第7話

 地獄の一か月だった。

 オレだけではない。教師のほとんどが屍のようになっている。

 アヤザワ高校は、一学期さえ乗り切ればなんとかなるのだが…。




「まだ五月も終わってない…とは…」




 入学式、体育祭、1・2年生の宿泊実習、3年生の修学旅行などなど、大体の行事が全部、一学期に詰め込まれているのだ。

 中間テストは存在しない。授業で頻繁に行われる小テストと、全国模試、期末テストを総合して成績をつける。

 私立高の中でも、かなり独自路線だと思う。

 二学期にある行事は文化祭くらいで、残る期間は、受験を想定した勉強法を黙々と教える。

 実際に毎年、そこそこの人数があの大学やこの大学に合格している実績がある。伊達に授業料が高いわけではないのだ。




「朝霧先生。国内修学旅行、いかがでしたか」



 優しげな壮年の声がして顔を上げると、死相が垣間見える教頭が微笑んでいた。

 西村 悟志(にしむら さとし)教頭。54歳。この学校最強の苦労人だ。




「一睡もできませんでした…。

 国内のほうだからと、甘く見てました。

 あいつら、はしゃいですぐどこか行こうとするし!夜は勝手に出歩こうとするし!

 告白合戦は就寝時間前にやれ!!」



「ああ、今年もですか。

 生徒にとっては一生に一度のイベントですからね。

 したいんでしょう、告白」



「西村先生は…国外組と一緒に行ったんですよね…?

 大丈夫でしたか…?」



「三回ほど現地警察から注意を受けて、帰りに何人か検問にひっかかったくらいですよ。

 おみやげが、ちょっとね」



「お疲れ様です……」



 生徒のパスポートの有無と本人の希望を考慮して、修学旅行は国外と国内二か所から選べる。今期はパリと沖縄だ。

 理事長は、部活にしろ制服にしろ修学旅行にしろ、生徒受けするものにはカネを惜しまない。

 三泊四日の豪勢な旅は、生徒には輝くような思い出となるだろうが、教師は手続きや誘導や危機管理や、やることづくめで息つく暇もない。

 生徒に両腕を掴まれ写真を撮られた気がするが、オレはどんな顔で映っていたのだろう。

 とにかく終わった。修学旅行はクリアした。



 ちら、と隣の机を見る。桐生の姿はない。

 1・2年生の宿泊実習は先に終わっているから、1年の担任の桐生はもう通常業務に戻っているはずだが、姿が見えない。

 それは今日に始まったものではなかった。



 忙しさにかまけていたのもあったが、あの日。

 桐生に血を吸えと自分で言い出して、吸わせて、大変なことになってから、気まずくてまともに会話していないのだ。



 あんなことを!させてしまった!!



 予想外の副作用は、言い出しっぺのオレが全面的に悪い。桐生に罪はない。

 なのに桐生に、オレは……

 34歳のオッサンのシモの処理をさせてしまった!!!



 忘れてしまいたい、いや、その前に、ちゃんと謝らなければ。

 そう思いながら忙しくなり、あれよあれよとタイミングを失って。

 思い出してみると、桐生もオレを避けていたような気がする。

 それはそうだろう。気持ち悪いことをさせてしまった。恥ずかしい…。



 そう思っているなら早く謝ればいいのだが、桐生の顔をまともに見る勇気がない。

 あの時を思い出すと、




 あの快感が、生々しく思い出されて、あああああああ




 はっきり言えば気持ちよかった。

 今まで生きてきて、あんな、雷が落ちるような衝撃はなかった。…凄かった。

 さらに言おう。オレは彼女いない歴イコール年齢、童貞だ。

 他者を介した性的な体験は、あれが生まれて初めてだった。



 吸血行為も…。

 無駄に顔がいい桐生の目が赤く光って、吐息が近づいて、首にちくりと痛みが走って。

 その後、食い込んでいく牙の感覚が、…どう言えばいいかわからない。恐ろしいと感じるどころか、脳のどこかがどろどろになっていく気がした。



 アレは、本当に、ちょっと、アレだった。



 とろけたままの脳は思考が回らず、ふわふわして、心地よくて、熱くて、幸せで…。

 オレのシモの処理をする桐生は、いつものほんにゃり感が消え去って、男の顔だった。

 アレは、本当にちょっとアレだった!!



 思い出すだけで反応してしまいそうで。どんどん先延ばしにして。

 結局、修学旅行が終わるまで、桐生とは必要最低限の会話しかしていない状態だった。

 これではいかん。オレが悪いんだ。あいつが怒って当然だし、オレも教師だ。

 生徒に顔向けできるよう、謝罪はしっかりしなければ。




「西村先生、桐生先生は今、授業ですか?」



「小宮山先生かい?

 いいや。時間割には入っていないようだけれど」




 西村教頭が職員室の張り紙をチェックする。桐生は空き時間のはずだ。

 覚悟を決めて職員室で待っているのに、このままではまた先延ばしになる。




 オレは、1年教室棟の廊下を歩いてみることにした。

 桐生はよく、別の先生のピンチヒッターを任されては笑って引き受ける。

 あいつの声は明るくてよく通る。授業をしていればすぐわかるだろう。

 授業の邪魔をしないよう、足音を忍ばせて1年教室棟の廊下を歩き切ったが、あいつの声はしなかった。



 図書室か?

 教師が図書室を使うことはほぼない。専門書は、各準備室に山ほどある。

 桐生が資料を探すとしたら古典準備室?

 しかし、あそこはオレが赴任した12年前から埃の巣窟で、誰も発掘を試みようとしない。

 必要なものだけ棚に避難させてある、ハウスダストアレルギー接近禁止区域だ。籠るなんてありえない。



 偶然通り過ぎた宿直室から、何か聞こえた。

 防音はしっかりしている部屋のはずだが。よく見ると数センチほど、扉が閉じ切っていない。



 荒く激しい呼吸音。

 まさか、誰か中で倒れている!?




「おい!?」




 オレが扉を開け放つと、中にいる人影がびくっと反応した。

 ずいぶん長くなった後頭部のしっぽ。スズメというよりツバメくらいに伸びている。

 床に座り込み、二段ベットの一段目に突っ伏している桐生は、オレの声を認識したのに顔を上げなかった。



「どうした?大丈夫か!?」



「近寄らないでくれるかな」




 驚くほど低い声だった。

 穏やかな桐生の、明確な拒絶。

 顔を上げないまま、桐生はさらに言葉を続けた。




「授業中に騒がないで。そのまま出て行って」



「桐生……」




 オレの顔を見ようともしない。

 そこまで、オレはお前を怒らせたのか。

 一か月も謝罪を放置したオレを、許す気はないということか。

 お前の気持ちをおざなりにしていたオレが悪かった。

 いや、あの日にもう、桐生はオレを気持ち悪い存在と認識して、もうあの時点で、許されることは、




「うう…っ!」




 桐生が呻いた。肺から絞り出すような声だった。

 続いて、荒い呼吸。

 腕で隠した顔の合間から、赤い何かがちらっと光った気がした。



 オレは当然のことを忘れていた。

 オレが桐生の正体を知って一か月。

 桐生の吸血衝動の周期は…一か月!




   つづく

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