第8話

 オレは宿直室の扉を閉めて鍵をかけ、静かに問うた。



「また吸血衝動が来たんだな。

 前回のお前は、そんな酷い状態じゃなかったぞ。

 ウサギから吸わなかったのか?」




 桐生は言葉を紡ぐのも辛そうで、どうにか呼吸を整えようとしていた。

 顔を上げた桐生の目を見て、オレは驚いた。



 桐生の黒い瞳の周囲に、プロミネンスのように燃え盛る赤い光。

 皆既日蝕のようだ。

 異常な輝きの正体は、黒目部分の違和感ですぐ理解した。

 桐生は黒のカラーコンタクトをつけているのだろう。自身の瞳が色を変えることを知っていれば、当然対策をとるはず。

 隠した色がはみ出て、煌々と赤をにじませる様は、コンタクトをしていないほうがマシに見えるほど人外じみていた。




「目の色、カラコンから漏れてるぞ」



「え、うそ」




 桐生は目を隠そうと手を伸ばしたが、今更だと気づいて諦めたようだった。

 はあ…と、桐生が深く重い息をつく。

 桐生の額から汗が伝い落ちている。相当苦しそうだ。




「お願い、だから。出て行って、朝霧。

 限界、…ぎりぎり、で、

 近寄ると、本当に危ない」



「何故、動物から吸血しない!?

 ええと、確か、一週間ほど耐えれば衝動は薄まると言っていたな。

 しかしそんな状態まで耐える必要があるのか?宿直のタイミングが合わなかったのか?」



 桐生は答えなかった。

 ゆっくり首を横に振り、唇の動きだけで『出て行って』と再度告げる。

 馬鹿を言え。今のお前の瞳、尋常じゃないぞ。

 このまま宿直室にこもる気か?目を隠してどうやって退勤する?



 吸血衝動は飢餓に似ていると、桐生は言っていた。

 生理的欲求は、普通は耐えられるものではない。人間の生命にかかわるものは、肉体が渇望するように出来ている。

 それでも耐える理由は。意味は。



 ……そんなものは後で考える!!



 オレは宿直室のペン立てをまさぐり、カッターナイフを取り出した。

 適度に刃を出し、一気に左手の親指を切り裂いた。

 一気にやればいけるかと思ったが、痛い!当たり前だ痛い!!




「朝霧何してっ、むぐっ」




 驚きで何か言おうとした桐生の口が開いたので、思いっきり親指を突っ込んだ。

 5cc…親指をカッターで切った程度では足りないとは思うが、少しでも足しになれば。

 桐生は一瞬だけ抵抗したが、日蝕の瞳が獣のように輝いたかと思うと、オレの親指に激しく吸い付いてきた。

 恐ろしくも美しく、雄々しい姿だと思った。

 普段穏やかな桐生が豹変するからか、余計に野生的魅力を感じる。

 それとも、こいつのこの姿が地で、温厚な姿は演技なのか?



 舐めて、吸って、甘噛みして、桐生の舌が指に吸いついてくる。

 ぞくっと背中に何か走ったが、どうにか堪えた。

 唾液の効果か、痛みが和らぎ消えていく。

 カッター程度の傷はすぐ治ってしまったらしく、桐生はゆっくりオレの親指を解放した。

 傷が小さかったからか、吸血による副作用は出ない。

 桐生の瞳のプロミネンスは静まっている。だが、カラコンの下が黒目かどうかはわからない。




「……素直に礼を言えないよ。

 自分の指を傷つけるなんて正気じゃない」




 桐生は、まだ少し苦しげだったが、普通に会話できるようになっていた。

 やはり足りなかったか。とはいえ、オレもあれ以上切るのは無理…というか、もう一度やれと言われてもきつい。かなり痛かった。




「冷汗かいて動けなくなるまで我慢するほうが正気じゃないと思うが?」



「………。

 朝霧は」




 桐生は唐突に話題を変えた。




「僕が気持ち悪くないの。

 僕は朝霧に、あんなことを」



「すまん!!!」




 いきなりオレが九十度に頭を下げて、桐生のほうがびくっとした。




「この一か月、謝ろうと思っていてタイミングを逃し続けた!

 言い訳は以上!

 好奇心で、血を吸えといったのはオレだ。

 あんなことになって、お前に大変失礼なことをさせた。

 申し訳ないと思っている。

 男の性処理など、さぞ気色悪かっただろう」



「え」



「あれはオレが好奇心で自爆した結果であって桐生は何も悪くないし、さらにオレはお前にどう謝罪したら、謝罪は今しているんだが、あんなはしたない、いや汚い、いやその、みっともないものをアレさせた詫びはどうすればと思」



「待って朝霧!待って、ストップ、いったんそこまで!!」




 放っておいたらオレは、羞恥心を誤魔化すためにしゃべり続けていたかもしれない。

 途中から、何を言ってるのか自分でも謎になっていたし、恥の上塗りとはこのことだ。



 なのに桐生はひどく驚いた顔で、何度もゆっくりまばたいて、頭を上げたオレをまじまじ眺めた。




「男に触れられて気持ち悪かったのは朝霧じゃないかって、思って、僕は」



「あの状態はオレの自爆だと言っただろう。

 お前はオレが動けるように、頑張ってああしてくれたんだろう?」



「頑張って??」



「頑張るじゃないなら、事務的、あるいは応急処置か?」




 謎の沈黙がオレ達の間を流れていった。

 言葉を間違えたか?

 よく口論で相手を怒らせることはあったが、謝罪で怒らせることはなかったから、わからん。

 そもそもオレは滅多に謝罪をしないし。




「朝霧、これだけ答えて。

 僕が朝霧の、その、ズボンの中に触れたこと、嫌じゃなかった?」




 答えにくい質問を!!

 だが非はこっちにある…。誠実に答えなければ…。




「嫌ではなかった。

 頭がぐらぐらして、まともな思考ができていなかったからか……心地いいとさえ、思った。

 そういう行為なんだからそうなんだろうが、オレはそういう経験がなくて」



「ないの!?」



「他者を介した行為の経験がないというだけだ!!」



「ないの!?!?」



「お前今馬鹿にしたな!?

 34歳童貞で何が悪い!!今時普通だろ!!

 実際にされたら、あんなに気持ちいと思わなかっ、………」




 勢いづいて言ってしまって、思った。

 嫌かどうかだけ、イエスかノーかだけ答えればよかったのでは?

 恥は何回でも上塗りできるものらしい。そのうち塗りすぎて出っ張りになりそうだ。




「ぷっ、…っくっくっ…」



 桐生は声を抑え、必死に笑いを堪えている。

 あああああ!!

 オレのほうが、今すぐ逃げたい!!




「僕、気色悪い奴と思われたんじゃないかって、ずっと悩んでたんだ。

 朝霧の出したもの…舐めたりしたし…。

 もう合わせる顔がないと思って、吸血そのものが罪悪感になって、できなくなって」




 通常ならそろそろ吸血すべき時期になっても桐生は吸血行為できず、限界がきて、今に至ったらしい。




「ちゃんと話せばよかったな…」



「うん。ちゃんと話せばよかった。

 ごめんね、朝霧。あの時は破廉恥なことをして、本当にごめん。

 僕からも謝らせて。朝霧は悪いこと、何もしていないよ」




 お互いにちょっと笑いあう。

 ようやく、桐生に穏やかな笑顔が戻った。

 心からほっとした。

 こいつは笑顔が似合う男だ。

 生徒と戯れながら、いきいきと授業しながら、笑っているのが似合う男だ。




「黙っていると余計に事態が悪化するとわかったから、正直に言うよ」



「うん?」



「足りない…です」



「足りな、えっ、あ」



「まだ、僕は満たされてない」





つづく

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