第2話
自宅から少し離れた国道沿いにある、ショッピングセンターへとやって来た。
ここは一階フロアがスーパーマーケットとカフェ、二階が衣料品フロアとなっている。子供の頃からよく利用しているが、郊外にショッピングモールが出来てからは学校帰りにしか立ち寄らない場所だ。
下校途中の買い食いなどは校則で禁止されているが、律儀に守っている生徒はあまりいない。実際、同じ中学校の制服を着た集団もちらほら見えるし、繁華街じゃないからそこまで危険なわけもないし。
私は入り口の自動ドア手前でいったん立ち止まり、すぐ後ろの由羅を振り返った。
「由羅。せっかくだし姿を見せて、一緒にコーヒーでも飲まない?」
由羅は一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、すぐににっこり笑って頷いた。
「いいわね。お互い女の子らしく『女子とぉく』なんてしちゃう?」
「うん。そうだね」
由羅の軽口を流しつつ、私は先に店内に入る。そのまますぐ右手にあるカフェのカウンターに向かい、コーヒーを二つ注文した。
「砂糖とミルクは?」
不愛想な若い女性店員から尋ねられ、首を振りつつ由羅に目を向ける。
「ふたつくださる?」
満面の笑顔でそう答える由羅に何も言わず、店員が紙カップに注がれたコーヒーとスティックシュガー、ミルクをふたつずつ盆に乗せる。
「ありあとうございあしたー」
横を向いたままぞんざいに手渡され一瞬ムッとしたが、黙って受け取る。平日昼間ということで席は空いていたので、窓際のテーブル席に由羅と向かい合って座る。
そういえば由羅とふたりで食事をするのは遊園地以来だ。あの頃は死ぬか生きるかの瀬戸際で、良くも悪くも色々な感覚が麻痺していたように感じる。将来のこともそうだし、恐らく現在のこともあまり考えていなかった。
あの頃から少しは進歩しているのだろうか、私は。私たちの関係は。
「んふふー。これが『こおひぃ』ってやつね? 一度飲んでみたかったのよ」
熱々のコーヒーを前に、由羅が砂糖とミルクを溶かしながら喜色を浮かべている。彼女は一部を除いて華奢な身体をしているのに、相当な甘党らしい。
――人間というのは欲深い生き物だ。
私は自分用のブラックコーヒーをチビチビ
私は元々、死ぬつもりだった。学校でイジメられて大人達からも理解してもらえず、誰にも知られず報われずこの世から消えるはずだった。
だから由羅と出会ったばかりの頃は、単純に復讐を叶えてもらえればそれでいいと思っていた。だが、その後も由羅と離れることを恐れ、ただ平穏な日々が続くことを願った。そして今、それだけでは満足できなくなっている。
――私はワガママだ。
「ねえ、由羅」
私は初めてのコーヒーに夢中な由羅の指先をぼんやり見つめたまま、ほとんど無意識に声を掛ける。
「うーん、こおひぃというのは不思議な味ね。ほろ苦いけれどコクがあって、もう少し砂糖を……え? 何か言った?」
水でも飲むかのようにホットコーヒーをごくごく飲み干してしまった由羅が、少し遅れてこちらに顔を向ける。
いつもと変わらぬ美しい眼差し。すぐそこにあるのに、決して触れられない。まるでショーケース越しに見る希代の宝石のよう。ああ、なんて遠いんだろう。
「……由羅。好きなの」
「うん? そうねえ、アタシはもっと甘い飲み物のほうが好みだけれど、まあ好きよ。他の所でも飲んでみた――」
「そうじゃなくって!」
私はなぜか胸が張り裂けそうなほど痛くて、でもその理由が分からなくて、つい声を荒げてしまった。厨房で片付けしていた店員が盆を床に落とす音が聞こえた。
「由羅……。好きなの、あなたが」
私はどうしようもない胸の苦しみを吐き出すように、すがるように想いを伝える。なんでこんなことになってしまったのか自分でも分からない。だけど、もう理性で考えている余裕などなかったのだ。
由羅はしばらく呆然と私を見つめていたが、再びいつもの柔和な笑顔を浮かべた。
「そう? ありがとう」
肯定の言葉。彼女はまた受け入れてくれた。私を。私の願いを。
私は虚脱し、椅子に座ったまま全身が溶けて無くなるのを感じた。
なんの抵抗も障壁もない、無重力のような言葉の受け渡し。押せば通るし引けばリセットできる、なんの因果も感じられないおまま事のようなやり取り。
違う。違う違う。私の望みはそうじゃない。私は、私を受け入れてほしいのではない。私を「求めてほしい」のだ、由羅に。
私と一緒にいたいと言ってほしい、由羅に。茜は私のものだと誰かに宣言してほしい、由羅に。私に執着して、束縛して、嫉妬して、私を欲してほしい、由羅に。
私を愛してほしい――。
そこで何かがプツリと切れた気がした。
私は猛然と立ち上がり、椅子を派手に倒しながら店を飛び出した。
「ちょっと、茜?」
呼び止める由羅の声も聞かず、そのままひとりで外に出る。
いつの間にか雨がパラついていた。雲はどんよりと厚くなっていて、世界はまるで夕方のように薄暗い。
私は濡れるのも構わず走り続けた。次第に雨脚が強くなる道中、ほとんど周りすら見ていなかった。もう何も考えられなかった――。
気付いたら私は、制服のまま部屋のベッドに横になっていた。
ずぶ濡れの身体を拭くこともせず、そのままベッドに崩れ落ちたのでシーツも枕も水分を含んで嫌な臭いがする。
「私、何してんだろ……」
誰もいない部屋で独りごち、ため息とともに目を閉じる。一筋の涙が零れ落ち、枕を更に濡らしていく。
考えてみたら、私はずっとひとりよがりだったのだ。復讐を望んだのも私。由羅と一緒にいることを望んだのも私。私の勝手で始めて、私が勝手に継続しているだけの関係性。
由羅は何も悪くない。由羅はいつだって優しくて、こんな駄々っ子のような私の望みをいつだって聞いてくれる。だけどすごく寂しい。私はただ人形を愛でるように、今後一生一方通行の愛情だけを抱いて生きていくの?
目から止めどなく涙が溢れてくる。窓の外で降りしきる雨に負けないくらい、私の心に哀しみが降り続く。こんなに辛い想いをするなんて思わなかった。由羅と一緒にいることが苦しいなんて。
「由羅……」
「……なあに?」
ぐずぐずした感情を引きずったまま、当てもなく発した言葉に背後から応える声。振り返るまでもなく由羅である。
今は顔を見たくない。あんなに大切な存在だったのに、私は薄情だ。自分が愛されないことを理解した途端、触れるのが怖くなる。そうした現実から目を逸らそうとする。
「ごめんなさい。しばらくひとりにして」
私は抱き枕のようにした布団に顔を埋めながら、背中越しに伝える。
由羅は何も答えない。どんな表情をしているのか分からない。だけど、確認しようがない。
「ねえ、お願いだから今はひとりにしてよ。由羅は何も望まないんでしょ? 私の願いに応えるだけなんでしょ? 私と離れられないから仕方なく一緒にいるだけなんでしょ? だったら無理して側にいなくていいよ。大丈夫だから」
言いながら、胸が恐怖で震える。全然大丈夫ではない。怖い。怖くて仕方ない。由羅がいなくなることが。
――やめて。怒らないで。いなくならないで。
心の声が必死に前言を否定する。
なのに、自分勝手な情動を抑えられない。由羅はずっと側にいてくれているのに、彼女が自分のものにならないと気が済まない。証明が欲しかった。愛でも恋でも構わない。由羅が私だけの特別だという確かな絆が。
ふとそこでベッドが軋み、背後に重みを感じた。
「えっ?」
顔を向けようとしたところでお腹に手を回され、背中に密着される。冷えた背中越しに由羅の温もりが伝わってくる。
「なに? どうしたの……?」
動揺して目を震わせながら尋ねるが、由羅は何も言わない。ひょっとして怒っているのだろうか。確かめたいけれど、体勢的に顔を見ることができない。
「ねえ、由羅――」
「アタシは」
言いかけたところ、由羅の強い言葉に打ち消された。
私はドキリとして口を閉じる。
「アタシは、神なの。どんなに望まれても、人間にはなれない」
心なしか由羅の声が震えている気がした。私は無言で頷き、続きを待つ。
「アタシは茜が好きよ。だけど、自ら求めることはできない。そうしたらアタシはアタシでなくなる。神としての自分が否定されたら消えてなくなるしかないもの」
私のお腹を抱く由羅の手に力がこもる。ひょっとして、由羅も泣いて――?
「アタシは、茜が好き。ねえ、それじゃダメ? 茜はそれだけじゃ私と一緒にいたくない……?」
その言葉にハッとした。自分はなんて勝手なことを言っていたのだろう。最も愛すべき者に対し、無理な難題を押し付けようとしていたなんて。
私は布団を捨てて振り返り由羅の顔を真正面から見据えた。彼女はいつもの泰然自若とした様からは想像つかないほど、どこか不安げな眼差しをしていた。その姿に愛おしさが込み上げてくる。
「由羅。好き。大好き。私は由羅と離れたくない。私とずっと一緒にいてください」
涙を流しつつお願いする。愛が堰を切って溢れ出し、もう止められなかった。
「ええ、もちろん。あなたが望む限り、ずっと側にいるわ」
由羅が微笑みを浮かべ、優しく頷いた。心なしか、彼女の目も潤んでいるように感じた。
「由羅……。キスして」
咄嗟に出た言葉に自分で赤面する。でも、構わない。ここにはふたりしかいない。私たちの世界には他に誰もいないのだ。
私は目を閉じ、顔を上げた。
瞼越しに由羅の影が近付き、唇に柔らかなものがそっと触れるのを確かに感じた。
胸がポッと熱くなる。冷えた全身に染みわたるように、じわじわとその熱が広がっていく。
これが絆と言えるのかは分からないけれど、今この瞬間、由羅は私だけのものだ。そして、私も由羅だけのもの。それ以上何を望むというのか。
雨音だけがこだまする薄暗い部屋の中で、私はただ由羅の温もりに抱擁されていた。
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