第4話:現実と幻想の狭間で

翌日。その夜、俺は再び千紗の日記を手に取った。昨日読んだページの続きを開く。手が少し震えている。


『8月26日』


『今日は2学期の始業式だった。こーちゃんと同じクラスになれて本当に嬉しい!でも……こーちゃんの隣にいられないのは寂しいな』


俺は息を呑んだ。この日記、まるで千紗が何かを予感しているかのようだ。


『教室で、こーちゃんが私の席を見つめていた。悲しそうな顔をしてた。私、こーちゃんを悲しませちゃったんだ……。ごめんね、こーちゃん。』


胸が締め付けられるような感覚がした。確かに、2学期が始まった時、俺は千紗の席を見つめていた。でも、どうして千紗はそのことを知っているんだ?


『10月10日』


『今日はこーちゃんの誕生日!おめでとう、こーちゃん!』


『私、プレゼントを用意してたんだ。でも、渡せなかった。こーちゃんの机の中に、こっそり入れておいたよ。見つけてくれたかな?』


俺は思わず机の中を確認したくなった。でも、そんなはずはない。千紗はもういないんだ。


『こーちゃん、今日は将人くんたちと祝ってもらえたみたいだね。良かった。でも、私も一緒にお祝いしたかったな……。』


俺は涙を堪えきれなくなった。確かに、誕生日は将人たちと祝った。でも、千紗がいない誕生日は、どこか寂しかった。あれから結構経った今でも、その寂しさは変わらない。


『こーちゃん、私の気持ち、伝わってる?私は今でも、こーちゃんのそばにいるよ。ずっとずっと、見守っているからね。』


俺は日記を閉じ、深く息を吐いた。頭の中が混乱している。この日記は一体何なんだ?千紗の幻影?それとも……。


ふと、部屋の隅に千紗が立っているような気がした。振り返ると、そこには誰もいない。だが、かすかに千紗の香りがした気がする。


「ちー……お前、本当にここにいるのか?」


問いかけに対する返事はない。ただ、風が窓を軽く揺らした。夜風が、部屋に流れ込んでくる。


俺は再び日記を開いた。次のページには何も書かれていなかった。その空白のページを見つめていると、突然、あの日の記憶が鮮明によみがえってきた。


あの日――千紗がいなくなった日のことを。


夏休み初日、いつものように俺と千紗は一緒に帰路についていた。


「ねえこーちゃん」


「……ん?」


千紗が俺に話しかけてきた。


「かっこよくなったよね。こーちゃんは」


「は? なんだ急に?」


いきなりわけのわからないことを言い出す千紗に俺は戸惑いつつそう返した。


「いや、だってさ、こーちゃん昔に比べて随分と力強くなったし、体もがっしりしてきたし。それに、背も伸びたよね」


「まあ、確かにな」


俺は千紗に言われるがまま、自分の変化について考えてみた。


昔は背も低くて、よくガキ大将にいじめられてたっけな……。まあでも、今は千紗より背が高くなったし、体つきも細身だがそれなりには筋肉もついてきたほうだ。


「あたしは嬉しいよ?こーちゃんがこんなに立派になってさ」


「……褒めてんのか?」


「うん!でも、顔はイケメンじゃないよね」


「余計なお世話だ!」


……ったく、人が素直に喜んでりゃこれだよ……。


「ふふ、冗談だって」


千紗はそう言うと、俺の肩をポンポンと叩いた。


「……ったく」


そんなやり取りをしながら帰り道を進む俺たち。その時だった。


ドガアアアアアンッ!!!!!!


突然、耳をつんざくような轟音と共に、車がガードレールを突き破り、俺たちのいる歩道に突っ込んできた。


「う、うわあああッ!?」


俺は咄嗟に体を翻して回避した。だが、千紗は――。


「ちー!!」


目の前で車が千紗を直撃し、そのまま壁に激突した。俺は足がすくみ、その場から動けなくなった。車の下には、千紗の足が見えていた。


「ちー!!」


体が勝手に動き、俺は千紗の元に駆け寄った。そこには、車と壁の間に挟まれた千紗の姿があった。顔を見た瞬間、彼女がもう意識を失っていることがわかった。


「おい、ちー! しっかりしろ!!」


必死に声をかけるが、千紗は何の反応も示さない。辺りには大量の血が流れ出し、その光景に俺は一瞬息を呑んだ。


「ちー……!」


彼女を助け出そうと手を伸ばすが、無理だとすぐに悟った。車の重量が彼女の体を押しつぶし、少しでも動かせばさらにひどいことになるかもしれない――そんな恐怖が俺をその場に釘付けにした。


「誰か……助けてくれ!!」


周囲に助けを求めたが、誰もすぐに来ることはできなかった。その時、背後から誰かの手が俺の肩を掴んだ。


「引火するぞ! 早く離れて……!」


俺はその声に気づかず、千紗の体を見つめ続けた。彼女の呼吸は、もう感じられない。


「ちーが……ちーがここにいるんだ……!」


その手が俺を引き離そうとした瞬間、車のエンジンが急に燃え上がった。火が車全体を包み込み、俺は強引に後ろへと引き戻された。


「もう助からない……残念だが、離れるんだ!」


その言葉が、俺の胸に突き刺さる。


「ちー! ちー!!」


叫び続ける俺の声は、もう届かなかった。車が炎に包まれ、千紗の姿はその中に消えていった。目の前に広がる炎と黒煙が、すべてを飲み込んでいく。


その後のことはよく覚えていない。ただ、あの燃え盛る炎の光景と、俺の無力な叫びだけが鮮明に残っている。


「っ!」


俺は現実に引き戻された。手の中の日記帳が、涙でびしょ濡れになっていた。


「ちー……なんで、お前だけが……」


俺は呟いた。あの日以来、何度も同じ言葉を繰り返してきた。


でも、今夜はなぜか違った。千紗の日記を読んで、彼女がまだここにいるような気がしてきた。


そう、まるで千紗が俺のそばで、あの日のことを一緒に思い出しているかのように。


「ちー、お前本当にここにいるのか?」


俺は部屋の空気に向かって問いかけた。返事はない。でも、どこかで千紗の笑い声が聞こえた気がした。


俺は日記帳を胸に抱きしめ、目を閉じた。


明日は佳奈と映画に行く約束をしている。でも、心の中では千紗のことで頭がいっぱいだった。


この日記の謎。そして、千紗の想い。全てを知るには、もっと読み進めるしかない。


そう決意して、俺はベッドに横たわった。


窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。季節は確実に進んでいるのに、俺の中では時間が止まったままだった。それでも、少しずつ何かが変わり始めているような気がした。


明日、佳奈と過ごす時間が、どんな変化をもたらすのか。俺にはまだわからなかった。ただ、千紗の存在を感じながら、新しい一歩を踏み出す勇気が湧いてきていた。

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