第3話 シナプスとデジャブ
耳を澄ますと、足音が下から階段を上ってきていることが分かる。
全身に鳥肌が湧きたつほど、嫌な予感がした。
一つの足音が物凄い勢いで階段を駆け上がって来る。そして身構える余裕も無いまま、勢いよく部屋のドアが開かれた。
私は目の前の光景に思わず言葉を失った。
そこには右手に鋸のようなものを握りしめた人間が立っていた。鋸の先からは何かが滴り続けているが、それが意味するものを考えるのは本能的にはばかられた。
私に向かって近づいてきた男の顔は、驚くことに暗闇の向こうに想像するよりも随分と若かった。多分、年齢で言ったら私と変わらないくらい。
青年は右手を振り上げる。
《ああぁ、私もお母さんと同じように殺されるんだ》
状況からしてそうとしか考えられなかった。
下を向き、これから確実に訪れるであろう死から目を背ける。
「……ああぁ、また死ぬんだ」
愚痴のような思いが口から零れた。
目を瞑り、その時を待つ。が、不格好ながらも覚悟を決めたというのに、その時はなかなかやってこなかった。
恐る恐る瞼を開き、やがてゆっくりと顔を上げる。
「今なんて言った?」
「……え、えっと、その」
目が合うと、青年は振りかぶっていた鋸を下ろした。そうして随分と落ち着いた声色で私に一つの質問をした。
「『また死ぬ』って、言ったよな」
パニックになりながらも、私は記憶を辿る。
言った。確かにそう言った記憶があった。
《でも、それは》
「おかしいよな」
青年が言った。
凶器を持った人間を前にして、その言葉に首を縦に降るべきか横に振るべきか迷っていると、青年はまた新たな言葉を紡いだ。
「俺の顔、見覚えは無いか?」
私は身体の震えを覚えながらも、青年の顔を見つめる。
真っ黒な髪。鋭い目つきながら綺麗な瞳。長い睫毛。高い鼻。サンゴ色の唇。血に濡れた頬。ムカつくが整った顔立ち。
私は首を横に振った。
「じゃ、じゃあ、アイスピック! 包丁にチェーンソー、果物ナイフ! ハンマー。今言ったのは全部、俺が彩花を殺すのに使用してきた凶器だ」
「……は?」
この人は一体何を言っているんだろう。
殺した? 私はこの通り生きているというのに?
脳裏に浮かんだ疑問が表情に出たのか、青年は私の両肩を掴むと必死な表情で訴えた。
「俺の名前は新田隼人だ。思い出してくれ、俺は散々彩花のことを殺してきたんだ。アイスピックを使ってメッタ刺しにしたことがあっただろ。確かその時はその窓からこの部屋に入ってきたんだ」
そう言って、隼人と名乗った男は私の背後の窓を指さした。
見ると、白いカーテンが風にのってゆらゆらと揺れている。
《あそこから入って、私をアイスピックで刺し殺した?》
さっきからずっと意味の分からない言葉ばかり彼は並べている。
顔を正面へ向け、私はクレームの一つでも言ってやろうと思った。途端、一瞬だけぐにゃりと視界が歪んだ。何度か瞬きを繰り返して幻覚からは解放されるも、右のこめかみ辺りには強い痛みが残る。
「脳はほんの少しだけ別の世界線で起こった出来事を覚えているんだ」
目の前の青年、隼人はまた意味の分からないことを言った。
「一度でもシナプスが繋がってしまえば、やがて全ての記憶を取り戻せるようになるはずだ。少なくとも俺はそうだったから」
目を瞑ると、カラスの声が聞こえる。新鮮な風が私の肩を撫でる。
どれくらいの時が経っただろう。こめかみの痛みが消え、全身を縛っていた恐怖と緊張感もが消え、いつの間にか私は冷静さを取り戻していた。
瞼を上げても痛みが再発しないことに胸を撫で下ろしてから、ゆっくりと顔を上げた。そして、私は首を傾げる。
この日、この時、この場所で、私は自分の母親を殺した殺人鬼に相対している。
それら全ての事象に強い既視感があったのだ。
「……なんで? そんなはずはないのに」
自信無げに呟くと、隼人は首を横に振った。
「何もおかしくない。今は脳が混乱しているだけだ。じきに全てを思い出せるようになる」
そんな馬鹿なことが…………本当に起こった。
不思議なことだと思う。
血に塗れた凶器を持った人間が目の前で胡坐を掻いているというのに、私はそれに注意も払わずにぼーっと周囲の様子を眺め続けていた。やがて、私は徐々に思い出していくことになる。隼人が言った『別の世界線の記憶』というものを。
「様々な方法でアプローチしていけば、本来思い出せるはずのない記憶を取り戻せるようになることに気がついたのは二年前の話だ」
見慣れた顔の隼人が言った。
「例えば、別の世界線で起こった細かな事象の全てを現在の世界で同じ条件下に基づいて再生してみたり。後は衝撃的な出来事を繰り返してみたり…………それこそ今回でいう殺人とか」
「……とか?」
まだ少しぼーっとする頭で私は尋ねた。
自分が殺される以上の衝撃なんて、この世に存在するのだろうか。
そんな疑問を孕んだ目線を向けると、隼人は逆に私の胸に向かって指差して見せた。
「盛り乳だ。本当はCカップじゃなくてBなのに――」
反射的に手が出てしまった。
自分でもわかるくらいに顔を熱く、そして真っ赤に染めながら、私は目の前の変態を鋭い眼光で睨みつけてやる。
「ど、どこでそんなことっ!」
「き、聞いたんだ。彩花本人に」
「そんなわけ!」
自分の一番恥ずかしい部分をよりにもよって同年代の男に話すなんて、それだけは絶対にありえない話だと思った。
「ほ、本当だってば。殺さないって条件で教えて貰ったんだ。チェーンソーでブイブイ脅したら、かなり渋々だったけど話してくれた」
隼人がそう言った瞬間、私の脳内の何かがバッチリと繋がった気がした。
今度は定まった目線を隼人に向ける。
「その様子は、ようやく思い出してくれたか」
私はこくりと頷き、そして口を開く。
「殺さないって約束なのに殺したんだ」
「そ、それはですね」
人の顔をひっぱたくのはこれが人生で二度目だった。
***
「今はどれだけ説明しても分からないだろうからざっくりと言うが、明日学校で大量の死人がでるんだ。そして恐らくだが、俺も彩花も数回は殺されることになる」
「……殺される?」
照れや恥じらいでもなく両頬を真っ赤に染めた隼人は、黙って頷いた。
「化け物にだ。んで、殺されたらまた過去に戻ってその日をやり直すことになる。彩花が俺に殺されて同じ日を十七回繰り返したように」
「でも心配はしなくていい」と隼人は続けた。
「死んだ後にどれだけ遡って過去に戻るかは分かったんもんじゃないが、死ぬ少し前までの記憶は持って次の世界線に跳べる。だから今回みたく訳も分からずに殺され続けるわけじゃなくて、少なくとも記憶と知識は持っていけるわけだな」
私がツッコミを入れようとすると、まぁ待て、と言わんばかりに手で制された。
「一度でも完全にシナプスが繋がってしまえば、今回のように何度も何度も殺しては記憶の復活を待つ、何て途方もない作業をする必要が無くなる。だから例えば、今後は、仮に死んだとしても俺の力を借りなくともある程度のことはすぐに思い出せるようになっているはずだ」
もちろん、死に方によっては脳にダメージが残って簡単には記憶を取り戻せない場合もあるけどな、と隼人は言った。
「ちなみにだが、俺達の目的は人を殺す化け物を殺すことだ。それさえできればこの無限ループから抜け出すことができる。で、その化け物を殺すための協力者として俺は彩花を選んだというわけさ」
その話を聞いていてもデジャブを感じることは無かった。
ということはつまり、隼人が私にこの説明をするのはこれが初めてなのかもしれない。彼の話を参考にするなら、十七回目の再会でようやくまともな会話ができるような状況になったというわけだ。
分からないことばかりの中でも、一層謎めいたままの事象について私は質問した。
「どうして私なの?」
「それは、どうして私を俺の相方に選んだのか、って意味か?」
私は黙って頷く。
「一年の時はまだ一人でもなんとかなったんだ。でも、二年にもなるとそうはいかなかった。年々化け物の化け物具合が増していったからだ。そこで俺の協力者を探す日々が度々始まるわけだが、時にはそもそもシナプスが繋がらなかったり、繋がったとしても協力してもらえなかったり、そういった障害を乗り越えて協力してもらえたとしても、結局二年の最後の化け物を殺すまで俺の隣に立ち続けられた人は一人もいなかった。で、三年になって色んなクラスメイトを殺して厳選を重ねた結果、彩花を選んだ。大所帯でループしても連携面で摩擦が生じることは二年時に分かってたことだからな。今回は二人で行こうと思って」
え、と思わず言葉が零れた。
それは彼が口にした数々のぶっ飛んだエピソードに対してではなく、もっと平和な日常の中にも有り触れた事情に対してだ。ぶっ飛んだエピソードにはどういうわけか徐々に免疫がつきつつあるらしいからだ。
「私と隼人ってクラスメイトだったの?」
「そりゃあもちろん。三年間ずっとそうだったんだぜ」
私は隼人の顔をまじまじと見つめる。
今になって気がついたが、彼は私と同じ学校の制服を着ていた。けれど、何か虐められたような記憶があるわけでもなければ、もちろん薔薇色の艶やかな記憶があるわけでもない。
「そこら辺の事情は詳しく説明すると長くなるから、意識下でループに参加していない間に起こった昨日までの別世界の記憶は一生取り戻せない、とでも思ってくれれば」
別に思い出したところで何百回と化け物に殺された苦痛が湧き出てくるだけだしな、との悲報が横から飛んできた。
もしかすると虐められることなく友人と楽しく学校生活を送る世界線があったのかもしれない、と淡い希望を抱いていたが、数多もの死を記憶するクラスメイトに対してそんな浅はかな質問をするほど私も馬鹿ではない。
結局、今生きているこの世界線だけが私にとっての真実なのだ。
「断言するが、明日からの日々は地獄が待ってる。で、その地獄は死んでも死んでも終わらない。俺達が化け物を殺すまでは永遠とその地獄が続くことになる。だからもしも限界が来たら言ってほしいんだ」
「で、私が諦めたらどうなるの?」
「そん時は」
ループの外側に弾き飛ばすことになる、と隼人は言った。
「化け物を殺して日を跨げば、ループが完結する。で、このとき重要なのは、仮にシナプスが繋がっていたとしてもひとつのループが完結するタイミングで生きていなければ新たなループが始まることは無いということだ」
「……う、うん?」
「簡単に言うと、全ての記憶を失って、また新しい世界線での自分の人生が始まる」
それからも隼人にいくつかの質問を重ねて、大体の概要を把握することができた。
要するに、私が死んだ状況で隼人がループを完結させてしまえば、その時点で私のそれまでの記憶の全てが消滅し、なおかつ翌日以降も隼人の世界線には全く違った過去を持つ『生きた私』が登場することになるらしい。私が隼人と共存してきたはずの高校生活の記憶が無いのは、きっとこの現象が関わっているのだろう。
これが隼人の言う『ループの外側に弾き飛ばす』という言葉の意味するものであり、新旧ループを生きて跨がなかった登場人物の全てを、彼は『モブ』と名付けるそうだ。
ちなみに、隼人はこれまでに八人をループの外側に弾き飛ばしたそうだ。
彼らは皆、隼人との過去を一生思い出さない。
けれど、隼人は八人との凄惨な日々を忘れることなく記憶し続けている。
《それって一体どんな心境でいるの?》
殺人鬼にほんのちょっぴり同情したくもなったけど、やっぱり私は彼のためにもそんな気持ちを表情に出さないように努めるのだった。
***
「十時か。そろそろだな」
部屋の照明を点けたせいで、目の前の現実の非現実がより増してしまったような気がした。
本来は白いはずのYシャツの大半を赤く染めた隼人は自分の身体に目線を落とすと、「いや、本当に申し訳ないことをした」と謝罪の言葉を口にした。
「ううん。だって、隼人からすれば仕方のないことだったんでしょ」
「それはそうだが」
ここ最近は険悪な仲だったとはいえ、自分の母親を殺されたことについては思うところがある。けれど、隼人の言う地獄がこの先に待っているとしたら、その地獄を乗り越えるための力が少しでも私にあるのならば、記憶を取り戻すために何度でも私たちを殺す、という彼の決断は間違っていないのかもしれない。
もちろん、隼人の言ったこれから先の未来の話の全てを疑いもなく信じたわけではない。だって私は別の世界線で起きた過去のことは思い出したが、未来のことなんて記憶が無い限り知る由もないのだから。
《でも、それでも》
手渡された睡眠薬を彼が用意したペットボトルの水で飲みこみながら思う。
何度も繰り返してきたはずの人殺しに慣れることなく苦しげな顔をする。そんな眼前の青年の言葉を疑うことは、この狂った世界を疑うよりもずっとずっと難しいことだった。
そうして私は隼人に殺された。
彼の言うシナプスが繋がった現状、この世界線にこだわる必要がなくなったからだ。次会う世界線で、このループの延長線上での共闘を誓って、十七回目の殺人事件は登場人物全員死亡という形によって幕を閉じた。
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