白くないキャンバス
子どもの頃、真っ白のキャンバスに絵を描くように人生を歩んでいくのだと思っていた。だから歳を重ねれば白い隙間は無くなって、途中からは上から塗りたくるしかないのだと。しかし現実はどうだろうか?産まれたての子どもでさえ真っ白のキャンバスは持てない。大人が勝手に決めた宗教や思想のキャンバスを持たされる。そして自分も子を持つと同じことしかできないのだ。
ロンドンでは多くの人種が存在する。それを見ていて思ったのだが、当たり前だけど多くの人種が存在すれば多くの宗教が存在するのだ。すると宗教上の理由で着ている服や食べてはいけないものもあったりする。街はそういった多様性に適合していってどんな宗教に対しても偏見を持たない。しかし私はふと思った。子どもは宗教を選べないと。
宗教だけではない、子どもは生まれながらにして選べないものである。それは肉体的にも精神的にも成熟していないから大人が代わりに選んでいるというのも分かっている。だけどなんだかなあと腑に落ちないところでもある。結局、人間が求めるまっ白なキャンバスなど存在しないのだ。すでにこの世は誰かの手で作られていて、私たちはその仕組みの上で呼吸をしている。0から生まれたと思ったものはそう見えるだけで、選択したと思ったことは必然だった。だから思春期になると反抗したくなるのだろうか、いや関係ないのだろう。思春期を過ぎた私はそれに気づいてから反抗したくなっているわけなので。
海外に来ると人生のリセットボタンを押した気分になる。それは海外に限らず日本国内で移動したときも同じことを感じた。けど、なんとなくだけど、海外ってやっぱり文化が違うので、リセットボタン押した感じがすごくする。なので多くの人間は何か新しいことを始める、それもなんとなくだ。
私は人間は8割以上が環境に抗えない生き物だと考えている。それは上述した「白いキャンバスは存在しない」という考え方に基づいている。先ほどは生まれてからの話ばかりしたが、これも同じ原理である。自分が取り巻く環境がキャンバスならば、新しいキャンバスに変えたほうがよりよい絵を描ける可能性はあるだろう。だから海外に行った人が何か新しいことを始めようという流れになるのは、新しいキャンバスの上に何を描くかワクワクしているからである。しかし忘れていけないのは、まっ白なキャンバスなどは存在しないということだ。だからこそ自分が持っているキャンバスがどんなものなのかを認識したほうがいいだろう。今ある色を使って新しい色を作るのか、上から塗りつぶすのか。私たちのキャンバスはすでに何かを持っている。あとはそれをどう使うかなのだ。
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