第3話

 『体育』とは読んで字の如く、体を育むものだ。

 でも、それなら食事とか静養だって立派に体育のはずだが、中学校で行われるそれはどちらかといえば正反対。体よりも精神を育もうとしている感じがする。

 だって、筋トレや技術向上は置き去りにして、まず第一に集団協調や先生への絶対服従を叩き込まれるのだから。教師の笛ひとつで右へ左へ動かされ、皆で一斉に同じことをするよう強要される。

 私は学校生活全般が嫌いだが、特に嫌いなのは体育である。いわんや体育祭をや。

 来月行なわれる体育祭のため、専らその練習時間となった体育の授業中。トラックコース半周を走り終えて地面にへたり込んだ私に、由羅がからかうように声を掛けてきた。

「どうしたの、茜。もう疲れた?」

「当たり前でしょ? 私が体力無いの知ってるくせに」

 私は肩で息をしながら、由羅に恨みがましい目を向ける。

 九月後半とはいえ、さすがに全力疾走した直後は全身が熱い。半袖のTシャツにハーフパンツという格好をしていても、全身から止めどなく汗が噴き出てくる。

「これも勉強よ。体で覚えることも大事ってことね」

「誰目線だ」

 由羅がまるで先生のようなことを言う。彼女は私が先日買ってあげた黒の長袖シャツとロングスカートという装いのため、外見もどこか教師っぽい。

「もうすぐ体育祭ってやつなんでしょう? 茜は何するの? 歌とか踊りとか?」

「歌や踊りは文化祭。私は徒競走くらいかな」

「ときょうそう?」

 由羅が首を傾げる。「これも勉強よ」などと言っておいて、彼女が一番分かっていないではないか。

「要するに他のクラスの子と一緒に走って、順番決めるだけだよ。百メートルね」

「ふぅん。で、勝てるの?」

「別に勝つつもりなんてないし。適当に流してさっさと終わればいいかなって」

「あらそう。でも、せっかくなら勝ちたいと思わないの? 茜が望めば私がいくらでも手を貸してあげるわよ。例えば対戦相手の足を折ったりとか」

「やめて」

 真顔の由羅の、冗談か本気か分からない提案を慌てて否定する。

 そもそも本当に勝敗なんてどうでもいいのだ。別に一位を獲ったからって賞金が出るわけでもないし、運動部でもない私は優勝の名誉なんて欲しくないし。

 ますます体育祭が憂鬱になってきたところで、先ほど走り終えた宮野が駆け寄って来た。

「おっす、伊田ぁ。さっきから何ひとりでブツブツ言ってんだぁ?」

 宮野は私と同じ体操着姿だが、半袖を片方だけまくってさり気なく個性を演出している。そういうところは彼女らしいと思う。

「べっ、別に何も言ってないよ」

 手を振りながら見上げた私は、明るい日差しと宮野の溌溂とした笑顔に一瞬目が眩んだ。彼女はまったく息があがっていないし、運動後のストレッチをする余裕まである。

 あれ、宮野って運動得意なタイプだったっけ? よく思い出せない。

「えっと……宮野って部活とかやってた?」

 華奢で非力な宮野がこの時間を楽しんでいる理由が気になって、それとなく尋ねてみる。彼女はどちらかといえば、私と同じで体育とか面倒くさがっていたはずなのに。

「あれ、言わなかったっけぇ? 私って一年生の頃は陸上部だったんだぁ。だから走るのとか結構好き」

「そっ、そうなんだ」

「まあ、先輩と合わなくて半年ちょっとで辞めちゃったんだけどねぇ。あはは」

 怪我や病気じゃなく、人間関係ってところがいかにも宮野らしい。それを隠そうともしないところも。

 たしかに無駄な脂肪とかあまり付いていない宮野は陸上選手っぽく見える。なんとなく横目で見ていた限り、私より相当足が速いのは確かだし。

 クラスの女子が先ほどから順番にトラック半周させられているのは、クラス対抗リレーの代表選考のためなのだ。ひょっとしたら宮野は代表に選ばれるのだろうか。

「伊田も選ばれるといいね。代表に」

「……それ、本気で言ってる?」

「ううん。社交辞令」

 隣に座って悪びれる様子もなく笑顔を見せる宮野。そういう正直なところは嫌いではない。

 人にはそれぞれ得手不得手があるということなのだろう。現在トラックを走っている横地などは力自慢だが、鈍重な走りをしていてへたしたら私より遅い気がする。

 では、私の得意なものってなんだろう? 勉強も運動もできない私には、いったい何があるのだろう?

 ぼんやりと秋の空を見上げながらそんなことを思う。青空に薄くかかる巻雲は、今にも消えそうなくらい頼りなかった。


 夜の帳が下り、由羅とふたりきりの部屋。

 入浴も歯磨きも終えた私はベッドに寝っ転がったまま、かれこれ三十分ほどスマートフォンでネット閲覧をしている。検索するのは様々な就職情報サイトだが、どれを見てもピンとくるものは無かった。

 スポーツ選手はカッコいいけれど、運動音痴の私には初めから無理。両親は私が公務員になることを望んでいるが、定期テストで上位半分にすらいったことないからこれも難しい。

 無難にOLとかだろうか。でも、ネット記事を見る限りはセクハラとか女性差別とか未だ多いみたいだし、人付き合い苦手な私に会社勤めなんてできるのか大いに不安である。来客の応対で足を震わせる自分が容易に想像つく。

 やっぱり私に向いている仕事なんて無いのだろうか。このままなんの夢も気概も無いままなんとなく高校進学して、その後はどうする? その頃にはやりたいことが見つかるのだろうか?

 将来のことを考えると不安で仕方なくなる。まるで目に見えない巨大な怪物に睨まれているような、どうしようもないプレッシャー。逃げ出せるものなら逃げ出したい。でも、時の流れは止まってはくれない。

 『夢を実現した私!』

 『なりたい自分になる!』

 キラキラした笑顔を浮かべる若い男女の横で、そんな前向きな見出しが踊る。

 みんなどうしてそんな確信したような眼差しで将来を語れるのだろう? どうしてあるかどうか分からない未来のことに、そんなに夢や希望を抱けるのだろう? 画面越しに映る他人は、皆がまるで実在しないドラマの登場人物に見える。

 だんだん頭が痛くなってきてスマホを枕元に放り投げたところで、いつもの如く黙って勉強机の椅子に座っていた由羅が声を掛けてきた。

「どうしたの、茜。良い『えろさいと』が見付からなかった?」

「は? そんなわけないでしょ?」

 こちらが将来のことで悩んでいるというのに。あまりに破廉恥な発言にムッとして、私は上体を起こしつつ由羅を睨む。

 というか、どうして由羅がそういう卑猥な単語を知っているのだろうか。考えてみたが、彼女の知識は私の記憶によるものなのだ。つまり、私がそういう知識を持っているからに他ならない。

 いや、別に私はそういうこといつも考えているわけじゃないし。エロサイト? とか、よく分からないけれど、そういういやらしいサイトなんて見たことないし。……二、三回しか。

 BLとかは興味本位で見てた時期あったけれど、あれはエロサイトじゃないし。たぶん。ていうか、なにその目? なんで目を細めて冷めた笑み浮かべてるの? えっ、見透かされてる? 何を?

 ドギマギする私を見て、由羅が「プッ」と噴き出す。

「うふふ。茜、考え過ぎよ」

「え?」

 ――何に対して?

 発言の意図が分からず、ますます混乱する私。

 由羅はそんな私を愉快そうに見つめている。ひょっとして、馬鹿にされた?

「そうやって由羅はいつも私をからかうんだから……」

 私は唇を噛み、いじけて下を向く。

 そりゃ神様には人間の悩みなんて理解できないでしょうよ。働く必要もないし、自分で食事を取る必要もない。人間が様々な困難に右往左往する様なんて、働きアリの日常程度にしか思わないだろう。

「茜は将来、何をしたいの?」

 ふいに由羅が明るい声で言った。

 思わず顔を上げた私は、またふいと横を向く。

「それが分からないから苦労しているんですけどねー」

 つい嫌味っぽくなってしまう。由羅に当たるつもりはないけれど、将来の希望や展望を聞かれるのは不愉快この上ない。

「そう。だったらいいじゃない。新しくやりたいことはない。現状維持に努めたいってことよ」

「そう……だけど、それじゃダメなの。中学校生活なんてあっと言う間だし、進路を決めないと世間は待ってくれないし」

「簡単なことよ。全てやりたいか、やりたくないかで決めればいい。勉強をしたいか、したくないか。しなかったことによる利益と弊害を比較して、どちらが自分の望みかを選択するだけ。ね? 簡単でしょう?」

 由羅が珍しくまともな提案をする。まあ、現実的かどうかは置いておくとして、初めてかもしれない。社会生活における具体的な意見を言ってくれたのは。

「でも、そんなの分からないよ。勉強はやりたくないけど、やらないと不安になるし。第一、やる目的が見えないんだよ。将来何がしたいのかなんて分からないのに、なんのために勉強するのかって」

「だったら現状の不安を解消するために勉強すればいい。『しんぷる』な話よ。やりたいことはこれからゆっくり見付ければいいし、今は勉強して日々の不安を解消するだけでいい。もしやりたいことが見付からなくても、その時間は決して無駄にならないわ。だって、それまでのあなたの不安の芽を摘んでくれたのだから」

「…………」

 なんだか学校の先生と話しているみたいだ。いや、もっと親身で思いやりがある。

「茜はもっと望んでいいのよ。欲しいものは欲しいと言えばいい。たとえ手に入らなくても、望むことが大事なの」

「望むこと……」

 たしかに私は失敗することをずっと恐れていた。うまくいかなくて恥をかいてみんなに笑われることを。

 だからずっと諦めていた。手を伸ばすことを、望むことを。自分は無欲なんだと思い込み、達観した気になって世間を嘲笑っていた。本当は欲しかったくせに。認めてほしいくせに。

「ねえ、由羅」

「うん?」

 いつもの優しい笑顔。

 由羅はいつだって優しい。だけど、そんな彼女にさえ、私はずっと手を伸ばしてこなかった。愛想尽かされるのが怖くて、嫌われるのが怖くて。でも、本当に求めてもいい……?

「あのさ、お願いがあるんだけど……」

「なあに?」

 由羅がにっこりと笑みを浮かべ、私の言葉を待つ。

 ――言っていいの? 本当に?

 胸が緊張でいっぱいになる。きっと迷惑だろうし、そうしないのは理由があるのだろう。私が誰かに要望を伝え、その生き方に影響を与えてしまっていいのだろうか?

 分からない。分からない。でも――。

「……今日からは、私と一緒に寝てほしい」

 あまりの不安と恥ずかしさに、かすれた声で告げる私。

 こんな言い方だと、別の意味に受け取られるじゃないか。ふと気付き、首をぶんぶん振りながら慌てて弁解する。

「いや別に変な意味は無くって。ほら、最近寒くなってきたでしょ? だから毎晩私だけベッドで寝て、由羅が椅子に座ったままなのが申し訳ないっていうか、いたたまれないっていうか。はは‥…」

 最後のほうは勢いを失くし、ほとんど独り言に近かった。

 私は涙目になりながら俯き、上目遣いで反応を窺う。由羅は何も答えない。

 やっぱり変に思われたか。「今のなし!」と言って楽になりたい。でも、そうしてはいけない気がする。望みと違う結果を受け入れる勇気を持てと、そう彼女は言っているのだろうから。

 由羅はしばし私を見つめた後、何か得心したのか小さく頷き、私の隣にやって来た。

「狭いから、ちょっと詰めてちょうだい」

 そう言ってにっこり微笑む由羅に、思わず抱き着きたくなった。


 明かりを落とし、夜の闇に包まれた部屋の中。狭いシングルベッドの上、私と同じ布団に包まれている由羅。彼女はこちらに身体を向け、寝息ひとつ立てず静かに目を閉じている。

 もう何か月も一緒にいるから分かる。由羅は眠ったりしないのだ。だからずっと私に気を遣って、少し離れた勉強机の椅子に座って夜を過ごしていたのだろう。

 でも、もういい。私たちはお互い遠慮する必要なんてないのだ。

 私はずっと由羅と一緒に眠りたかったし、彼女だって硬い椅子に座っているよりきっと楽だろう。そうでなかったとしても、分からないものは分からないと開き直るしかない。

 これからいきなり前向きに生きていくことは難しいけれど、由羅の言う通り今は目の前の課題をこなしていこうと思う。いつかこんな私にも、やりたいことやできることが見付かるかもしれないし。

 ――おやすみ、由羅。

 私は隣の女神に心の中で告げ、目を閉じた。

 いつも心の片隅に燻っている不安は顔を隠し、愛する者の温もりに包まれたとても幸せな夜だった。

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