第8話 わさびという名の必殺技

「ぐ、ぁああああああああああ! か、辛い! いだい! じぬぅううううううううっ!」


 床で転げ回る相手に、もうさっきまでの威喝感はどこにもない。

 ただただ無様に地べたでのたうち回っていた。


 や、やばい。

 ちょっとやり過ぎた。

 いやだって、口に噴射するときに思わず力んでしまって、ほぼ満タンに近いチューブからドバドバ出てしまったのだ。

 こればっかりは許して欲しい。


 ――相手はしばらくわさびがトラウマになりそうだが。


「くっ、てめぇ……よくもやりやがったな!」


 我に返ったもう一人が咆哮を上げ、拳を握りしめて俺を殴ろうとする。

 やばい!

 咄嗟に両腕を交差させてガードする。


 所詮素人の防御だ。

 アッサリ抜かれてしまうに違いない。だから、体に激痛が走るのを覚悟していたのだが――どういうわけか、痛みはいつまで経ってもやってこない。


「ちっ!」


 代わりに焦ったような声が、相手から放たれた。

 恐る恐る男の方を見ると、額に脂汗を浮かべつつ、周りを見まわしている。


「?」


 疑問に思った俺も、辺りを見まわして気付いた。

 余裕がなくてすっかり忘れていたが、ここは元々食堂だ。周りには多くの生徒達がおるわけで――つまり、これだけの騒ぎを起こしておいて、注目されないはずがなかった。


 いつの間にか、周囲の生徒達がこちらの動向を見守っている。

 中には、スマホを構えて面白半分で動画を撮っている者もいた。

 ここで重要なのは、先に手を出したのは相手だということである。


 いやまあ、先に(英語で)暴言を吐いたのは俺だが、それはこの場で行ったものではない。なんならそれも、相手方がルナさんに失礼な態度を取っていたのが原因だし。

 要するに何が言いたいかと言うと、この場での騒ぎは、誰がどう見たって相手方が先に突っかかってきて、暴力を振るってきた構図になるのだ。


「クソッ! 覚えていやがれ!」


 忌々しそうに舌打ちしつつ、相手は振り上げた拳を下ろし、床で呻いている友人を起こして、逃げるように去って行った。


 それを皮切りに、静まり帰っていた周囲に喧噪が戻る。

 やがて、何事もなかったかのように辺りがそいれぞれの食事や会話に熱中しだした頃、俺はようやく肩の力を抜いた。


『とりあえず、なんとかなったみたいですね、ルナさ……ルナさん!?』


 ルナさんの方を振り返った俺は、思わず二度見してしまった。

 ルナさんは、青ざめた顔で小刻みに震えていたからだ。

 そりゃそうだ。こんな大乱闘を見せつけられたら、怖いに決まって――


『な、なな、なんですかその、手に持った緑のチューブ……あ、新手の殺虫剤ですか?』


 あ、そっち!?

 そっちに怯えてたの!? 


 予想の斜め上を行くルナさんのリアクションに、俺は少しばかり動揺する。

 が、このままでは、ルナさんの中で俺が容赦なく殺虫剤を口の中にぶち込んだ凶悪犯になってしまう。


 しかし、殺虫剤は英語で『insecticide《インセクティサイド》』というらしいから、なんかちょっと必殺技感あってカッコいいな……って、そんなこと言ってる場合ではない。


 ルナさんに怯えられるのは耐えられない。俺の心が粉々に砕け散ってしまう。


『えと……これは食べ物です! 断じてヤバいやつじゃないです。食べ物です!』


 大事なことなので二回言いました。

 

『え、ええと……シュールストレミングとか、ベジマイトと同じ類いのものですか?』


 えーと、シュールストレミングっていうと、スウェーデンで食べられる、ニシンの発酵食品だったよな? 世界で一番臭い食べ物とか言われてる。

 そんでもって、ベジマイトと言えばオーストラリアでパンに塗って食べるっていうヤツだった気がする。なんでも、好き嫌いが結構別れる味で癖が強いとかなんとか。


 ――って、まさかの世界の癖が強い食べ物とわさびが同格設定された!?

 その枠はむしろ納豆が埋めるべきものでは!?


『えと……確かになかなか強烈な食べ物だけど、あくまで調味料ですから! ただのわさびです!』

『ワサビ……? スシにつけて食べるというアレですか?』

『そうそうそれです!』


 よかった。わさびという単語は知っていたみたいだ。これで誤解も解けそうだ。


『……ちょっとだけ、舐めてみます?』


 少しばかり興味を待ったらしいルナさんに、チューブから少量のワサビを取り出してスプーンに載せる。

 ルナさんは、まだ少し抵抗感があるのだろうが、ゆっくりと首を縦に振ってスプーンを受け取る。

 それから、数回深呼吸をして、ぱくんと口に入れた。


『~~~っ!』


 瞬間、ルナさんはすっぱいものでも食べたように身を縮ませる。


『は、鼻に刺激が……!』

『日本人でも、お寿司はサビ抜きにして食べる人もいるので、好みは分かれますね』

『確かに辛いけど、癖になりそうです。ちなみに、さっきの方はどれくらい食べたんですか?』

『えと……その十倍くらい、だと思います』


 俺は顔を伏せてしどろもどろに告げる。嘘だ。ちょっとサバを読んだ。

 たぶんもう少し多い。

 ルナさんは呆気にとられたのか目を見開いてしばらく硬直していたが、やがてクスリと笑った。

 釣られて俺も笑う。


『そんなに食べたら、ああなるのも納得ですね』

『はい……まさかあんなに出ちゃうとは思わなくて、ちょっとやり過ぎました』


 すまん、ワサビを食わせられた名前も知らない人。

 願わくば、今後お寿司がサビ抜きでなければ食べられない体にならないことを祈るばかりだ。


 


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