シャロン
ライアンは遠くに見えるジョージを馬の腹を蹴って追い縋った。
ジョージに付いている傭兵の護衛が必死で邪魔をしてくる。彼らもプロだ。せめて雇い主を無事に逃さねば後の評判にかかわる。
「邪魔だ!」
ライアンは剣を振るとスピードが落ちると思い、先頭に立って近づいてきた相手に拳で殴りつけ落馬させる。
さらに追ってくる敵は部下に任せ、自身はジョージだけを目標に追っていく。
馬はジョージの方が優れているが、馬術の腕はライアンが遥かに上だ。
巧みに最短距離で追っていき、徐々に近づいていく。
そろそろ矢を放てるかというところまで近づいた時、突如激しい雨が降り出してきた。
豪雨で前がはっきり見えない。
ライアンは矢を射るのを諦め、追いつこうと馬を急がせるが、ライアンの愛馬はもう限界であった。
徐々に距離が開いていくのを見たライアンは鞍を拳で殴りつけ、「くそっ!」と篠つく雨降る天を仰ぎ怒鳴りつけた。
豪雨の中、追跡をあきらめたライアンだが、いざ戻ろうとすると道もないところをひたすらに追ってきた為、帰る道がわからない。
ジョージを仕留められなかった怒りと、家臣が心配して待っているだろうという焦りの中、日は暮れていく。
ライアンは雨の中を彷徨った挙句に森の中の洞穴を見つけてそこで一晩を明かすことにした。
さて、シャロンのことに立ち戻る。
ライアンの裁定により、シャロンが領地の館へ、家族は鉱山へ送られる。
館に戻ったシャロンを待っていたのはこれまで仕えていた侍女や従者の氷のような視線と下女としての厳しい扱いであった。
とりわけ何も知らずに嫁いできたシャロンに付けられ、一生懸命に彼女を支えてきた侍女達は、裏切られた思いを持ち、裏切者、姦婦、淫売婦ととりわけキツく当たる。
シャロンはまず伸ばしていた美しい髪を短髪にされ、服は簡素な労働用のものを与えられた。
王都に行くまで使っていた私室とライアンが買い与えてくれたもの、王都で買い漁った様々な贅沢品はすべて没収された。
そして彼女が嫁いで来た時に持ってきた僅かな衣服と貧相な装飾品、それに結婚した際にライアンから与えられた懐剣だけを持って屋根裏部屋に移された。
自業自得とは言え、ライアンが褒めてくれた長い髪を切られ、嫁いで初めて買ってもらったドレスやネックレスを取り上げられたことは悲しかった。
それからは早朝から日が暮れるまで働き詰めの毎日。
下女に供される食事は量はあるものの塩味が強く喉に通らない。
仕事も、浮気するほど元気があるのなら沢山の仕事もできるはずと、他の下女よりも多くの量を課され、できなければきびしく叱責された。
身体を使って働くのは苦ではなかったが、事あるごとに尻軽女、浮気女と罵られ、また存在を無視されるのは辛かった。
同僚の下女達も集まってお喋りしていても、シャロンが来ると流行り病者がきた時のように逃げるように去っていく。
シャロンは仕事を終えて、与えられた屋根裏部屋の寝所に夜遅く戻ると、睡眠時間を削り、館に設けられている小さな礼拝堂に赴く。
そこでライアンに謝罪し、彼の幸せを願い、なぜあんなことをしてしまったのか自らに問い続けた。
(私は貧しい希望のない生活から救い出し、申し分のない暮らしと愛情を与えてくれたライアン様に感謝し、深く愛していたはず。
何が不満で、あんな軽薄な場所で浮かれ、挙句に浮気などをしようとしたのか)
今から思えば己が行ったとは思えない所業の数々、その苦く辛い記憶を掘り起こし、狂うほどに思い詰めたシャロンは、ある晩礼拝堂で倒れ、そこで神の声を聞く。
『シャロンよ、お前の幼い時からの篤信や善行に報いるために、ライアンを使わし、愛と豊かな暮らしを与えた。
そして、お前がその救いに感謝し、その恩恵に相応しい心根をしているかを見定める為に、悪魔の化身ジョージを送り、お前を試したのだ。
お前は悪魔の誘惑に屈し、貞節を破ろうとした。私はお前を地獄行きと考えたが、もう一度チャンスを与えるためにライアンを遣わし、おまえをギリギリのところで汚れることから助けたのだ。
シャロンよ、今の辛さは試練である。
神やライアンの為に今度こそこれを乗り越えてみよ』
それは毎日孤独と過労に加え、自らの過ちを悩み苦しんでいたシャロンの生み出した幻想だったのかもしれない。
しかし、それからシャロンは見違えるように変わった。
進んで人の嫌がる仕事をこなし、無視され、罵られ、時には打擲されても笑顔で応対する。
そんな彼女に親しもうとする者も出てきたが、侍女長は赦さなかった。
「あれは狡猾な女。騙されてはなりません」
シャロンは月日もわからずにひたすら働き、神とライアンに祈り、泥のように眠る日々を過ごす。
試練だと自らに言い聞かせるが、それでも心が折れそうになる辛い日々であった。
時々家族から手紙がやってくる。
そこには、父と弟は鉱夫として使われるが、成績を上げられずに碌な俸給をもらえず、母と妹が慣れない手つきで、鉱夫の炊事や洗濯に従事する事でなんとか食い繋いでいる事が書かれている。
その手紙では、王都で遊び呆け、シャロンを浮気に誘い、恩人のライアンを罵り侮蔑したことへの後悔とともに、何故こんな酷い目に合わなければならないのかという嘆きが切々と書かれていた。
シャロンは乏しい下女の給金から家族に送金するとともに、罪を償うために生きていることに感謝し、仕事に勤しむように記して返信する。
家族に手紙を書いたのち、境遇の激変や肉体的また精神的疲労からシャロンは体調を崩す。
(せめて旦那様に一目会って、お詫びと感謝の気持ちを申し上げてから死にたい)
彼女にとって今やライアンは救世主であり、唯一の生きる希望であった。
ライアンが館に帰還したのはその頃であった。
シャロンは下女の一人として宴会の準備に走り回るが、時間があればライアンを見つめた。
(少しお疲れのように見える。
以前ならば特製のお茶を入れて、膝枕をして差し上げたのだけど)
そう出来ない自分がもどかしいが、全ては自分のせい。
シャロンはライアンに向けて、これまでの感謝と謝罪を一言言わせてくださいという思いを込めて、じっと見つめていた。
その翌日、シャロンは侍女長に呼ばれて、外向きの下女にされる。
川での洗濯や薪拾い、馬や家畜の世話などが主な仕事であり、館の中に入ることは少なくなる。
寝る場所も外の物置小屋に移される。
今までのようにいびられる事は少なくなるが、これでは偶然にでもライアンに会って話すことはできなくなる。
そんな日々を送るある日、シャロンは館からライアンが兵を率いて出陣するのを見送る。
その時、周囲の噂が聞こえる。
「敵は数万とも言うぞ。勝てるだろうか」
「何を弱気なことを言う!ライアン様がいて負けたことがあるか。今度も勝つに決まっている」
「私の夫は無事に帰ってきて」
「敵をやっつけて賠償金を取ってくれば褒美も弾まれるぞ」
戦の行方の心配、身内の無事の願い、勝った時の褒美の期待、そんな声の中でシャロンはひたすらにライアンが無事であることを祈る。
何日か経ち使者が館に飛び込んでくる。
「我が軍は大勝利。敵軍は過半は寝返り、残りは敗走しました。
ただ、ライアン様は敵の総大将を追っていかれ今行方がわかりません」
館の人々は歓喜とともにライアンを案じる。
折しも外は豪雨が降り出してきた。
探しにいかねばならないという声が上がるが、留守居役の家老は迷った挙句に断を下す。
「相手を引き込んで戦ったので、ライアン様は領内におられる。心配はいらん。
逆にこの雨の中探しに行った者が迷う可能性が高い。しばしここで待て」
ちょうど洗濯物を届けに来ていたシャロンはその話を聞き、家老の言葉を待たずに外に飛び出す。
馬小屋に行くと一頭の馬を引き出した。
彼女が嫁いでからライアンは馬を与えて乗馬を教えてくれた。
その愛馬に跨ると豪雨の中を飛び出していく。
行くあてもないが、矢も楯もたまらなかったのだ。
日も暮れた雨の中をシャロンはライアンの名を叫びながら彷徨う。
ライアンは雨が止んだ頃、どこかで名前を呼ばれたのを聞く。
馬に跨りその声の方に向かうと、全身をびしょ濡れにした短髪の少年のような者がライアン様!と叫びながら、周囲で吠えるオオカミに短剣を振り回している。
(最近雇った従者か、見覚えがないな)
ライアンはオオカミを追い払い、大丈夫かと声をかける。
「旦那様、お会いしたかった!
これは神が引き合わせてくれたのね」
「その声はシャロンか!
なぜこんなところにいるのだ?」
シャロンはライアンを見ると安心したのか気を失った。
ライアンは彼女を背負うと、洞穴に連れて行き、そのびしょ濡れの服を脱がすと、その冷え切った身体を自らも裸となり抱きしめて温めてやる。
(シャロンを抱くのはいつぶりか。
一緒にいると心が温まる)
そう思いながらライアンも疲れが出たのか、うつらうつらし始める。
朝日が差し、シャロンは目を覚ますと、すぐ隣にライアンの寝顔があるのを見つけて、夢だと思う。
(夢ならば何をしてもいいわね)
「旦那様、会いたかった!」
シャロンはぎゅっと抱きつき、ライアンにキスをする。
ライアンは目を開けると、シャロンを下にして上に乗りかかる。
「シャロン、久しぶりに夫婦の営みをしようか」
「まあ、旦那様、いきなりですね。
まだ夫婦と言って下さるの。でもいいですわ」
夢だと思うシャロンは大胆であり、ライアンの誘いにクスクスと笑って身体を預ける。
事が終わると、何度も歓びの声を上げてぐったりしたシャロンはさすがに現実であることに気がついた。
シャロンは土下座して泣きながら語りかける。
「旦那様、ごめんなさい。
謝って済むことではありませんが、旦那様に与えてもらった愛情に感謝し、私の愚かな所業を謝らせてください。
一目会って、それを言いたかった。
思いもかけず抱いてももらえました。
もう死んでも構いません。
お赦しあれば頂いた懐剣で自害させてください」
ライアンは苦笑し、彼女を抱き起こし、自らのマントをかけてやりながら言う。
「オレも会いたかったよ。
でも、お前の心が俺から離れたのかことがはっきりするかと怖かった。
お前はジョージに心を移したのでは無いのか」
シャロンは土の上に座り込み、涙を溢しながら言う。
「社交界に初めて出て、幼い頃の絵本のお姫様のようだと舞い上がっていました。
今では何故あんなことをしたのか、悪い夢の中にいたようです。
私を誘惑したのは悪魔の化身。すべては私の心の弱さ故のことです。
いくら詫びても足りませんが、愛しているのはあなただけです。
疑われるなら私の血でそれを証します」
彼女は懐剣を胸に突き立てようとする。
「もういい。
二度と他の男に心も身体も許さないと誓えるな」
ライアンは懐剣を取り上げて諭すように言った。
「神に誓って。
あなた以外に肌を許すなら自害致します」
「その覚悟があればいい。
お前を許そう。
しかし、このまま妻に戻すわけにはいかない。
いいか、浮気した妻のシャロンはここで死んだ。
お前は村娘のシャーリー、いや村の少年シュートだ。
あとはオレに任せろ」
ライアンは彼女の顔に泥を塗り、更に髪を短くして少年に見えるようにする。
馬に乗って途中の村により、少年の服を買うとそれを彼女に着せた。
そのまま館に帰る途中、探しに来た家臣たちと出会う。
「ライアン様、心配しましたぞ!
ご無事でよかった。
ところでその少年は?」
家老が喜びながらも不審げに尋ねる。
「豪雨の中で助けてくれた少年だ。シュートと言う。
俺に仕えたいと言うので小間使いとして側に置くこととした」
ライアンが淡々と言うのを聞き、一瞬疑わしげにシュートことシャロンの方を見るが、家老はそれに拘る時間はなかった。
「おお、そんなことよりも、昨日の勝利でこちらに付いた貴族様たちがお待ちです。
錦の御旗に叛いた以上、このままということにはなりません。王との戦いをどうするかを協議しなければなりません」
焦る家老の言葉にライアンは呵呵と豪快に笑って答える。
「言うまでもない。
このまま王都に進撃し、シュラスコの首を挙げる。
それに逆らうならば王とて討つだけだ」
それを聞いたライアン配下は望むところと歓声を上げる。
昨日の勝利で士気は非常に高揚している。
そしてライアンの弾むような明るい笑い声を聞いた家老は、これまで主君にあった陰が無くなったことを戦勝のためと解釈し、ようやくシャロンのことを吹っ切れたのかと安堵した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます