私から離れないもの

長沢楓

第1話

校庭の桜の木は、緑に染まっていた。

窓からは、暖かな光が差し込んでいる。




「前と変わらず、聖南大第一志望ね」


担任の秋山先生は、プリントがたくさん挟まっているファイルを開く。


そのファイルには、名画のステッカーが貼られている。他にも、壁に貼ってあるマイナー舞台のポスター、変な形のマグネット…


この教室は、先生の趣味が至る所で感じられる。


そんな教室での進路面談は、物々しい雰囲気を感じない。


「判定も落ち着いているし、このままいけばいい結果が期待できるんじゃない?」

「ありがとうございます。気を抜かないで頑張ります」


受験生になって、初めて行われる面談。


けれど、受験生というレッテルが貼られたって、高2から志望校の変わらない私は、いつもの面談と同じ会話だ。


「いやー、私があなたほどの画力があれば間違いなく美大を選ぶのにね」


先生は、休み時間に友人の沙耶がちらっとみせた油絵を未だに覚えている。


私がまだ美術を心から楽しいと思っていた、純粋な心で描いた油絵を。


私にとっては、もういらない過去。


この過去を忘れるために、誰も来なそうな遠くの高校を選んだのに。


いちばん仲良しな沙耶がついてくるなんて、思わなかった。

先生が飾りの大きなネックレスが揺れた。


私が高3の時はね、といつも先生の大学受験の話を聞かされる。


家族の反対を押しきれず、美大に進まなかったことぎ思い残しになっていることも、自分には決断力がなかったと悔やんでいることも。毎回、同じ内容。


長ったらしい先生の話を聞くたびに、申し訳ないが写真を見せた沙耶を憎む。


「だから、みんなにはそうならないでほしいのよ」


この言葉が面談が終わる合図。


さっきまで、校庭の方をぼんやりと見つめていた先生が突然、視線を私に移した。


でも、今日だけは違った。

美大ではこんな学びがあってさ、といつも以上に美大について語られた。


美術の話は、もういい。


「美術に興味はあるけれど、安定の方が大事なので...」


困まり顔を作り、話を切り上げようとした。


そう、と先生は言う。


やっと帰れると思い、胸を撫で下ろすと

「興味があるなら、オープンキャンパスに行ってきなさい。

受験勉強の息抜きにもなるだろうから」


と、パンフレットとオープンキャンパスの案内を無理やり手に握らさせ


「先生、この後部活だから、鍵よろしくね」

そう言い残し、先生は教室をあとにした。


鍵をとろうと、棚に近づくと置き物のユニコーンが目に入った。私が高2のときに、先生が淡い紫に色をつけたものだ。


ユニコーンから目を離しても、美術が私の目を捉える。




浮かぶのは、中3の夏の辛い思い出。

安定を大切にして生きてきた。


自分の趣味より、勉強を大切にして生きてきた。


私は、あのとき何を思えば良かったのか、

あれこれと考えているうちに、嫌なざわめきが胸の中に広がった。




蝉が元気よく鳴く、夏の暑い日。


まだ中3だった私は、きっと安定なんて言葉を考えていなかっただろう。好きなことだけをして生きられるなんて甘いことは考えてないだろうけど、好きなことを素直に楽しむ純粋な気持ちは持っていた気がする。


当時、私たちの家はそれぞれの趣味の道具で溢れかえっていた。

バットやユニフォーム、作品集、絵の具…


一家の主人である父は、野球観戦が趣味だった。


3つ年上の兄は、肌は常に真っ黒の野球少年に育った。スポーツ推薦で、有名な野球の強豪校に進学した。

目標は、甲子園優勝。夢はプロ野球選手。


そう本人は言っていたし、周りも有言実行すると信じていた。高校最後の甲子園、みんなが注目していた。


ひ弱で色白な母は、美術館で絵を見たり、芸術作品に触れることが好きだった。


私は、母が持っていた作品集を幼い頃から良くみていたらしい。宝石のような絵肌を持つ油絵が、特に好きだった。週に一度、絵画教室で油絵を習うのが楽しみだった。


土日は、それぞれの趣味を楽しむのが当たり前で、みんなが家にいることはあまりなかった。


けれど、兄の野球の試合の日や私の絵が飾られたときは家族みんなで見に行った記憶がうっすら残っていた。




そんな、家族の在り方に幸せを感じていたと思う。


だが、この幸せな日常は唐突に終わりを迎えた。


あの日は兄の練習試合の日だった。

朝、家族みんなで兄を見送った。


「後から、応援に向かうから」

母が笑顔で、安心させるように言った。


「透、しっかりな」

そう父が一声かけ、兄は家を出た。



家族みんなで、兄の活躍をベンチから応援していた。


小フライを捕球したとき、兄は急に右肘を抑え始めた。

暫くは、試合に出ていたが、痛みがひどいのか途中降板した。

急いで病院に向かった。


診断の結果は、靭帯損傷。


なんで透が、そう思わずにはいられなかった。


夏の甲子園には、出られない。

兄の夢が、一瞬にして消えた瞬間だった。


兄を病院に残し、帰宅した。

みんな声を上げずに泣いた。




家族みんな、野球一筋だった兄の人生がどうなるのかなんて、分からなかった。


まだ中3で、ずっとそばで兄を見てきた私には 重すぎる現実だった。


“見えないものに努力しても無駄だ”


そんな捻くれた考えでしか、自分の中に落とし込めなかった。




兄の退院が決まる前に、3人で家を片付けた。


バット、グローブ、ユニフォーム…


野球に関する物、全て捨てた。


少しずつ、物が少なくなっていく家を見て


「今までに描いた絵も、絵の具も、道具も

全部捨てて」

そう私は言った。


両親は、一瞬私の方を見ただけだった。






滑りの悪い教室ドアを勢いよく閉めた。


鍵をかけた。


まるで、あの辛い記憶を閉ざすかのように。






面談から帰宅すると、すでに夕食の準備がされていた。


手洗いをし、私も食卓に加わる。

「莉枝、面談どうだったか」

父が尋ねる。やはり、娘の進路は気になるらしい。


いや、うちはあのことがあったから余計にか。


「判定も安定しているし、良い結果が期待できるんじゃないって感じだったよ」

「そうか。聖南大、頑張れよ」

そんな、念押ししなくても大丈夫だと呆れる。


「莉枝は、1年生から真面目に頑張って来たんだから。きっと大丈夫よ」

私を自慢の娘だと思っていることが日頃から伝わってくる。


「ご馳走様でした」

そう小さくつぶやいた兄は、足音を立てずリビングから出ていった。


「透も、莉枝を見習ってほしいくらいだわ」

目を細めて、母が言う。


美大の話をされたことを伝えたら、この食卓の空気はどんなだったのだろうか。


少なくとも、今みたいな穏やかな空気はないだろう。


この穏やかさをいつまでも保っていたい。


中身がなくても、せめて上部は穏やかでいたい。




廊下を歩いていると、まだあどけない表情を浮かべる1年生が


「みんなで遊びに行きたいよね」

「遊園地とかよくない?」


なんて話す声が聞こえてきた。


世間的には、ゴールデンウィークがもう目の前らしい。


でも、私の頭には、受験以外の文字は


ない。手帳は、全て勉強計画とオープンキャンパスでびっしりだ。


朝のホームルームで、担任から


「ゴールデンウィークは、勉強もほどほどにして遊びなさいよ〜

遊ぶのは、ゴールデンウィーク後はしばらくはお預けになるんだから」


と秋山先生は、にやにやしながら言う。


受験勉強、高校の宿題、塾の夏期講習と予定が詰まっているのに。そんなにお気楽なのは先生だけだと心の中で毒づく。




「莉枝は、どこの大学のオーキャン行くの?」

仲良しの沙耶が私に話しかけた。


「私は、志望校決まってるから、いかないかな」

「高3になっても、迷いがないとことか、やっぱ莉枝は優秀だね」


話をしてる途中、沙耶は机の上にある手帳を見た。


私は、咄嗟に手帳を手にとり、体のそばに置いた。


沙耶は、取り乱した私に不思議そうな視線を送りながらも会話を続ける。




今、この手帳は見られたくない。


昔から一緒の沙耶でも。


いや、昔から一緒だからこそ沙耶には見られたくない。




手帳の中の


“共盟美大、オープンキャンパス”


の文字を。




私は、あの夏の思い出に


もう一度向き合おうとしていた。








風が木と木の間を吹きぬけていく。


今、私の目の前にあるのは、あれほど遠ざけていた美術を学ぶ大学


家族には、高校の自習室で勉強してくると嘘をついて来た。


嘘をついてまで、ここに来た理由。


それは、もう一度美術と向き合うためだ。


あの夏、私は強引に美術から目を背けた。


中途半端にしたままでは、次に進めない。


きちんと、終わらせたかった。




先生に握らされた、パンフレットを手に。


中に入ると、奇抜な服を着た女性が


「こちらへどうぞ」


と講義室にような場所に案内してくれた。


美大にも講義室がちゃんとあるんだ、そんなくだらないことを思いながら、席に着く。


最初は、ただただ大学の沿革などを聞いているだけだった。こんな説明なら来なきゃ良かった、なんて来ようと思った自分を悔やんだ。


けれど、かつて私が打ち込んだ絵画専攻の話になった途端


私は時間の感覚がなくなったような気がした。


話を聞く中で、自分の体が前のめりになっていくのがわかった。無我夢中で、教授の話を聞いた。


街の小さな絵画教室では、教わらなかった様々な技法、表現、生徒たちが描いた熱量のある作品。


3年間、関わり合いになりたくないと思っていた美術に、自分から近づいてしまったのだ。




私の心は、美術に寄っていってしまった。


今まで、無視するようにしてきた美術への思いが、溢れたきた。年がさほど変わらない人たちが、安定を捨てて、今を必死に生きていることに衝撃を受けた。


私の心が、美術に奪われた瞬間だった。




「移動だって」


突然、声をかけられた。


説明会中、隣の席に座っていた、綺麗に切り揃えられたショートカットの彼女がこちらに軽く顔を寄せる。


「ああ」


そんな、気の抜けた返事をすると、彼女は不思議な顔でわたしの顔を見つめていた。






駅に向かうまでの間も、あの場所の中心として広がっている美術が、脳裏に焼き付いて、離れなかった。


人生の全てを捧げる学生の顔をこの目で見て、この耳で聞いて、この心で感じた感動を毎日あの場所で得たい。


そんな思いが、私の中でどんどんどんどん膨らんでいった。


そんなとき、誰かが近づいてきた感じがした。


「もしかして、さっき隣にいた人ですか?」


なんだこの人、と思いながら目を向けると移動だと教えてくれた彼女がいた。


「ああ、さっきはありがとうございました。教えてくれて…」


パッとでてきたまとまりのないこの言葉を遮るようにして

「さっき、すっごい食い入るように説明聞いてたよね!」

と彼女は笑顔で言ってきた。


彼女の耳には、大きな金色のイヤリングが揺れている。


小さな顔にサイズこそは合わないものの、派手なイヤリングはとても似合っていた。


「美大、初めて来たんですけど

すごいなって思って、、、」


「そうなんだ!高2?」


「いや、高3です。」


「じゃあ、タメじゃん!

私、篠崎真琴。呼び捨てでいいよ。よろしくね!」


そう人懐っこい笑顔を浮かべる彼女、


美大予備校には通っているのか、高校は美術科なのか、などたくさんのことを強引に聞いて来た。


駅についたときに

「インスタ、交換しよ」

と言われ、私にQRコードを読み込ませてから解散した。嵐みたいな人だった。




帰宅すると


「今日は帰りが早いのね」




と掃除機をかける手を止めずに母が言う。


そうだ、家族には嘘をついていたのだ。

ふわふわした頭で帰ってきたら、忘れてしまっていた。


「先生が赤本の整理してて、気になっちゃうから帰って来ちゃった」


焦りに気づかれないように、平静を装って自分の部屋に逃げた。




スマホを開くと、もう真琴から連絡が来ていた。


美大のことなど、たくさん話をしたいから、また会わないかという話だった。


返信をしようとスマホを持ち直すが、返信に困った。


“止まるなら、今しかない” と気づいていたからかもしれない。


正直、美大に行きたいという思いを無視できなくなっていた。


もう、自分の好きなことから離れたくない。

でも、やっと戻ってきた家族の穏やかを捨てたくない。


そんなふたつの思いが鬩ぎ合う中


「いつなら空いてる」

という言葉がとんできた。


行くことは決定事項だったらしい。


手帳を取り出し、予定を確認した。






オープンキャンパスから2週間が経った日、私はとあるカフェにいた。真琴の通う予備校の近くのカフェ。




氷が溶け、少し薄まったアイスカフェオレを飲みながら真琴を待った。


「ごめん、遅れた」


予備校の空きコマに来た彼女の服には、いろいろな色がいろいろな形でついていた。意図もせずカラフルな模様をするそれは、まるでひとつの芸術家は作品のようだった。




真琴がアイスコーヒーを頼むと、いきなりマシンガントークが始まった。


取りこぼさないように聞いていたが、美大受験の話3割、関係のない話7割といった感じだった。


けれど、新しく知れた情報もあった。


美大予備校には、高3から通い始める人が多いそうだ。

けれど、難関大学や倍率の高い有名大学の合格をつかむには一年じゃ受かるはずもなく、大多数が浪人をするか入りやすい滑り止めの大学に進むらしい。


正直、今まで浪人なんて考えたことない。まだ何も動いていないのに、焦る気持ちが生まれた。


「顔、死んでるじゃん。どうした?笑

一回、私の予備校来てみる?」


私は先駆者だとでも言いたそうな顔でそう言った。




美大受験は安易なことじゃないという現実に打ち付けられてきた気がした。


4限に見学来ていいって、といつの間に予備校と連絡をとった彼女がそう言った。




どんどん、話が進んでいく。


私には、まだ覚悟が足りてない。そう気付きながらも莉枝に連れられ、予備校に行く。


ビルには、”日本美術学院” の文字。


見た目は、普通の予備校と変わらなかった。


よく日美って略されてるんだ、と莉枝が話しながら案内する。

「ここが教室」


そう言って扉を開けると


教室は、たくさんの絵の具がそこらじゅうについていた。



そこにいる人の顔は、賑やかな色とは反対の、真剣な顔。一分、一秒を大切に生きている人の顔だった。


中でも、窓に向かって絵を描く一人の男性に目がいった。ペインティング ・ ナイフを器用に操り、色を刻んでいく。

絵の具を立体的に創り込んでいく様子は、真剣そのものだった。


「あの人のお祖父さん、陶芸してて


人間国宝なんだよ」


と真琴が教えてくれた。


プレッシャーとか私なら絶対耐えらんない、と彼女は言った。


「そこにも絵、あるから」


そう言われて振り返ると、等間隔に並べられた絵があった。どれも緻密で、丁寧で、美しかった。


その中には、今まで見たこともないほどの美しい絵があった。


一面、濃紺の海に覆われた、沈み込んだような暗い世界。そこに、一筋の光が差し込んでくる。


それだけ、ただそれだけなのに胸が掴まれたような、強い衝撃を受けた。

どうしてだか、わからない。でも、その絵を見た瞬間に心を奪われて、言葉が出なかった。


思い、暗い、濃紺の海へ抜きん出た明るい光が漏れてきて、海を照らしている。

真っ白な光は、揺らぐことなく、歪むこともなく、まっすぐに伸びている。


息をのむほど、美しい絵だった。

目が離せなかった。



私も人の心を掴む、こんな絵を描きたい、そんな思いに駆られた。


穴が空くくらいに、その絵をずっと見つめていると

「篠崎。この人がさっきの電話の人?」

と先生らしき人が真琴に話しかけた。


すっかり、絵に心を奪われていたので、突然のことに大袈裟なほどびくりと肩が震えた。


いや、突然だったからだけではないかもしれない。


先生は、黒いシャツに黒いズボン、きつい目。

迫力、いや威圧感がすごかった。


「そうです!美大を考えてるみたいで」

真琴がちらりとこちらをみる。


「初めまして。小川莉枝です。」

ぺこりと挨拶をする。


「河村です。ここで油絵の講師をしています。

ところで、君は何年絵をやって来たの?」

突然の質問に、嘘をつこうかと一瞬迷った。


過去をなしにしたら、また新しい私になれる気がした。

けれど、偽ったら後々苦しくなるだけだ。


また会うかもわからない相手に嘘をつくのも面倒だ。


「高校は美術科に進もうと思っていたので、中1の夏頃から予備校に行っていました。

結局、普通科に進んだので中3以来絵はやってません」


ここで言う “絵をやってる” が

“趣味や部活でやっている” というレベルの話を指してる訳ではないことは

私でもすぐにわかった。


「そう。今から、今月の絵を貼るのでぜひ見ていってください」


真っ直ぐな目で、私を見つめた。全てを覗き込まれた気分だった。


日美では、月にひとつ絵を完成させて、先生が評価するの、と真琴が耳打ちした。


河村が黒板の前に立つと、教室の空気が変わったのが分かった。


さっきまでの真剣な雰囲気に、ピリッとした緊張が加わったような気がした。


生徒たちは、みな手に汗を握るようにして黒板を見ていた。


生徒たちの作品の順番も変えていく。




全てを並べ終え、一息つくと、河村は振り返った。


また、黒板を向く。


真ん中の絵の裏側を見て、何かを確認した。


「センターは篠崎だ。

試験には、通用する絵だ」


生徒たちは、センターと言われる篠崎の絵は気にしていないようだった。むしろ、センターの脇にある絵をを気にして見ているようだった。


誰も、真琴の絵を見ていない、異様な時間だった。


そして、端にある絵の裏側も見る。


ふたりの生徒が眉を顰めたのがわかった。


「端にあるのは、宇佐美と清水。

いつもと同じだな」


なんてひどい人なんだろう、こんな風に思ったのはあの静まり返った教室で私だけだった気がした。




4限が終わり、真琴と共に教室を出ると、河村に呼び止められた。


「あなたは、美術と向き合った方が良い。

きっと素敵な絵が描けます」


そう私に言った。あの、まっすぐな瞳で。



「先生!私の絵、またセンターで。

ありがとうございます」


と真琴が言う。


「今の教室でいちばん良い大学に行けるのは篠崎だと思う。だが、それが最後まで続くとは限らないからな」


そう河村が強く言うと、真琴はわかりやすく不満げな顔をした。






予備校からの帰り、私は電車に揺られながら


私は学生たちが、真剣に美術と向き合う彼とあの美しく、深い絵だけを思っていた。






ある日の放課後、早く帰ろうと準備をしていると秋山先生に呼ばれた。


「美大、行ってみた?


どうだった?」


と子供みたいな笑みで聞いてくる。


「良かったです。少し気になり始めたりなんかして…」


私は、今まで無視してきたことと向き合っている自分が恥ずかしくなり、言葉を濁した。


先生は


「美大に決めるなら、たくさん相談に来てね。


あと、きちんとご両親とも話をしなさいね」


そう言った。




うぃーん、扇風機が動く。


私は、美大予備校のパンフレットと格闘していた。


もう、美大しか考えられなくなっていた。


学費に赤線が引いてあるパンフレットたち。

予備校には、驚くほどにお金がいる。


「だめだ、決まらない」

言ってから、不安になった。

隣の部屋にいる母に聞こえていないか、と。


家族には、まだ美大に行きたいと伝えていない。

大激怒されるに決まっている。


予備校代を全て自分で払うというのは、厳しいことだった。


やはり、費用は抑えたい。

日美は、真琴の紹介で割引が入る。


そこにしてしまうのが一番簡単だが、あの教室に漂った異様な空気だけが気がかりだった。


けれど、四の五の言ってる場合じゃない。

美大に受かるには、予備校に行くには、ここしかない。


そう、決心がついたときだった。




母が急に私の部屋の扉を開けた。


「莉枝!おばあちゃんからメロン届いたけど、食べる?」

ノックもなく部屋に入ってきた母を見て、思わず息を呑んだ。


今机を見られたら、終わる。


「なによ、そんな慌てて。

やましいことでもしてるの?」

と怪訝な表情で聞いてきた。


「いや、集中してたからびっくりしただけ。

メロン?食べたい!!」

話を逸らした。


家族に見つかっては大変だ。

まだ、知られたくない。

しっかり、決めてから言う。


まだ、言わない。






朝、家族に見つからないように気をつけながら部屋着とさほど変わらない服で家を出る。

7:17発の電車に乗り込み、しばらく眠りにつく。

最寄り駅につくと、早歩きで日美に向かう。

自分の席に着き、ペインティング ・ ナイフを握る。

時間が来たら、昼食をとり、また作品と向き合う。




毎日、この繰り返し。


受験生の夏は、ほとんどを日美で過ごした。


キャンバスに幾重にも色を重ね、作品を作り、


また白いキャンバスに思いを描いた。

彼のように、人を引き込む絵が描きたい。


その一心だった。




私は着実に美大受験生へとなっていった。たくさんの技法を覚えた。


沙耶のフォルダに入っている、3年前の油絵を素直に下手だと言えるまでになった。




幸い、貯金で賄える額だったため、夏は日美に通えた。


そして、ここに生徒として通う中で、あの異様な空気の状態がわかった。


真琴は、幼いから絵をやっていて、コンクールで大賞ばかりとってきたらしい。


才能を鼻にかけ、努力を怠るところが大多数の生徒に嫌われている、とわかった。




私は、全てのことにおいて努力してきた。


優秀でいるために、努力で結果をつくってきた。

そんな私も、他と同じく真琴の性格が嫌いだった。


けれど、真琴がいなかったら、きっと私はここにいない。真琴には特別な恩がある。




そして、ひと夏の間に


あの絵の順番は大きく変わっていた。


一度もセンターから外れたことのなかった真琴の絵は端に近くなった。

私の絵は、端からセンターにまで上り詰めた。




夏に、真琴と話すことは一度もなかった。

もともと真琴とは席が離れていた。

だから、特別話す用もなかった。




午前中の賑やかさを全く感じない、真夏の夜。


いつものように、寝ている家族にバレないように玄関のドアを開けた。


「どこに言っていたの」

そう聞こえないはずの母の声がした。


振り返ると、パジャマ姿の母がいた。


いつもの穏やかな笑顔じゃない。

目が笑っていない。




緑茶の入ったカップが2つ、置き物のように机に置いてある。


ふたりとも、口はつけない。


「夏休みは、毎日のように高校の自習室。

週末も朝早くから夜遅くまで自習室。

バレないとでも思ったの?

こんなに遅くまで空いている自習室なんて、ある訳ないでしょう」


そう母は厳しく、私を責めた。


「ごめんなさい」


安心した、というのが私の正直な本音だった。


いつまでもこんな嘘を突き通せる訳がない。


真実を打ち明けるタイミングを失っていた。

いや、真実を打ち明ける勇気がなかっただけなのかもしれない。


震える手で緑茶を一口飲んで、私は全てを打ち明けた。




父も交えて話をした。


父は、渋い顔をして話を聞くだけだった。


母は


「なんで、あなたも同じ道を選ぶのよ」


とヒステリックになっていた。


最後には、決定的な一言を言われた。


「あなたも、透みたいになりたいの?」


と。




私は、泣きそうになるのを必死に抑えながら


「私は、あの夏から安定を大切にして生きてきた。

未来に確証が持てないものに向かって、努力はしないと決めてきた。

お兄ちゃんの過去を、私が普通の道を歩むことで取り返そうとしていた。


でもね、強引に閉ざして、中途半端にしたままのものは、まとわりついてきた。


私は、それが嫌だったから


しっかり向き合ってから、美術と別れることにした。


だから、オープンキャンパスに行ってきた。

でも、向き合ったら美術への思いが溢れてきたの。


またやりたい、一生美術に触れていたいって思ったの。

最初は、美術と向き合おうと思った自分を責めた。


だけど、ひと夏を美術に捧げてから

あの選択は間違いなかったと思えた。

あのまま、終わりにしなくてよかったって。


だから私は、お兄ちゃんの過去を私が大学受験で美大に合格することで取り返すって決めたの。

そのためにも、私に美大を受けさせてください」


全部を捨てて、紡いだ言葉だった。






街を歩くと、金木犀の匂いがするようになった。


受験が近づいてきて、最近は放課後も日美で絵を描くようになった。


高校の人たちは、放課後に最寄り駅まで走るようくらいに美術に打ち込む私を見て “人が変わった” という言うようになった。


休み時間に、勉強を教えてと頼む人はいなくなった。


それは当たり前だ。


春まで、学業成績優秀。安定第一。そんなことばかりを考えていた人が安定とは皆無の美術に溺れているんだから。


「りえー!今日は一緒に駅まで行こ。

私もガンダするから!」


そう、私がまた絵を描くことを喜んでくれる人もいる。沙耶だ。沙耶には、私が描いた油絵を何度か見せたことがある。


「美術はよくわかんないけど、莉枝が楽しんで描いたのは伝わる」

満面の笑みでそう言ってくれた。


両親はまだ美大受験に納得はしていない、


けれど、総合大学の受験費用と同じ分の美大受験の費用は出してくれると行ってくれた。

第一志望の大学だけを受験する、という条件付きで。


滑り止めがないことは、プレッシャーだったが

もう覚悟は出来ていた。


そして、絵がセンターに選ばれることが当たり前になった私は、予備校で特待生となり、予備校代が半分になった。

予備校代も、残りの貯金でなんとか一月までの学費を賄えそうだった。




そして、今日も歩き慣れた道を通り、日美に行く。


今日来る外部講師の経歴などが黒板に張り出されていた。

受験が近くなった日美には、毎週のように有名な外部講師が来ている。


私の絵は、どの講師からも悪い評価は下されていない。


講師からも、当日にいつも通りの絵を描けたら第一志望校合格は間違いないと言われた。


春まで総合大学志望だったために、学科試験も乗り越えられると言われていた。


でも、滑り止めを受けられない私は講師のどんな言葉を聞いても、過去問で点数が振るっても、不安しかなかった。




そして、この教室には空席がひとつ。


真琴の席だ。


何かあったのだろうか、と考えたこともあった。


真琴には恩がある。けれど、彼女には彼女の事情があるはずで、ずかずか踏み込んでいくようなことはしないほうが良いと思い、考えるのをやめた。




真琴を心配しながらも、自分は受かるしかない。


美術に励んだ。




受験まで一ヶ月もないという時期に差し掛かり、日美にはぴりぴりとした空気が漂っていた。


お昼休みは空き教室にいるようにしている。

周りから、変に刺激されたくないからだ。


いつもの空き教室に行くと、中で先生と生徒が話をしていた。


誰だろう、少し気になって中を覗いた。


先生と綺麗に切り揃えられたショートカット。

艶やかな髪。



確信が持てた。


その瞬間、話を終えた彼女が椅子から腰をあげ、こちらへ歩いて来た。


「真琴!」

気づいたときには、名前を読んでいた。




あの日、ふたりで入ったカフェに行った。


話すことが禁じられているかのように、どちらも声を発さずに、黙ってパスタを食べた。


真琴が先に食べ終えると、私が食べ終わるのを待たずに話し始めた。


「莉枝は、努力で端からセンターに上り詰めた。センターになってから、一度もあの位置を譲らないなんて本当にすごいね。」 

真琴はあまり人を褒めたことはない。


自分が一番でいたいと思うような人だったのに。


何か、変わった。




「私ね、初めてセンターから外れて、一番じゃない自分が死ぬほどで嫌いになった。

それで、気づいたんだ。

美術で食べてはいけないって。


私は、美術が好きだったんじゃない。一番でいられるから美術が好きだった。コンクールで大賞とって、みんなかは褒められるあの瞬間が好きだった。


美術は、ただ一番でいるためのツールだった。


才能に頼って、努力で戦おうとしないなんて可笑しいよね。


そう気づいちゃってからさ、センターに返り咲こうとか思えなくなったんだよね。」


話が勝手に進んでいく。




「莉枝、頑張ってね。

莉枝なら、どこにだって行ける。

私は、まだ開拓の途中」


私の肩をとんとんと二回叩いて、カフェを後にした。




クリスマスも大晦日も三が日も、私は日美に通った。


そうして、蓄えた自信と共に受験会場へと向かった。

向かう途中、たくさんの人が自分の受験校へと足を運んでいた。


そのひとりひとりに、思いがあるのだと考えた。


私は第一志望を受験できる幸せを噛み締めながら

ゆっくり、落ち着いて

第一志望校へと一歩ずつ近づいた




今、私の目の前にあるのは共盟大学


私は受験生として、ここに来た


ここに来て、私の人生は変わった

たくさんの学びを得た


誰に何を言われても、折れない強い思いが出来た




私を強くしてくれた、油絵


絵は、私から離れない


絵と一緒なら私はどこへでも行ける。




スマホが軽く振動して、ポケットが震えた。


画面を確認する


【今どこ?】

彼女からのメッセージ


【あの、カフェ】

そう返信すると、すぐに【今行く】と返ってきた


氷の溶けたカフェオレ、あの日と一緒。


最後にあってから一年が経とうとしていた。



「また遅れた!」

そう言い、彼女はアイスコーヒーを頼んだ。

「連絡、ありがとうね」

「莉枝がまだインスタやっててくれて良かったよ」

連絡つかなかったら、あの時LINEじゃなくてインスタって言ったことを一生後悔してた」

なんて彼女は笑う。


昔の少し意地悪そうな笑顔ではなく、素直な優しい笑顔だった。


暫くは、過去の思い出話に浸っていた。


真琴のアイスコーヒーが届いたあと、なんとなく

「真琴は、今何してるの?」

と、いちばん気になっていたことを聞いた。


真琴は、素直な笑顔のまま

「通ってた高校に一応の併設大学があったから、そこで経済学やってる。

一番に拘らない人生は、楽でいいね。

いがみあいがない笑」

と言った。


そうなんだ、と返すと食い気味に

「莉枝はどうだったのよ!!」

と聞いてきた。


そりゃ、気になるか。


なんとか共盟大に合格して、油絵を描いていると伝えると

「好きを極めるのは最高に幸せだよね」 と優しい顔で言った。


それからは、私の受験は崖っぷちだったことなど楽しい思い出話に花を咲かせた。




今日が終わったら、また

私は美大生として、彼女は経済学部の学生として普通の生活に戻るのだ。


それだけでいい。



私たちにとって、この出会いはなくてはならないものだった。


私たちは強い覚悟を胸に、この世界を生きていく。

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