第4話
まだ日も明けきらず、外灯が灯ったままの薄暗い街並み。人も車もほとんど見られず、小鳥のさえずりが耳に心地良い静やかな住宅街。ジャージを着た私は、人生初の早朝ランニングを実践していた。
といっても近所の公道をぐるっと、ジョギングのペースでゆっくり周っているだけ。ついさっきも半袖短パン姿のおじいさんに、軽やかに挨拶されながら追い抜かれたばかりだ。
「……どういう風の吹き回しかしら?」
隣を同じペースで駆ける由羅が、どこか呆れるように言った。
彼女はスカートにサンダルという走りづらい格好だというのに、息ひとつ乱さず余裕の表情で付いてくる。身体が上下に動くたびに胸部の脂肪もたゆんたゆん揺れて、目のやり場に困ってしまう。
「別に、たまたま目が覚めたから」
私は前を向いたままぞんざいに答える。
実際、特に早起きすると決めていたわけではないし、もちろんアラームも付けなかった。いつもの時間に目覚めればやらなかったし、そういった意味では『たまたま』なのだ。たまたま朝早くに目覚めたから、漠然と考えていた体育祭の自主練習を実行してみただけ。
別に体育祭への意気込みが出てきたわけではないし、今後も継続するかは分からない。ただ、何かしなくちゃいけないという衝動が湧いてくるのだ。無意味なことかもしれないけれど、立ち止まっていることが怖い。
「あなたって本当……」
由羅はなぜか、にやにやとした笑みを浮かべている。
「単純?」
私が続きを予測すると、彼女は首を横に振った。
「いいえ。可愛いわ。本当は向上心があるのに運命に身を任せるところとか、とっても愛おしい。どこかサムライの生き方に似ているわね」
「似ていません」
即座に否定しつつ、どんな形であれ由羅に「可愛い」と言われたことは嬉しかった。無意識に顔がにやけてしまい、慌てて表情を作り直す。
実際、この行為になんの意味があるのか自分でも分からない。「みんなで仲良く楽しく、体育祭頑張りましょうねっ!」なんてキャラじゃないし、徒競走の順位には本当に興味ない。
ただ昨晩寝る前、ふと思ったのだ。そういえば私は今までの人生で、何かに本気で取り組んだことがないと。だったら一度、頑張ったらどうなるのか試してみたくなった。努力は報われると人は言うけれど、果たして本当にそうだろうか。
これは実験だ。自分の可能性と運命と努力と結果の因果関係を紐解くひとつの研究。そう思えば不毛に思える努力にも価値が見出せそうな気がした。
私は走りながら隣の由羅に笑顔を向けた。
「この時間も無駄じゃないんだよね?」
由羅もこちらに顔を向け、にっこり頷いた。
「ええ。もちろんよ」
いよいよ体育祭当日となった。
憎らしいほど澄み切った秋晴れの空の下、校門には紅白に縁取られた体育祭の看板が掲げられている。それをくぐって舗道を左に向かった先にある校庭。そこには前日のうちに組み上げられた観覧者用のテントが並び、なんとなく仰々しい。
こういうのを見ると、つくづくこうしたイベントは生徒のためではなく、学校と保護者のためのものなんだと痛感する。学校側は普段の指導と教師の統率力をアピールし、保護者は健全に成長した我が子の上っ面の姿に満足する。
お揃いの体操服を着た全校生徒が入場して開会宣言が行なわれた後、さっそく競技が始まった。運動部やクラス代表は出場種目が多いので忙しいが、私は全員参加の徒競走と綱引きだけなので比較的楽である。
自分の最初の出番はおよそ三十分後の徒競走らしい。校庭の地面に座ってプログラム表を眺めていた私は、すぐ隣にちょこんと座っている由羅に目を向ける。彼女は初めてのイベントに興奮しているらしく、次々と目の前を駆けていく他クラスの生徒に声援を送っていた。
「きゃー、頑張れー」
「そこよっ、もう一息っ」
「ああんっ、惜しかったわねえ」
いやだから、誰目線だ。
由羅はパイプ椅子が並べられたテントに陣取った保護者達よりも、よほどはしゃいでいた。
いったい他人が走ることの何が楽しいというのか。私は常々、父親が野球中継などを熱心に観ている様を馬鹿らしいと思っていた。他人の勝敗なんて無関係なことだし、自分に賞金が分配されるわけじゃなし。
例の思考に陥ってひとり不貞腐れていると、いつの間にか真後ろにいた宮野が肩を叩いてきた。
「おっす、伊田ぁ。相変わらず暗いなぁ」
「は?」
満面の笑顔でナイフを刺された気がする。てか、相変わらずってなに? いつも暗いってこと?
否定できないのが悔しいので、せめてもと恨みがましい目を向ける。
「伊田は今日、親来てるのぉ?」
いつもの二割増しで陽気な宮野。先ほどの失礼な発言について、まったく気にしている様子はない。まあ、悪気は無いのだろうけれど。
「ううん。うちは来てない。来なくていいって言っといたから」
答えつつ、珍しく玄関まで見送りに来た今朝の母とのやり取りを思い返す。
「――茜、そういえば今日は体育祭なんでしょう?」
母がそんなこと覚えていたことに内心驚いた。今まで体育祭のことなんて話題にも出さなかったのに。
私は動揺を気取られぬよう、靴を履きながら背中で答える。
「うん、そうだね」
「どうする? お母さんも観に行こうか?」
こちらのぞんざいな態度にもめげず、一番いやな質問をしてきた母。
「行こうか?」ってなに? 「来て」って言ったら私がお願いしたみたいになるし、「来るな」と言ったら私が悪者になる。どちらにせよ相手に責任を押し付ける、一番いやらしい質問の仕方だ。
「いや、結構です」
面倒くさかったので即答し、まだ何か言いたげな母を振り切るように家を出た。
こちらとしては結構ですと告げれば、少なくとも私は望んではいないことは伝わったはずだ。これで彼女が学校にまで観に来る理由は無くなった。
私は両親に、学校での自分を見られたくない。ずっとクラスメイトにイジメられていたというのもあるけれど、学校に真面目に通う作られた子供像を演じるのが嫌だから。
うちの子はしっかり勉強して友達とも仲良くしていて、何ひとつ問題なくて、私たちの子育てにも問題は無いんです。両親はきっとそう思いたいのだ。観賞用に飾られた花だけを見て、その根っこを見ようとはしない。そうはさせるか。
これは反抗期らしい反抗期の無かった私の、ささやかな反骨心だ。親の望む既製品の子供には決してならない。なったとしても、それを知られたくはない。
私の表情の曇りを見て取ったのか、宮野が曖昧な笑顔を浮かべて言う。
「そうなんだぁ。せっかく伊田のお母さんの顔見れると思ったのにぃ。ま、うちの親も仕事だから来てないけどねぇ」
すると、先ほどから隣で黙って聞いていた由羅が割って入って来た。
「本当は見てほしいんじゃない?」
「なっ?」
心底驚いて、思わず声を上げてしまった。
なんとなく由羅は、私が他人と話しているときは常に空気になっているものと思っていた。それが今日初めて、他の人と会話している私に姿を消したまま話しかけてきたのだ。
恐る恐る宮野を見ると、彼女はなにかに怯えるような不審な目をしていた。
「あれ、伊田ぁ……。さっき一瞬、見覚えのある人が見えたような気が……」
どうやらまだ完全には認識されていないようだが、このままではまずい。
「いや、気のせいでしょ。ひょっとして宮野って霊感あるとか? もう、怖いこと言うのやめてよー。あはははー」
どこか白々しかったが、どうにかごまかせたらしい。宮野も「まさかぁ」などとぎこちなく笑いながら、そそくさとこの場を離れていった。
「ちょっと由羅、どういうつもり?」
詰問しようとしたところ、担任教師から次の競技の準備を促されてしまった。やむを得ず立ち上がり、念入りにストレッチをしてからグラウンドへと向かった。
目の前で教師の号砲とともに一斉に駆け出していく生徒たち。まるで次々とコンベアに乗せられ出荷される工業製品のようだ。
刻々と順番が近付いていることに、少しだけ緊張感が込み上げてくる。
私はこの日まで、ほんの一週間くらいだけど毎日早朝ランニングしてきた。それが果たして努力と言えるのかは分からないけれど、もしなんの実も結ばなかったらどうしよう?
鳴り続ける銃声。少しずつ近付いてくるスタートライン。いやだ。怖い。やっぱりやめたい。
だが、無慈悲にもあっと言う間に自分の順番がやって来た。やはりタイム順に編成されているため、足の遅い私の出番は早い。心の整理をする暇すら与えてくれない。
他クラスの生徒四人と共にスタートラインの白線前に並び、クラウチングスタートの体勢で教師の号砲を待つ私。すでに走り終えた後のように心臓が早鐘を打っている。グラウンドを取り囲む保護者や教師や他の生徒の視線が痛い。まるで醜態を晒すピエロの気分だ。
――ダメだ。やっぱり私には無理だ。
足が震えてその場にへたり込みそうになる。だが、そんな私の耳に聞きなれた声が飛び込んできた。
「茜、頑張って!」
ハッとして目を向けると、スタートラインのすぐ横で手を振る由羅の姿。
周囲の歓声やスピーカーから流れる陽気なBGMに紛れることなく、まっすぐ届いた力強い声。愛する者の声。
その瞬間、迷いは吹っ切れた。
パァン。
教師が掲げたスターターピストルの快音と共に一斉に駆け出す私たち。
スタートから全速力で飛ばし、そのまま四番手でコーナーを曲がる。
――くそっ。先頭は届かない。
カーブの真ん中辺りを通過した頃には、すでにひとり抜け出したトップランナーは最後の直線に突入していた。だけどまだ諦めない。
私はコーナーの内側に体重をかけ、猛加速しながら直線に向かう。一位はすでにゴールした。すぐ右横にひとり。二位の背中がすぐ左前方。後ろは分からない。
もう何も考えない。ただ前へ、前へ、前へ。
まるで見えない力に吸い込まれるようだった。もう周りの風景も競争相手も見えていない。私はただ終着点の白線だけを見据え、そのまま猛然と突進した。
光の塊の中に飛び込むように、キラキラと眩いものが全身から弾けて消えた。
ゴール横の待機場所に座って息が整ってくると、ようやく走り終えた実感が湧いてきた。ゴール後に先生から渡された紙をおもむろに開いてみると、『2位』と書いてあった。
「……追い抜けたんだ」
まるで他人事のようにぼそりと呟き、小さく笑みを浮かべる。
――そうかそうか。二位か。ふふ。
一位ではなかったけれど、かけっこで二位なんて人生初である。二位はいわば準優勝、銀メダルだ。嬉しい。素直に嬉しい。
順位の書かれた紙をひとりにやにやしながら見つめていると、微笑みを浮かべた由羅がこちらにやって来て頭を撫でてくれた。
「おめでとう、茜。よく頑張ったわね」
「えへへ。ありがとう。由羅のお陰だよ」
「うん? 私は何もしていないわよ?」
にやけっぱなしの私に由羅が首を傾げる。
まあ、分からないだろうな。私だって今まで分からなかった。
「ううん、なんでもない」
私は笑顔ではぐらかしつつ、後続の生徒の走りに目を向けた。
普通にこなしているように見える他の人たちも、様々な想いを抱いてそこにいるのだ。一位を獲って飛び上がって喜ぶ子もいれば、最下位になって涙を浮かべる子もいる。結果に差こそあれ、皆が同じ舞台に立っている事実に変わりはない。
私は二位という成績を得たことによって、初めてそれを実感できた気がする。誰かに勝つことによって、努力の結果上に立てたことによって、自分も登場人物のひとりなのだと思えた。
この世界に受け入れられているような不思議な安心感に浸っていると、由羅がなぜかにこにこしながらこちらを見つめていた。
「なっ、なに?」
慌てて表情を取り繕って顔を向けると、由羅が笑みを絶やさぬまま妙なことを言った。
「ねえ、茜。あなたが成功して嬉しいのは、あなただけじゃないのよ?」
「……? どういうこと?」
意味が分からず首を傾げると、由羅が私の後ろのほうを指さした。
「ひょっとして、気付かなかったの? あなた以上にあなたの未来を気にかけている存在に」
「えっ?」
由羅の指さす先に目を凝らすと、トラックコースの先にあるテントの一角に見覚えある姿があった。母である。
パイプ椅子が並んだ席の真ん中あたりに座る、少しおめかしした母。こちらの視線に気付いたらしく、笑顔で控えめに手を振っている。来ないと思っていたのに、なんで?
「子がどう思おうと、親は親なのよね。素敵なお母さんじゃない?」
やけに優しい口調の由羅がいつもより大人びて見えた。
「お母さん……」
改めて学校にいる姿を見られるのは気恥ずかしいけれど、なぜか今日はそこまで嫌悪感は無かった。普段家でもほとんど会話しないけれど、ちゃんと気に掛けてくれていたことが少し嬉しくもある。
「今日は二位獲ったことをうんと自慢するといいわ」
なにがうんとだ。もはや大人びているを通り越し、近所のおばさんのような物言いに思わず吹き出してしまう。
「由羅、おばさんくさい」
「はっ? おばっ?」
その場で腹を抱えて笑う私に、珍しくムッとした様子の由羅。
なんだかこういうのもいいなと思えた。そんな一日だった。
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