ハゼの葉

増田朋美

ハゼの葉

秋ではあるけれどまだまだエアコンがいるかなあとおもわれる、暑い日であった。杉ちゃんたちは、いつも通りに製鉄所にて、勉強や仕事をしたり、水穂さんの世話をしたりしていたのであるが。

「こんにちは。影浦です。ちょっとご相談が有りまして、こさせていただきました。」

いきなり製鉄所の玄関の引き戸があいて、精神科医の影浦千代吉がやってきた。ちなみに、製鉄所といっても鉄を作る場所ではない。家や学校で居場所がない女性たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸し出している福祉施設であった。たまに、水穂さんのように間借りをする人が出ることがあるが、だいたいの利用者は自宅から通所で利用している。利用者たちは、会社で働いたり、通信制高校に通う人が多いが、フルタイムで働いたり学校に行くことは難しい人が多く、午前中だけ午後だけなどの半日勤務ででている人が大半である。そのため、午前中だけ製鉄所で勉強したり、午後に利用したりするかのいずれかの人が多かった。

「すみません、突然お邪魔してご迷惑でしたよね。実は、一人そちらで預かってほしい女性がいますので、連れてまいりました。ほら、梅木さんどうぞ。」

と、影浦先生は、一人の女性を連れてきた。

「預かるということはつまり、間借りをさせるんですか?」

製鉄所の管理をしているジョチさんこと、曾我正輝さんは、そう影浦先生に聞いた。

「ええ、まあそう言うことですよね。彼女は、家の中でも居場所がないということなので、その通りにしたほうがよいのではないかと思ったんです。」

そう言う影浦先生に、ジョチさんは、大いに驚いて、とりあえず2人を応接室に招きいれ、椅子に座らせた。雑用係である水穂さんが、二人にお茶をだした。

「えーと、まず初めに、お名前をどうぞ。」

と、ジョチさんは言ってみた。

「梅木カネヨと申します。」

女性はとても小さな声で答える。

「じゃあ、どういう経緯でこちらに来ようと思ったのか、それを教えてください。」

と、ジョチさんがいうと、

「一度は社会に出て、結婚もしたんですけど、結局失敗して、それで鬱になってしまいました。」

と、梅木さんは言った。

「じゃあ、いまご家族は?」

ジョチさんが聞くと、

「一人で暮らしています。」

と、梅木さんは答えた。

「配偶者の方は存命で?」

ジョチさんがもう一度きくと、

「はい。」

と、梅木カネヨさんは答えた。ジョチさんは、そのあとで、梅木さんに、職業や、学歴などを聞いてみたが、それらも申し分ないものであった。ちゃんと、地元の短期大学を出て、保育士として、社会に出ていたという。結婚を機に仕事をやめたというが、そう言う女性は、世の中に大量にいる。

「それでは現在困っていることや、悩んでいることはありますか?」

と、ジョチさんが聞いてみると、

「もう生きていたくないっていうか、自殺したいと思うんです。でも、影浦先生に止められてしまって、こちらに収監するようになりました。」

と、梅木さんは答えた。

「鬱、相当ひどいようですね。なにか薬でも飲んでいらっしゃいますか?」

水穂さんが優しく梅木さんにきく。

「はい、一応抗うつ薬は飲んでいますが、なんにも変わらないで、年数だけが経っています。」

たしかにその通りなのだ。精神関係の薬は飲んでも変わらないことが多い。

「そういうわけですから、ここに住み込みをして、環境を変えればまた彼女も変わってくるのではないかと考えたんですよ。精神科医でも、なかなか患者さんの話を聞くのは難しいですし、彼女の時計はずっと止まったままなので、それなら環境を変えた方がよいのではないかと思ったのです。」

と、影浦先生はいった。

「具体的に彼女の症状はどんな感じなのでしょうか?」

ジョチさんは影浦先生にきく。

「はい。ただ、何もする気がしないというのです。毎日、悲しい気持ちが続いているとか。まあ、典型的なうつ病ですね。僕が見る限り、幻覚などの症状はありません。」

「そうなんですね。それでは、短時間ならお預かりできるかもです。他にも利用者はいますから、あまりたくさん間借り人はちょっと大変なんですけど。」

ジョチさんがそういうと、

「こればかりは縁の問題ですよね。梅木さんを利用者としてむかえ入れられる、縁があるかどうか。短い間ですが、お付き合いください。」

と、水穂さんが優しく言った。そう言うわけで、ジョチさんは、間借りをするための費用や、支払い方法を説明し、用意していた契約書にサインをして、梅木カネヨさんは利用者として迎えられた。製鉄所には、いくつか布団付きの部屋があるが、その中のハゼの間という部屋が梅木さんの部屋になった。なかは、旅館の部屋のような作りになっていて、小さな机と布団、そして、洗面台が梅木カネヨさんに与えられたものになった。部屋にテレビは設置されていなかったが、カネヨさんはテレビがほしいとは言わなかった。そう言うわけで、梅木カネヨさんが製鉄所で生活することになった。

実際に梅木カネヨさんの鬱は、想像を絶するものであった。他の利用者と話しもしないし、ご飯を一緒に食べることもしない。水穂さんが時折食べようと声をかけても、一緒に食卓につくことはなかった。そうかと思えば、みんなが食べ終わったあとに食べたいということもある。どうやら集団というものが嫌いらしい。水穂さんがどうして、みんなといっしょに食べないのと聞いてみたところ、他の利用者さんと年齢が違い、話が合わないからだと彼女は答えた。

そんなわけで、梅木カネヨさんは、1日中は部屋に座り込んで、本ばかり読んでいるという生活を繰り返した。どこかで働いたらどうかとか、自助会に参加したらどうかとか、そんな提案も一切受け付けなかった。

ある日、利用者たちが、頭をつけあって、学校の宿題をやっていたときがあった。ちょうど、数学の宿題だったらしい。アルファとか、ベータとか、そんなことを言っていたから。利用者たちは、ここはこうしてこうやってとか言って、一生懸命宿題を教え合っていた。すると、食堂に、梅木カネヨさんがやってきた。また遅れたご飯を食べに来たような感じだった。いつもなら、まっさきに、ご飯のところに行くはずなのに、今日は利用者たちの方へやってきた。そして、いきなり利用者たちのノートブックに、持っていた黒いインクの瓶を落とした。当然のことながらノートは真っ黒になってしまった。これには利用者も怒って、

「なにするのよ!」

と言ってしまう。

「しらないわよ!ただ腹が立つのよ。そうやって楽しそうに勉強していると!」

梅木さんも負けずに怒鳴り返した。

「そうはいったって、他人に自分の辛いところを押し付けてはいけないわ!」

利用者たちはそう言ったが、梅木さんは、わーっと声を上げて泣き出してしまった。どうやら、本人もコントロールできないほど強い怒りだったらしい。

「ノートどうしてくれるのよ。あたしたち、これから勉強できなくなるじゃないの!」

「せっかく一生懸命勉強していたのにねえ!」

利用者たちは、自分の気持ちを正直にの言った。多分それが、正当な意見なんだろうと思う。利用者にしてみればそうだろう。いきなり勉強していたノートインクをぶちまけられて、迷惑でしかないはずである。

「梅木さんこれはひどい。弁償してもらいたい!」

利用者はそう主張した。 

「いくら鬱が酷くても、ここまで汚されたんじゃねえ!なんで鬱がひどいからと言って、あたしたちが我慢しなくちゃいけないのかしら!」

梅木さんもそれはわかっていたのか、涙をこぼしてないていた。でも彼女の口からは謝罪の言葉は出なかった。それが利用者たちを余計に苛立たせた。

「本当に、鬱がひどいというのは、免罪符にはならないわよ、梅木さん、あたしたちのノートや教科書、弁償してよ!」

そう利用者はいうのであるが、四畳半から、水穂さんがやってきた。ちょうどジョチさんは出かけていて留守だった。

「まあ、まってください。たしかに彼女のしたことは悪いけど、どんなことにも理由はある筈ですから、理由を聞いてみましょうね。梅木さんが、どうしてああなったのか、理由を話してみてください。」

水穂さんは梅木さんに優しく言った。

「なによ水穂さん、あたしたちは被害者なのに、あたしたちのことは放置しっ放し?」

別の利用者がそういうと、

「仕方ないじゃないですか。梅木さんはそういう反応しかできなかったんですから。なんでも自因自果といいますけど、理由は必ずあるんですから、それを聞かなければなにも動けませんよ。だから、梅木さんの話を聞きましょう。」

水穂さんは、そう言った。利用者たちは、嫌そうな顔をして、 

「ああ、あたしたちが、一生懸命勉強してきたノートが!」

「こんな台無しにされるなんて!」

と言いあっていた。

「とにかく理由を聞かなければなにも始まりませんよ。」

水穂さんはそういうのであるが、 

「あたしは遠慮させてもらうわ。こんなふうに勉強の成果をめちゃくちゃにされて、もう嫌で仕方ないもん!」

「あたしも、梅木さんばかりが贔屓されるのも嫌だし。」

二人の利用者は逃げていくように言った。

「そうですよね。あたし自身も、どうしてこうなったのかよくわかりません。だからあたしはやっぱり死んだ方が、よかったんだ。生きているべきではなかったんだわ!」

梅木さんは、さらに泣いた。

「ほら結局そうなって罪逃れをしようとする。梅木さん、人にどれだけ迷惑をかけたか考えてください。」

「散々迷惑をかけた上に死にたいと言われても、だれも同情なんかしないし、むしろ当然しか、見ないわよ!」

二人の利用者は、食堂から逃げてしまった。梅木さんは泣くばかりで、汚れたテーブルを片付けることは、できそうにない様子であったため、水穂さんは黙って、汚れたテーブルを雑巾で拭いた。そのときに、梅木さんになにも声をかけなかったし、梅木さんもなにも言わなかった。

「やれやれ。ひどい喧嘩をしてしまったようだね。」

杉ちゃんが食堂に入ってきた。

「まあでも、さっきの利用者さんのいうことは言い過ぎだから、気にしなくてもいいよ。もし、彼女のいうことが正しかったら、歩けない僕は生きてはいけないことになっちまうから。僕何て、歩けないし、いくら金を払ってもできないことはあるし。」

「そうですね。杉ちゃんみたいに、歩けない方もいるわけだし、寝たきりの方もいるわけですからね。たしかにそれはまちがいです。」

と、水穂さんはいった。

「そう言うことだから、それより理由を聞こうよ。梅木さんがみんなの前でインクこぼした理由。」

「ごめんなさい。あたし何もわからないんです。」

と、梅木さんは言った。

「それなら、あの、インクをこぼしたとき、どんな感情が発生したのかは、覚えていらっしゃいますか?」 

水穂さんは、梅木さんに聞いた。

「ええ、何がなんだかわからないんですけど、ものすごい怒りが湧いてきて、自分でなんとかしようとすることができませんでした。薬を飲もうとか、そう言うこともまったく思いつきませんでした。」

梅木さんは、泣き腫らしながら言った。

「そう言うことは、影浦先生に話しても、医学では処理できないかもしれませんね。」

水穂さんは、考え込むように言った。

「それなら、天童先生に来ていただいて、無意識に感じている理由を聞き出すのが一番だと思います。」

「ああなるほど、天童先生のシャクティパットか。それで感じていることが明るみになったら?」

杉ちゃんがそういうと、

「それから、梅木さんが奇行に走らない対策が取れます。」

水穂さんは真剣に言った。

「そうだねえ。じゃあ、天童先生にやってもらうか。無意識はすべてをしっている。それは、僕らがよくわかることでもあるからな。」

と、杉ちゃんが言うと、水穂さんは、疲れてしまったのか、テーブルを拭きながら座り込んでしまった。

「お前さんが座り込んじゃ、だめだろう。」

杉ちゃんがでかい声でいうが、水穂さんは咳き込んだままだった。それを、梅木さんは、ずっと眺めていた。

その日は、梅木さんが汚したテーブルを片付けて、水穂さんはもう疲れ切ってしまったらしく、それが終わったあと、倒れるように布団に横になった。もう、薬を飲んで眠ってしまった水穂さんを、梅木さんは、申し訳なさそうに眺めていた。

翌日。

「こんにちは、天童です。杉ちゃんから、連絡を受けて、こさせていただきました。何でも、精神的な袋小路に追い込まれている女性がいるというから。」

そういいながら、天童あさ子先生がやってきた。彼女の施術については、影浦先生も公認している。薬ではどうしても直せない辛い部分を、ヒプノセラピーはなんとかしてくれると言っている。

「おう、よろしく頼むよ。シャクティパットで、こいつが他の人に危害を加えた理由を聞き出してくれ。よろしく頼みます!」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「わかりました。杉ちゃんいつも間違えるけど、ヒプノセラピーは、シャクティパットじゃないのよ。それは、違うものだから、勘違いしないでね。クライアントさんはどこに?」

天童先生が、聞くと杉ちゃんは、

「こいつだ。昨日、勉強していた利用者のノートをインクぶちまけて、台無しにした。」

と、梅木カネヨさんを顎で示した。カネヨさんは、

「よろしくお願い致します。」

と、天童先生に頭を下げた。

「わかりました。じゃあ、縁側にねてもらいましょうか?」 

天童先生が言う通り、カネヨさんは、縁側の座布団の上に横になった。天童先生は、じゃあ指示に従ってイメージしていってね、といい、まず初めに自分の足先をイメージするように言った。

「それでは、何が見えるか言って見てくれますか?あなたが、幼かったころの、風景が見えると思うんですが?」

天童先生は、静かに言った。

「はい、私が小さい頃に暮らしていたいえです。あたしは、一戸建ての家に住めなくて、団地住まいでした。」

と梅木さんは答えた。

「わかりました。親御さんはいましたか?」

天童先生が聞くと、

「いえ、いません。母は、ずっと働き詰めでしたから。」

梅木さんは答える。 

「それは何故ですか?」

「はい、父がなくなって母は再婚もしないで、働いてばかりいました。旅館の仲居さんとして。だからあたしは学校には行けたんですけど、塾や習い事には行けなくて、いつも、悲しい気持ちをしていました。」

梅木さんは、小さな声でこたえる。

「わかりました。じゃあ、お母様に、もっと豊かな生活をしたいと、言ったことはなかったのですか?」

天童先生が聞くと、

「はい。私が悪いんです。私が生まれたのが悪いから、母が働かなければならないんだって、毎日怒鳴られました。」

と梅木さんは答えた。

「それは誰が怒鳴っていたのですか?」

天童先生が聞くと、

「学校の先生です。この学校に来るものは身分が低いから、愛してやるのは、自分だけだと、怒鳴っていました。」

つまり、学校の先生が怒鳴っていたところを、お母様の事情もかさなり、梅木さんは真実だと思い込んでしまったらしいのだ。まったく、学校の先生は、何のためにいるのか、疑問視してしまうようなこともある。

「わかりました。それでは、梅木さんは親御さんが働いてばかりいたことや、学校の先生が存在を否定したことで、鬱になってしまったのですね。それでは、今からはこんなふうに考え直していきましょう。自分は存在してもいい存在であり、決して、生まれてきたことは悪いことでは無いのだと。」

天童先生は優しく言った。

「でもそれは、それは何の根拠があって成り立つんですか?働いている人でなければ、存在してはいけないんだって、本当に何度も怒鳴られました。だから、それが正しいと思いこむことしかできなかったんです。他に、人生について教えてくれる人もいなかったし、みんな学校の先生の言う通りにすれば大丈夫だって言うしかなかったんですよ。私はどうすればよかったんですか。どうすれば、私はあのとき生き延びていられたんですか。あたしは、あのとき一体どうしたら。」

そういう梅木さんは、おそらくいろんな不幸な要素が思春期のときに重なったのだろうと思った。

「一番誰かに求めている年頃なのに、それに答えてやれる存在もいなかったことや、学校の先生が、えらく怒鳴りつけたこと、お母様が働いていて、あなたに話しかける余裕もなかったこと。それは、悪いことじゃないんです。これから、新しい思想に出会っていけばそれで良いのです。そうして、新しい思想に出会えれば、また、楽しい日々が戻ってきますよ。じゃあ、本日の施術はここまでにしようかな。しばらく、そのまま楽にしていてくださいね。眠っても構いませんからね。」

と、天童先生は、そう静かに言ってくれた。そういう言葉は、水穂さんや、他の利用者も何度も言ったはずなのに、梅木さんは何も理解していなかったのかと、利用者たちは、大きなため息をついてしまったが、

「まあ、そういうことだ。梅木さんはできなかったんだ。それは、彼女の症状というか、彼女が持ってる心の悪性腫瘍として受け止めよう。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうですね。そうでもなければ、病気にはならなかったと思います。まず、梅木さんに辛かったねと一度だけでも言ってやらなければだめでしょう。」

水穂さんも、そっとため息を付くが、えらく疲れてしまったらしく、座りこんでしまった。すぐに利用者たちが、水穂さん大丈夫ですかと声を掛けるが、水穂さんは、余計なことをしないでくれと言った。

「じゃあ、ゆっくり目を開けてくれますか。」

と、天童先生がいう。

梅木さんは、そっと目を開けた。それと同時に、中庭に生えているハゼノキが風で少し揺れた。

「ああもう秋の風が吹いてる。」

と、梅木さんは、そういったのであった。杉ちゃんが、

「少しシャクティパットは効果が出たのかなあ?」

と、つぶやくと、梅木さんは、

「ハゼの葉が落ちてるわ。もうすぐ秋なんだね。」

と、にこやかに笑ったのであった。それ以上、こないだはごめんなさいとか、そういうことは言わなかったが、なぜか、みんな梅木さんを責めようとか謝らせようとか、そういう気持ちは少しも湧いてこなかった。

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ハゼの葉 増田朋美 @masubuchi4996

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