2つ以上の感覚で

 ある音楽を聴いているとき昔の情景が呼び起こされたり、あまりにも美味しいパニーニを食べたときイタリアの風を感じたりすることがあると思います。この共感覚みたいな感覚に陥ることが一流というものだ!!(共感覚に成ったことないけどね、とにかくそういう感じ)と考えていたこの頃、あることに気づく。それはジャンプの有名な漫画『呪術廻戦』が最終話に近づく初秋の候、私は過去の話を読み返していた。すると読んだことある人なら聞き覚えのある「存在しない記憶」というフレーズ(ネタバレじゃないよ)、私はこれを読んだとき、「めっちゃ最高のタイミングで聴く大好きな音楽とびっきり美味しいものを食べたときのあの感覚って、存在しない記憶を勝手に生み出してない?」と思った。思い返してみればまさにそうだ。最近だとトルコ料理を食べたとき、カッパドキアを歩いている記憶が一瞬構築されていた。ああ、一流ってこういうことだと体感してしまったのだ。もう感化されちゃってアイデアとか妄想が止まらなくてなるのだ。しかもそのときって2つ以上の感覚でそれを捉えようとしていると思う。例えば音楽の例でいうと物理的に反応しているのは聴覚だ、しかし同時に風景が思い浮かぶのは人間がこの感動を五感で感じたいために、視覚部分を補おうとしているように見える。人間は感動するために五感をフル稼働させようとしているのかもしれない。


 こういう発見のあと、どこかの国の学者が同じことをすでに言っていないか調べる癖がある。最近だと ChatGPT に自分の発想が過去の偉人と同じ発想をしていないか重複チェックすることができる。するとどうだろうか、フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティの「身体論」の話や、ワーグナーの「総合芸術」の概念などが近いのではと回答がきた。これが昔だと本当に大変だったのだ。「ああ!すごい発見したぞ!」と思って数年後に読んだ本ですでにそのことが定義されていたり、「すげーかっこいい歌詞書いちゃった」と思ったら昔のフォークソングで似たようなこと歌われていたり、それはそれは散々な結果だった。

 しかし今ではほとんどのことは調べられるし、AIに聞けば重複しているかを確認できる(すべての回答が正しいわけではないけど)。こんな時代だからこそ私たちは自分に才能があると勘違いできないのかも知れない。恋が盲目なように、何かに対して真っ直ぐ進むときはいつだって気持ちがいい。それをほかの情報や誰かの評価に邪魔されては、せっかくの熱が冷めてしまう。これは本当にもったいないことだ。できれば私は何かを勘違いしたまま生きて、どこかで恥かいて、それを笑い飛ばすことがしたい。それを数回経験できるのなら、けっこういい感じの人生だと思うのだ。

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