、ねむち。かわいらしくて、なんだか眠くなるでしょ」
多分、“眠る”から来てるんだと思う。お母さんも、ぼくに負けず劣らず単純だ。
そしてその日から、ぼくとお母さんは、眠る前に名前を呼びつづけた。暗闇にかくれている誰かさんに向かって、
「おやすみ、ねむち」と。
不思議なことに、名まえをつける作戦は大成功だった。だって“ねむち”なんてまの抜けた名前のオバケ、ぜんぜん怖くないんだもの。だからぼくは安心して、朝までぐっすりと、“ねむち”することができた。あれほど悩んでいたおねしょは、いつのまにかピタリとやんでいた。
それからぼくとお母さんは、世の中にある何だかわからないものたちに、名まえをつけるようになった。
最初は絵も描いていたけれど、二人とも笑っちゃうくらいに下手だったから、いつしか名まえだけになった。“顔みたいな何か”という名まえも、二人でつけた。怪しいけれど、ちょっぴりユーモアもあって、とても気に入っている。ぼんやりと不確かなものに言葉を与えることは、少しだけぼくを生きやすくしてくれた。
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