シャロン・ポトフ及びシャーリー・ポトフ(フリー百科事典)
シャロン・ポトフ(関連項目ーポトフ家)
生没年 カクヨム世紀1111年〜1130年?
(概要)
ライアン・ポトフ(後のライアン一世)の最初の妻
(生涯)
宮廷貴族ケバブ子爵夫妻の長女として生まれる。
下に弟と妹がいる。
父の子爵が友人の借金の保証人となり、幼い頃に家が没落。
父母とも宮廷や他の貴族邸に働きに行ったため、貧しい中で弟妹の面倒を見、家事を担う日々と伝えられる。
(注:貴族学校の名簿に載っていないため、通っていないと思われる)
家事の中で物語を読むことだけが楽しみであり、華やかな王宮の舞踏会や騎士と姫君の恋愛物語に憧れ、それが後の悲劇の要因となる。
当時、貴族令嬢は十代前半で婚約が当たり前だったが、名ばかりの貴族のケバブ家に婚姻の話は来なかった。
借金返済の目処が立たない中、業を煮やした金貸しが縁者のタンドリー侯爵夫人に目をつけて激しく催促。
支払い義務はないものの貴族の面子もあり困った夫人はシャロンの美貌に目を付け、銀山を有し金が有ると思われる寄子のライアン・ポトフに縁づけ、借金を肩代わりさせることを目論む。
結果はライアンはシャロンを気に入り、タンドリー侯爵の養女として伯爵家へ嫁入りする。
同時に実家の借金返済、さらに家族への支援を得られる。
その時のシャロンの気持ちは不明だが、その後に仲睦まじい姿が見られるので、この婚姻を歓迎して受け入れたと思われる。
数年の伯爵夫人としての穏やかな生活を経て、夫ライアンが隣接するソーダ侯爵領に侵攻する間に王都の貴族学校で学ぶ弟妹のもとを訪問する。
その時に少女時代に憧れていた王宮社交界に、養母タンドリー夫人の手引きで出入り、そこでシュラスコ公爵次男ジョージと知り合う。
当時の王宮は風紀が乱れ、宮廷貴族は夫婦ともども愛人を持つのも当たり前という風潮だった。
特にジョージは父の威光をバックにして、美貌の女と見ると貴族の夫人であろうが見境なく手を出していたことで有名であった。
その父のシュラスコ公爵は宰相の時に、領主貴族の抑圧の為に宮廷貴族との婚姻及び妻子の居住を王都に事実上義務付けたが、その結果、領土に居住する夫の目を盗んで浮気にうつつを抜かす妻が続出。
中には托卵を企む者も出てきて、宮廷貴族の子女の信用は地に落ち、浮気女の代名詞となったと言う。
当時の領主貴族の日記では、宮廷貴族の娘との婚姻後に初夜の場で形式のみの妻として置き、一切交わりをしないことを宣言し、国元に他の領主貴族の娘などを本妻として置いていたと記されたものがある。
そのような淫乱な雰囲気の中、女の扱いに慣れたジョージに、世に不慣れなシャロンがすぐに堕とされたことは想像に難くない。
ソーダ領の平定を終えたライアンは王都に妻を迎えに行って、直ぐに妻の不貞を見つけたようであり、シャロンを領地に送還し、謹慎させている。
当時復活した姦通法では不貞の妻を殺害することも認められていたが、ライアンが謹慎に留めた理由は不明である。
その後のシュラスコ公爵や国王を相手にしたライアンの戦争は、原因となった彼女の名をとってシャロン戦争と称される。
王朝交代の原因となった傾国の美女としてシャロンの名は名高く、世論調査では世界三大美女の中に入っている。
(最期)
シャロン戦争がポトフ軍の勝利で決着し、ジョージ・シュラスコが敗走する頃、ポトフ家の館で謹慎していたシャロンは嵐の夜に馬に乗って脱走する。
その数日後、森の奥で衣服だけが見つかった為、獣に襲われて亡くなったと見られている。
脱走の理由は、後悔の念からの発狂説、夫ライアンの身を心配して向かった説、間男ジョージを慕っての逃亡説がある。
ライアンは衣服が見つかったところに小さな墓を立てるのを許した。
彼女の生涯は不貞した末路として、若い娘への教訓としても語り継がれるとともに、その美貌と相まって小説家や画家の想像力を刺激し、様々な芸術作品に描かれている。
シャーリー・ポトフ(ポトフ家の関連項目)
生没年 カクヨム暦1120年頃?〜1157年没
(概要)
ライアン・ポトフ(後のライアン一世)の側室。ネラ女辺境伯とテッド大公の母。
(生涯)
その前半生については全く知られていないが、王都出身と言われている。
ライアン・ポトフの王都包囲の時に見出され、側室に取り立てられた。
出自不明であり、孤児、平民出身などの噂は当時から強かったが、その振る舞いは礼儀を心得ており、没落した下級貴族出身ではないかとの説が通説である。
前妻シャロンに劣らない美貌であったと言われるが、ライアンは男の目に晒すことを忌避し、人前に出る時は顔を隠すヴェールを必須としていた。
侍女の手記からはこの世のものとも思えない美しさと書かれており、義理の娘となった皇女の手紙では、当時30を超えていた彼女を、これほどの美人を見たことがないと讃えている。
彼女の血を引くネラも絶世の美女と言われたが、お母様に比べたら月とスッポンと自ら言っていたという。
ライアンは彼女を得てから正室ベアトリスを除いて他の女を寄せ付けることなく、戦争に向かう時も側に置き、手元から離さなかった。
物に拘らないライアンにしては珍しいが、前妻シャロンの不貞がよほど心の傷だったと思われる。
シャーリーはライアンに影のように付き従い、その身の回りのことは彼女が行った。
また、所領にいる時は、政務に多忙なベアトリスの子供も含めて4人の子供を育て上げ、慈母として慕われる。
人となりは贅沢を好まず、自らの住居調度品は簡素なものしか望まず、そこで夫の世話と育児を行った。
4人の子供が王や大貴族となってからも質素な暮らしを心掛け、ポトフ王朝では贅沢な王が出現しなかったのはシャーリーの教えであり、賢母の鏡と評された。
これは正室ベアトリスがライアン亡き後に政権を握ったことを忌み、正史の中で悪女として位置付けられたことの対比もあると言われる。
シャーリーはライアンの寵妃であるため、多くの頼み事が行われたが、政治には口出しせずに、戦争遺児や寡婦、貧しい者たちへの慈善に尽くした。
また、娘や侍女など身の回りの若い女性には、しつこいほど貞節を守ることを説いた。
ライアンに尽くすことは尋常でなく、夫の命には絶対服従であったと言われる。
(最期)
ライアンと時と場所を同じくして、突然に草原で亡くなったが、死因は不明である。
通説はベアトリスの手によりライアンと共に暗殺されたか、ライアンを追って自裁したというものである。
その死を子供達は深く悲しみ、長く母のことを偲んだことは後世まで伝わっている。
民間信仰では、軍神ライアンの妻として、良妻賢母、慈悲の女神として広く信者を集め、母の日にシャーリー祭が行われている。
なお、最近のフェミニズムの高まりで、一部の先鋭的な活動家が、男に従属する女の典型と批判し、シャーリーの像を倒したことと
それに対して庶民から激しい吊し上げを受けたことは記憶に新しい。
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シャロンはあっさりと書けましたが、ベアトリスは難しそうです。
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