第21話 この目に焼きつけよう

「まったく、よくやりますなあ」

 張将軍が馬上でぼやく。

「丞相がこれだけ国を空けているというのに、よくもっておりますなあ、蜀は」

「もともとが肥沃ですからな」

 同じく馬上で仲達どのが応じる。

「放っておいても治安が保たれているというのが驚きです」

 蹄の音がぽくぽくと重なりあう。

 ぼくたちはゆっくりと行軍している。

 これから、また祁山に出撃した孔明と対峙しに向かうのが信じられないくらい、のどかな雰囲気だった。

 先ほどの張将軍の驚きを受け、仲達どのが続ける。

「もともと蜀はそうした土地だったのです。山に囲まれ、長江の源流だけあって川の本数も多い。以前のあるじ劉璋が特に工夫しなくとも治まっていたのです。それを孔明が、劉備の所領としてはどうかと提案した。その結果劉備は、劉璋から蜀を奪った。我々がかつて漢中を奪い合ったのも、そのことに端を発しています」

「つまり、住民が穏やかで、どのような君主のもとであったとしても自然と治まる土地であるというわけですな」

「左様です、儁乂将軍。孔明は最終的には劉備に洛陽を落とさせ、漢の帝を迎えさせる腹づもりであったに違いありません。そのためにも蜀を足がかりとしたかった。今の蜀の政庁には、孔明が自ら取り立てた官吏たちが多い。つまりそこには孔明がいるのと同じこと」

「そこまで周到に用意されていたとは」

「ところが志なかばで劉備が崩御した。これは孔明にとって誤算だった。もう少し長生きすると思っていたに違いありません。しかし関羽も張飛も殺され、馬超と趙雲は病に倒れた。遺されたのはまだ若い、経験の浅い臣下たち。魏延のように身勝手な者がいても、命令違反したにもかかわらず処刑もできない。魏延の勇猛さや経験をとったのでしょうな」

 父上が仲達どのを見る。

「蜀がいかに肥沃とはいえ、そこで収穫したものをすべて兵糧として持ってくることはできない。つまり孔明は、我が国の麦を刈り取り、兵糧にしようとしている。それゆえ隴西に兵を進ませている。仲達どの、合っていますか」

「ええ、おっしゃる通りです、子廉将軍。しかし我が国の麦をかやつらに持ち去られるのは何としても阻止しなければなりません。我が方とて兵糧は必要ですし、何よりも民が飢えます。それだけは、阻止せねば」

 ぼくは暁雲を見る。

 孟徳のおじ上によく似た整った顔をややうつむけて、彼は何かを考えている様子だった。


 隴西に着き、陣を張る。

 最初の軍議で、暁雲は言った。

「それがしが武祖様の亡霊になります」

 一瞬、間が空いた。

 そしてぼくたちは揃って間抜けな声を上げた。

「はあ?」

 暁雲は、にやりと笑う。

「それがしが麦畑に立ちます。そこで」

 間者三兄弟の、蘇の長男が進み出る。

「俺たちが叫びます。『武祖様が、化けて出た!』」

 蘇の次男も言う。

「これを繰り返せば、孔明が確かめに出てくるでしょう。麦を手に入れられなければ、困るのは向こうですからね」

 蘇の三男が人懐こい顔に不敵な笑みを浮かべた。

「もちろん、前もって畑の周りに住んでる人たちも信じさせなきゃいけません。だから蜀軍が来る前に、住んでる人たちの前でも同じことをします」

「住民も一緒に騒げば、大騒ぎになる」

 細く短いあごひげをつまみ、仲達どのが口の中でつぶやく。

「孔明は必ず確認するために現れる……」

 暁雲は真剣な顔つきになった。

「我が軍の将兵は、戦続きで疲弊しております。それは蜀軍も同じことです。このままでは戦をしたとしてもすぐに決着はつかず、最悪の事態として戦が長引き、兵糧は減ります。孔明は祁山を背にしているゆえ有利ですが、我々は都から離れており、地の利はありません。そのためにもできるだけ事を構えずに孔明に引き上げさせる方がよいと考えたのです」

 真正面から仲達どのは暁雲を見る。

「しかし暁雲どの、かやつらに麦を刈り取らせぬだけでよいのですか」

「孔明を成都に戻す方法なら、あります」

「それは?」

「偽の情報を流すのです」

「たとえば?」

 暁雲が静かだけれど、強い声で言った。

「魏と呉が同盟した」

 ぼくたちは仲達どのの返答を無言で待つ。

 仲達どのは目を閉じている。

 時が沈黙のうちに過ぎる。

 仲達どのが、キッと顔を上げた。

「よろしい。乗った」

 矢継ぎ早に言葉を発する。

「暁雲どの、武祖様の亡霊になってくだされ」

「心得ました」

「蘇の次男と三男、暁雲どのについてゆけ。麦畑の周辺の住民になりすまし、七日間騒ぎ立てろ」

「承りました」

「蘇の長男、成都へゆけ。孔明と親しい高官にふれ回れ。詳しく語る必要はない、ただ、呉が蜀の後ろを襲うとだけ言えばよい。間者の半分をおまえに預ける。長江のほとりで暮らす住民もたきつけろ。呉の戦艦がさかのぼってくるとでも騒げば、成都の役人どもも浮き足立つ。孔明は必ず引き上げる」

「承知いたしました。必ずや」

「ではさっそく、行って参ります」

 暁雲が拱手した。



「どうしてあんなことを考えついたんだい」

 軍議のあと、ぼくは暁雲に聞いた。

 彼は笑って答えた。

「俺たちの国の麦をただ奪われるのはしゃくにさわるからさ」

「それだけかい」

「父さんだよ」

「孟徳のおじ上が、どうかしたの」

「父さんならどうするか、ずっと考えていた。多分こうすると思ったのさ」

 ぼくもなんだか笑えてきた。

「暁雲」

「なんだよ」

「ぼくも行くよ」

「なんで。おれ一人でやるからいいのだろ」

「楽しそうだから」

 ぼくたちは二人して笑いあった。



 麦畑に蜀の兵たちが、鎌を手にしてやって来る。

 気取られないように、夕暮れ時を選んで現れる。

 あたりは薄暗い。

 兵の一人が、止まる。

 麦畑の真ん中――すでに近くに住む人たちが麦を刈り取っている――そこに、騎兵が一人、立っているのに気づく。

 誰だ?

 彼はよく見ようと、近づく。

 その騎兵は、血のように暗い赤色をした、長い袍をまとっている。

 畑の向こう側で、蘇の三男がまず、叫んだ。

「ぶ、武祖様だあっ」

 蜀の兵が足を止める。

『武祖様』とは誰のことか知らなくても、いきなり叫ばれたら、立ち止まるだろう。

 蘇の次男も叫ぶ。

「武祖様がお怒りだあ」

 ぼくたちに協力してくれる、畑の周りに住んでいる人たちも、一緒になって騒ぎ立てる。

「武祖様が化けて出たあ」

「武祖様だ」

「武祖様だ」

「武祖様だあ」

 ぼくはというと、暁雲の真後ろに立っている。

「おい、どうしたんだよ」

 蜀の、もう一人の兵が叫んだ。

 最初に来た一人は麦畑で固まっている。

 暗い赤色の袍をつけた騎兵を、じっと見ている。

 その手に握った鎌が、震える。

 暁雲がそこで、呼びかけた。

「おまえは誰だ」

 つくづく孟徳のおじ上にそっくりだ。

 兵がびくっと震え上がる。

「蜀の兵か」

 兵の手から、鎌が落ちる。

「孔明の指図か」

 兵があとずさる。

 そこで暁雲は、右手を上げた。

 ぼくは矢を、兵の頬すれすれに飛ばす。

 兵がしりもちをついた。

 その顔は、完全におびえている。

 暁雲は無慈悲に言った。

「孔明に伝えよ。麦が欲しくば、おのれで刈りに来いと」

 兵が倒れた。

 仲間が駆けつけ、倒れた兵をかついで、走って逃げた。

 むろんこれを、仲達どのたちも見ていた。

 暁雲が戻ると、仲達どのは冷静に拱手で迎えた。

 張将軍は真っ青になって震えている。

「た、確かにぶ、武祖様だった……」

 父上は爆笑した。

「ほんとうに孟徳兄そっくりだったぞ、暁雲」

 張将軍が父上に叫ぶ。

「笑い事ではありませんぞ子廉どの! それがしほんとうに武祖様かと思うたのですぞ! ほんとうに怖かった! 怖かったのですぞ!」



 これを繰り返すこと七日。

 蜀の兵は麦畑に現れなくなった。

 そのかわりに、ほんとうに、孔明が現れた。



 孔明はしかし、ただ現れたわけではない。

 そしてぼくたちも、ただ彼を待ち構えていたわけではない。

 ぼくたちは麦を刈り取った。

 暁雲はあちこちの麦畑に出没した。

 むろん、孟徳のおじ上の亡霊としてだ。

 蜀軍は右往左往している。

 どこの麦畑へ行っても、「武祖様が化けて出」るからだ。

 蘇の次男が仲達どのに報告した。

「蜀軍の兵糧輸送が遅れております」

「なぜだ」

 仲達どのがぼくたちの前で間者にただした。

 蘇の次男は答える。

「蜀では長雨だそうです」

「収穫もままならぬし、輸送もとどこおっているということか」

「蘇たちの工作は、うまくいっております」

「高官たちは、信じる者が増えているか」

「諸葛亮を呼び戻そうという声が高まっております」

「蜀は盆地で川も多い。攻めてきても守りやすい。よってあえて事を構えようという者たちは、成都の居残り組の中にはおらぬだろう。蜀は兵糧輸送が遅れると、厳しく処断されるそうだ。そうなれば輸送の担当者が、魏呉同盟の噂を処断逃れの口実に使うかもしれぬ」

 仲達どのは蘇の次男に別の質問をする。

「孔明の動きはどうだ」

「武祖様の亡霊の正体を突き止めようと、間者を差し向けております」

「つかめた様子か」

「いえ。まだのようです」

「暁雲どの」

「はい、何でしょうか。仲達どの」

「そろそろ孔明に、種明かしをしてやってくださいませぬか」

「いつ、どこで、どのように明かせばよろしいですか」

「我々がいる、渭水のほとりで」

「そこで孔明に話すのですね」

「左様です。渭水に並ぶように布陣します。まず暁雲どの。武祖様として孔明とお話しくだされ。短い間で結構です。それがしが合図いたしましたら、暁雲どのは飛将どのの隊へお戻りください。総攻撃をかけます」

「承りました」

「おそらく孔明は全軍を出して来ません。祁山に半分を残してくるはずです。そこが本陣でしょう。我々は、そこを突きます」

 その時、張将軍が言った。

「お待ちください、仲達どの」

「いかがなさいましたか、儁乂将軍」

 張将軍は、慎重に話す。

「それがし、思うところがあるのですが、申し上げてもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ。うかがいます」

「孔明は、ほんとうに、我々と対戦するつもりがあるでしょうか」

 ぼくたちは、張将軍に目を向けた。

 張将軍は続ける。

「兵糧輸送がとどこおっている。麦もそこまで多くを刈り取ることができていない。我々と対戦するのは蜀軍を不利にするだけです。放っておいても退却するのではございませぬか」

 仲達どのは張将軍に尋ねる。

「では、祁山に敷いた本陣も退却するとご覧になりますか」

「むしろ我々をそこまで誘い込もうとしているのではないでしょうか」

「祁山で、我々を叩くと」

「はい。その危険があります」

 ぼくは父上を見た。

 父上は腕組みをして、目線を下に向け、考え込んでいる。

 仲達どのは細く短いあごひげをつまんだ。考える時いつもそうしていることに、ぼくは今、気がついた。

 その場にいた全員が黙り込む。

 その沈黙を破ったのは、仲達どのだった。

「儁乂将軍」

「何でしょうか、仲達どの」

「それでも、やはり、本陣を突くべきと、それがしは考えまする」

 張将軍は厳しい目で仲達どのを見た。

 仲達どのも同じく厳しい目を張将軍に向ける。

 二人はしばらくそのまま睨み合っていた。

 父上がそこで初めて口をひらいた。

「仲達どの」

「子廉将軍、何か」

「祁山に行くことに賛同します」

「子廉どの!」

 張将軍が鋭くさえぎる。

 父上は仲達どのを見たまま、静かに言った。

「しかし、到着したあとは、そこで止まる。あえて攻撃はしない」

 仲達どのが眉を上げた。

「蜀軍を無傷で帰せとおっしゃるのですか」

「違います」

「ではどうしろと」

「あえて長期間攻撃せず、敵を焦らせるのです。しかし圧力はかけ続けます」

「攻撃せずにいれば、我々の中からも不満が高まりますぞ」

「それが狙いです」

 ぼくたちの視線が父上に集中する。

「攻撃を主張する者が先走り、無断で蜀軍に挑むはずです。あえてそれを黙認する。むしろ、そうするように仕向ける。蜀軍はたびたび奇襲にあえば警戒し、冷静さを徐々に失ってゆく。本陣を突くのは、それからでも遅くはない。不意をつかれれば、どのような攻撃であったとしても、受ける損害は大きい」

 張将軍は父上を穴が空くほど見て、つぶやいた。

「す、すごい」

 深く息を吐き出し、仲達どのは言った。

「よろしい。やってみましょう」



 渭水が、北に見える。

 孔明は、そこへやって来た。

 馬に乗っていた。

 よく晴れた日だ。

「おまえか。曹操の亡霊とやらは」

 聞き心地のよい声だとぼくは感じた。すぐれた容貌だ。背も高そうだ。

 暁雲は冑を目深にかぶり、暗い赤色の袍を甲の上からつけている。遠目には孟徳のおじ上にそっくりだ。

 孔明は美声を張り上げる。

「答えよ」

 暁雲は孟徳のおじ上によく似た声で答える。

「いかにも、余は、魏王、曹孟徳である」

「かつて赤壁から逃走する曹操を、ひげどのが待ち構えて討つ手はずであった。しかしひげどのは手ぶらで帰還した。妙にさっぱりした顔をしていた。私はわけを聞いた。ひげどのは笑って答えた。今でも覚えている」

「ひげどのとは、関羽のことか」

「そうだ」

「関羽は、何と申したのだ」

「曹操は、影武者であった。よって、討たなかった。影武者を討っても、物笑いの種になるだけだ。さあ軍師どの、それがしを処断なされ」

「何ゆえそのような昔語りをする」

 孔明は涼しげな目を、暁雲にキッと据えた。

「お主であろう、その影武者は。かつてひげどのが曹操のもとにいた時、様子をうかがった子供の間者がいたことは知っている」

 ぼくは今、鞍の上にいる。

 仲達どのや父上、張将軍と並んでいる。

 暁雲は、からからと笑い出した。

 ほんとうに、孟徳のおじ上と同じ笑い方だった。

 孔明の顔に怒りがのぼった。

「小細工にもほどがある。お主と遊んでいる暇はない」

 暁雲の広い背中しか見えないが、彼はきっと笑っている。ぼくには確信できた。

 仲達どのが兵に太鼓のばちを持たせた。

 そろそろ、合図をするのだ。

 暁雲も心得ている。だから彼は大声で言った。

「今だ、仲達!」

 仲達どのが叫んだ。

「出陣太鼓、打てい!」

 派手に太鼓が鳴る。

 暁雲が赤色の袍を脱ぎ捨てる。

「我が名は曹暁雲。曹孟徳の子だ!」

 孔明が目をむいた。

 張将軍は目と口をあんぐりと開ける。

 ぼくたちは、孔明に、打って出た。



 ぼくたちは目の前にいる蜀軍の間を駆け抜ける。

 目指すのはあくまでも祁山にある孔明の本陣だ。

 しかし、攻撃はする。

 深追いしないだけだ。

 ぼくと暁雲、許将軍の子許儀、雷松と雷柏は弓騎兵の先頭にいる。

 ぼくたちは歩兵のかたまりとかたまりのすき間を通り、彼らを追い越す。

 駆けながら、弓を構え、矢を放つ。

 突き進むぼくたちを蜀軍は押し戻そうとする。

 しかし、それには乗らない。

 目指すのは、祁山だからだ。

 蜀軍の左右から、張将軍と父上が騎兵を率いて突っ込む。ぼくの左右から悲鳴と怒号と金属音が聞こえるのは、そのためだ。

 仲達どのの隊は後ろからついてくる。

 祁山が、見えてきた。



 ぼくたちは祁山にこもった。

 仲達どのは祁山のふもとに塹壕を掘った。

 蜀軍も、ぼくたちも、動かない。

 馬を休めるには、いい機会だった。

 走りづめだったからね。


「馥」

 久しぶりに父上が声をかけてきた。

 祁山の中腹から見える星と月は明るい。

「どうなさいましたか、父上」

 父上もぼくも、夜の監視の当番だ。

 並んで外を見ながらぼくたちは話した。

「おまえに、言っておくことがある」

「何ですか」

「おれが死んだあとは、おまえが継げ」

 ぼくは突然のことにうろたえる。

「継げとは、何を」

「決まっている。おれの位と、家だ」

「ぼくが、ですか」

「暁雲にはもう話してある」

 そんなこと、暁雲から聞いてないぞ。

 父上はぼくのことなんか気にせずに続ける。

「それから、もうひとつある」

「もうひとつとは」

「兄上と、おれのことだ」

 ぼくの胸がどきりと鳴った。

 父上が兄上と呼ぶ人は、孟徳のおじ上だけだ。

 整った横顔を父上は夜空に向けた。

「おれはもともと男しか愛せない。だからずっと兄上を想って生きてきた。兄上は男に興味はない。だからおれを拒んだ。それからだ。おれが誰とも話をしなくなったのは」

「ではなぜ、ぼくや祥が生まれたのですか」

「梁氏のおかげだ」

 父上は母上と、こんな話を交わしたのだという。

 ――どなたか、心に想うお方がいらっしゃるのですか。

 ――いる。だがもう、昔の話だ。

 ――わたくしの以前の夫も、そうでした。

「詳しく聞くと、梁氏の前の夫が想っていたのも男だった。彼もおれと同じように、男しか愛せない性質であったらしい」

 ――夫は駆け落ちしました。その殿方とです。夫の両親はわたくしに、ほんとうに済まなかったと土下座までしてくれました。表向きには子を授からぬからという理由で離縁してくれたのです。

「梁氏は笑って、おれにこう言ってくれた」

 ――子廉さまには感謝しております。わたくしのようなものをめとってくだすったのですから。

「震は残念ながら赤ん坊のうちに亡くなってしまったが、馥、おまえは元気に育ってくれた。おまえは手のかからない、ほんとうにかわいい子供だったよ。だからおれたちはもう一人子供が欲しいと考えた。そうして生まれたのが、祥だ」

 ぼくは涙がにじみ、父上と同じように夜空を見上げた。そうしないと涙がこぼれ落ちそうだったからだ。

「赤壁のあと、兄上はおれを受け入れてくれた。それからだ、おれが、おまえたちに向き合えるようになったのは」

 やっぱり、そうだったのか。

「父上は、今、幸せですか」

 父上はぼくを見て、笑ってくれた。

「ああ、幸せだ」

「よかった」

 ぼくはその言葉を、最後まで言えなかった。

 涙があとからあとから流れてくるからだ。

 そんなぼくの肩を、父上は、抱いてくれた。

「おれも混ぜてください」

 暁雲も来た。

 ぼくは振り返った。

「父上が、ぼくに、位と家を継げと言った。君も聞いているかい」

「えっ」

 暁雲が目を見ひらく。

「聞いておりません」

 父上が意外そうな顔をする。

「孟徳兄がおまえを列侯に封ずると告げた時に、その話もしたはずだが」

 あ、と、暁雲が思い当たったように口をひらく。

「そうだ。申し訳ございません。今、思い出しました」

「あれからもう、十一年か」

 父上がつぶやいたように、孟徳のおじ上が亡くなってから、十一年が経っている。

 とても遠い昔のように、ぼくには思えた。

 暁雲が真面目な顔つきで言う。

「馥が継ぐのは当然です。嫡男なのですから」

 父上は暁雲にもほほえんだ。

「おまえがうちに来てくれて、よかった」

「光栄です、父上」

「馥と祥にとって、よい兄になってくれた」

「父上――なぜ、急にそのような」

「おれも、もう、若くないからな」

「遺言のように聞こえます」

「おれが死んだら、あの大斧は、おれと一緒に埋めてくれ。公明のもとへ持っていってやれるからな」

「父上」

 ぼくは口を挟んだ。

「ぼくも遺言として聞きましたが」

「遺言だ」

 父上は、明るく笑っていた。

「馥。暁雲。あとは頼むぞ。おれはおまえたちといて、ほんとうに楽しかった」



 父上が言ったとおりになった。

 戦わないことに不満をもつ将兵が、蜀軍に奇襲をしかけるようになった。

 仲達どのはあえて黙認する。

 蜀軍は応戦しない。

 さかもぎが倒されても、幕舎を焼かれても、糧秣を奪われても、何もしない。

 忍び込ませた間者によれば、蜀軍の内部では、相当不満がたまっているようだ。

 それを孔明が抑えている。

 魏延などは部下や同輩に向かって、あからさまに不満を口にしているそうだ。

 だから今日も、蜀軍のさかもぎが、倒れている。

 遠目からでも、蜀軍の兵の足取りは重いことがわかる。

 そして、初めのうちは倒れたさかもぎを立て直す者も、焼けた幕舎の残骸を片づける者もいた。

 けれど、ぼくたち側からの奇襲が続くうちに、そうする者は、誰もいなくなった。



 ところが突然、蜀軍は退却し始めた。

「李厳から書簡が届けられました」

 間者の毛が報告する。

「李厳とは確か、兵糧輸送の担当であったな。そやつは何と申したのだ」

 仲達どのが聞くと、毛は答えた。

「魏と呉が同盟したと。ゆえに兵糧輸送どころではなくなったと」

 蘇の長男たちの工作が、実を結んだのだ。

「では、かやつらの姿が見えなくなりしだい、追撃することにいたそう」

 仲達どのは決断した。

「それがしが先に参りまする」

 言ったのは、張将軍だった。

「ではそれがしは諸葛亮を追いましょう」

 仲達どのは言って、父上を見た。

「子廉将軍、儁乂将軍についてくださらぬか」

「心得ました」

 答えた父上に、仲達どのは近寄る。

「くれぐれもご用心めされよ。退却の途上には木門道という、崖と崖に挟まれた細い道がございますゆえ」

「そこへは入らぬようにせよというわけですな」

 張将軍が言い、うなずく。

 仲達どのはぼくと暁雲に言った。

「弓騎兵を率いて、左右から進んでくだされ。敵の殿軍が応戦するでしょう。加勢願います」

 ぼくと暁雲は拱手する。

 仲達どのは張将軍と父上に念を押した。

「子廉将軍、儁乂将軍、木門道にはお気をつけられよ」

 追撃が、始まった。



 高い崖が、ぼくたちの前に見えてきた。

 仲達どのが心配していた木門道だ。

 確かに、崖と崖の間の道は、細くて狭い。

 空は曇っている。

 張将軍と父上が率いる軍勢は、崖が始まるところで止まっていた。

 許儀どのがいぶかしむ。

「蜀軍が見えないぞ」

 ぼくは雷松に聞いた。

「ここ以外に、成都へ戻る道はあるのかい」

 雷松は数えで二十歳になっている。蜀軍との戦いを経て、背も伸び、筋肉もつき、何より顔つきが落ち着きもありながら勇ましいものになった。

「いえ。ここだけです。他の道はありません」

 暁雲が、数えで十七歳になる雷柏に言った。

「様子を見てきてくれ」

「はい」

 暁雲は雷柏に間者の技を教えた。やはり背が伸び、体つきも顔つきもたくましくなっている。

 雷柏が木門道へ走る。

 戻ってきて、雷柏はぼくたちに報告した。

「崖と崖の間には兵がひそんでいる様子は見えませんでした。しかし崖の上から物音や、話し声が聞こえます」

 聞き終えてから、父上が言った。

「おれたちを誘い込み、上から石だの丸太だのを落として襲うつもりだな」

 張将軍も父上に言う。

「それだけではございませんぞ。矢も射てくるでしょうな」

 仲達どのも追いついた。ぼくたちの話に加わる。

 雷柏の報告を聞くと、仲達どのは言った。

「我々が警戒して木門道に入らなければ、そこから蜀軍が飛び出してくることも考えられますな」

「おれたちが逃げ出すことを狙ってか」

 許儀どのが、崖と崖の間の道を睨む。

 仲達どのはあごひげをつまんだままだ。

「これ以上の追撃は危険しかないか」

「申し上げますっ」

 兵が駆け込んできた。

「何か」

 父上が応じる。

 兵は血相変えて叫んだ。

「蜀軍ですっ。蜀軍が出て参りましたっ。総勢、一万!」

 ぼくたちも血相を変えた。

 ぼくたちは彼らの二倍以上はいるのだ。

 すでに馬蹄の音がする。

 旗に縫いとられた字は「魏」と読めた。

「魏延か」

 父上が徐将軍の大斧を握り直す。

「子廉どの」

「儁乂どの」

「参りましょう」

 張将軍の言い方は、いつもと同じように、のほほんとしていた。

 仲達どのが細い切れ長の目をひらいた。

「儁乂将軍!」

 張将軍が仲達どのに、なごやかに笑う。

 そして、言った。

「我々が蜀軍を防ぎます。ここが、我々の、死に場所です」

 仲達どのがいつもの彼らしくもなく、あわてている。今にも張将軍につかみかかりそうだ。

「何をおっしゃるのですか。将軍がたが手をくださずとも、たかが一万、それがしとて兵を率いて滅ぼせまするぞ」

「魏延が出てきている」

 父上も仲達どのに言った。

 その顔には、笑みがのぼっていた。今は亡き妙才のおじ上と言い合いをしている時のような、状況を面白がっているような表情だ。

「あいつに懲りてもらう。魏軍は厄介だと思ってもらえば、二、三年は蜀に引っ込んでいてくれるだろう」

 仲達どのは頭を激しく横に振った。

「なりません。いけません、将軍!」

「仲達どの。飛将どの。暁雲どの。儀。雷松。雷柏」

 張将軍がほほえんだまま、居ずまいを正す。

「武祖様の武将の戦い、とくとその目に焼きつけておかれよ。それがし、子廉どのとすでに語り合いました。それがしらの遺体は、ここ木門道に葬ってくだされ。墓標はいりません。いずれ魏が蜀を攻め滅ぼす時、ここを必ず通るでしょう。その時に思い出してくだされ。曹子廉と張儁乂がここで蜀軍を退けたと」

 父上もほほえんだ。

 そして二人は馬に乗り、魏延に向かって行った。


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