ゆらり、ゆらゆら2
由上春戸
第1話
あっと言う間だった夏休みも終わり、再び学校が始まった。
九月ということでもうすぐ秋だが、当然ながら未だ蒸し暑い日が続いている。冷房も無い体育館で行なわれる始業式は、否応なく学校生活の再開を自覚させるに十分な苦行であった。
二年生の私は中央列で、しかも五十音順のため最前列に立って校長先生の話を聴いている。正面の檀上で何やら訓示を述べている初老の彼は、かれこれ十分ほど喋り続けているのではなかろうか。
一応、場内の窓と扉は全て開放されているが、風も無いのでまとわりつく熱気はほとんど変わらない。まさに焼け石に水だ。校長はついさっき一年生の女子が倒れて運ばれていったのも気にせず、ますます饒舌に話し続けている。彼に人の心は無いのだろう。
私はうんざりし、隣に立つ由羅に目を向けた。白いワンピースを着た彼女は背筋を伸ばし、校長の話を熱心に聴いていてとても行儀が良い。蒸し風呂のような場内でもいつもと変わらぬ涼しい顔。さすが神様だ。
「……長いわね。これ、いつ終わるの?」
私の視線に気付いたのか、由羅が顔をしかめて耳打ちしてきた。
前言撤回。やはり彼女も苦痛だったようだ。
「さあ。あと十分は続くんじゃない?」
「そうなの? さっきから同じようなことばかり言っているけれど、なんでそんなに時間かける必要があるのかしら?」
「そうやって自分の偉さを見せつけたいんじゃない? 他にやることも無いだろうし」
校長が普段どんな仕事をしているのか知らないけれど、とても忙しそうには見えない。実際、忙しい人間なら挨拶なんて手短に済ませてすぐ自分の仕事に取り掛かりたいだろうし。
「はあ。人間って面倒ね」
「そうだね」
私たちは互いに肩を竦め、校長に向き直った。
私の予想に反し、彼の話はその後二十分続いた。
夏休み明け初日ということで、始業式を終えた後はホームルームだけでそのまま下校となった。
時刻はまだ正午前。登校日なのに授業がないという解放感から、皆お喋りに興じてあまり帰ろうとしない。授業中は死んだように静まり返った教室内は、まるでパーティー会場のような喧騒に包まれている。
私は当然、そうした集団の輪に加わることなどしない。黙々と鞄に筆記用具などを詰めていざ帰ろうとしたところで、宮野が席にまでやって来た。
「伊田ぁ、久しぶりじゃん」
そう言って笑顔を見せる宮野は、夏休み明けとはいえ以前と変わらぬ白い肌をしていた。そういえば、日焼けは絶対許さない主義とか言っていたことがあったように思う。ただし、その
「うん、久しぶり。元気そうだね?」
挨拶を返すと、宮野がニカッと白い歯を見せた。その態度に少しばかり違和感を覚える。以前からよく喋る子ではあったけれど、こんなに屈託なく笑うタイプだったろうか?
夏休み前の記憶を辿ってみるが、正直言って彼女の記憶があまりない。というか、それまでの私は由羅のことしか考えていなくて、それ以外のことはまさに「それ以外」でしかなかったのだとふと気付く。
「えへへ、そう見えるぅ?」
宮野はやたら上機嫌で、何か言いたげだ。
ぶっちゃけあまり興味はないけれど、その甘ったるい顔でまとわり付かれても面倒だ。仕方なく彼女に質問する。
「どうしたの、宮野。何かいいことでもあった?」
「えっ、なんでぇ?」
わざとらしく驚いて見せる宮野。だんだん腹立たしくなってきた。
「いや、さっきから機嫌良いなって思って」
「えぇー、そんなことないよぉ。でもぉ、まぁ、伊田になら言ってもいいかなぁ」
いつも以上に回りくどい喋り方。
私は相槌打つのすら面倒になり、無言で続きを促す。
「実はぁ、私ぃ、昨日告白されちゃってぇ、付き合うことになったんだぁ」
「えっ」
衝撃だった。
告白とは罪の告白などではなく、この場合は当然愛の告白ということだ。つまり、付き合うということは、誰かと恋愛関係になったということに他ならない。あの宮野が。
動揺を気取られぬよう、目を伏せ尋ねる。
「付き合うって……誰と?」
「えぇーっ、伊田の知らない人だよぉ。先輩の男友達から紹介された高校三年生。お父さんがお医者さんなんだって」
最後の情報は要らない。
いやまあ、宮野が高校生の男子とよく遊んでいることは知っていたし、いずれ誰かと付き合うんだろうなという予想はしていた。だが、そんなにすぐだとは思っていなかったのだ。だってまだ中学生だし……。
「へ、へー。そうなんだ……」
そのまま固まってしまう私。何か言わないといけないのは分かるけれど、何も浮かんでこない。
「おめでとう!」とか言えばいいのか? それとも、「この裏切者めー」とか言って茶化せばいいのか? だけどなぜか、そうした好意的な感情は湧いてこなかった。
私が二の句を継げずにいると、宮野が困ったような笑顔を浮かべた。
「伊田も早く彼氏作りなよぉ。なんなら今度紹介したげるからさぁ、みんなでご飯行こうぜぇ」
「う、うん……」
私は急に胸が痛くなり、表情を取り繕う余裕もなかった。空返事してその場を離れ、逃げるように教室の外に飛び出す。
なんなんだろう、この感情は? どす黒くて、気持ち悪くて、胸を蝕む醜悪な感情。
なんだろう、この置き去りにされたような虚無感は?
あれ、私……。
空は一面薄雲に覆われ、日差しは穏やかだが相変わらずじめじめと蒸し暑い帰り道。私は通学路の田んぼ道を由羅と並んで歩きながら、ひとつため息を零す。
――付き合うことになったんだぁ。
学校で宮野から告げられた言葉が、先ほどから脳の片隅にこびりついて離れない。でも、なんで?
友達として、宮野に彼氏が出来たことは素直に喜ぶべきだろう。それは分かる。別に自分は彼女に対して友達以上の感情は抱いていないし、怒ったり責めたりする筋合いもない。なのに、なぜかずっと胸の奥でモヤモヤしたものが渦巻いている。
理由は分からないが、私は宮野に嫉妬していた。
頭がズキンと痛み、たまらず立ち止まる。
「どうしたの、茜?」
隣を歩いていた由羅が少し遅れて立ち止まり、こちらを振り返った。
すっかり枯れ果てた向日葵がまばらに残る休耕田を背に、涼やかな眼差しを向ける私の女神。ああ、確かに由羅は私の側にいてくれる。その事実に安心感を覚えつつ、なぜか今日は少し寂しさを禁じ得ない。
「由羅……」
今日の私はおかしい。宮野と話してから自分の感情が理解できず、ややもすると泣きだしてしまいそうなのだ。
そうしたモヤモヤを伝えたくて、でもどう言えばいいのか分からない。私はただ呆けたように由羅の目を見つめる。
「茜、なんだか疲れているみたい。今日は早く休む?」
由羅がそう言って、私の頭を撫でる。
いつもなら胸高鳴る彼女の優しさが、今日は少しだけ苦しかった。違う、そうじゃないと心の声が告げていた。
「だっ、大丈夫。ていうか、あんま早く帰ってもやることないし、どっか寄って行かない?」
無意識に身体を避けてしまい、慌てて笑顔を取り繕う。
「ん? 別にいいけれど」
由羅は釈然としない様子だったが、私の唐突な提案にも嫌な顔ひとつせず首肯してくれた。
彼女はいつも私を否定しない。言いなりというのではなく、全て寛大に受け入れてくれる。それがすごく嬉しくて幸せなのだけど、時々不安になる。
神は何も望まない。かつて由羅はそう言った。
つまり由羅が私と一緒にいるのは、私が望んでいるからということだ。少なくとも、私が拒めば彼女は何も言わず離れていくのだろう。それはすごく都合の良い関係だけど、とても淡白で浅薄だ。
だって、私は由羅に「求められていない」ってことなのだから……。
心なしか日差しが遠のいた気がする。
私は不穏な予感を振り払うように、道中は無理に鼻歌など歌っていた。
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