温かな新婚生活、そして愛する妻の裏切り

ライアンの結婚生活は思っていた以上に順調だった。


シャロンは最初は領地の女主人ということに慣れなかったが、ライアンや侍女長の助けもあり、ほどなくその役割にも馴染み、家臣や領民からも美人の若奥様として親しまれるようになる。


ポトフ伯爵家は、ライアンが華美を好まず、過酷な貧困の中から再建したこともあり、伯爵という格やその財力に比べ家臣団も少なく、屋敷も質素であった。


シャロンを娶ることとなり、侍女の数も増やし、家財道具も買い増したが、まだまだ通常の貴族に比べれば遥かに簡素な家屋敷であった。


しかし、シャロンは侍女もいない家で自分で家事をこなしてきたためそのことに不満はなかった。

むしろ広い屋敷や侍女に仕えられる生活に戸惑い、すぐに自分で働こうとして、侍女長に「奥様の仕事は人を差配することです」と叱られていた。

けれど彼女の自ら汗をかいて働く姿はライアンや家臣の好感を得た。


ライアンが侍女長に、慣れるまでしばらく好きにやらせてやれと言うと、シャロンは夫に食べてもらおうと夕食に得意の料理を作ってみた。


「旦那様、私の乳母から教わった料理です。

貴族の妻が料理など以ての外と言われましたが、旦那様に私ができることが思いつかず、作ってみました。

お口に合わないかもしれませんが・・」


ライアンは妻の言葉が終わらないうちに食べ始めていた。


「これは美味い!

シャロンは料理が上手だな。

これからも時間があれば作ってくれないか」


シャロンが乳母から教わった素朴な家庭料理だったが、それを気に入ったライアンはしばしば妻の手料理に舌鼓を打つ。


シャロンは刺繍や編み物も得意であり、夫のシャツや手袋などを作ると、ライアンはそれも喜んだ。


領内のあちこちで、大きな当主と並んで小柄で可愛らしい若妻が歩く姿が見られた。

「旦那様、旦那様。あれは何ですか?」

と問いかけるシャロンと、目を細めてそれに答えるライアンに、領民は近づいて、収穫された作物を「食べてくだされ」と持ってくる。


家臣や領民は、戦火と災害で荒廃した領地の中で、まだ若いライアンが走り回って元気づけ、金策に奔走してきたのをよく知っている。


「ご領主様もかわいい奥様を貰われて、幸せそうで良かったのう」

「ほんに。

家族を亡くされ、儂らのために不眠不休でずっと働かれておった。

これでお子もできれば安心じゃ」


若くして当主となり、助ける者もない中で一人頑張ってきた中で、知らず知らずライアンの心は強張っていた。

それがシャロンといると、湯舟に浸かるかのように柔らかくなっていくのがわかる。


王都の小さい屋敷に閉じこもっていたシャロンには何もかも珍しく、この広い領地の女主人が自分であるとは信じられなかった。


当主が不在のときの領内の政治の決定権は夫人であるシャロンにある。

ライアンは急いで領内の統治を教えるとともに、王宮に行った時に備えて宮廷の礼儀作法など教養をつけるための教師を付ける。


王宮には結婚の許可を貰うために一度だけ訪れたが、緊張していたシャロンは言われるがままに動き、何も覚えていない。

次回、王宮に行くことがあればシャロンも社交をしなければならない。

その時に笑われることのないようにと、ライアンは配慮した。


シャロンは侍女長に教えられて家政を担うとともに、領内の勉強を懸命に行い、少しでも伯爵夫人に相応しくあろうと頑張った。


ライアンは、妻の様子を見て、2年間は子供を作らずに過ごすことにした。

世継ぎを早く作るべしという家臣の声は大きかったが、女主人の仕事の勉強と子育てが重なれば、この頑張り屋の妻がパンクするのではないかと心配したからである。


2年を経過し、シャロンも伯爵夫人という立場に慣れてきた。

家老達から世継ぎをと迫られ、新婚生活を満喫していたライアンもそろそろ潮時かとシャロンに話し、同意を得る。

シャロンは芳紀19歳、美少女から磨きのかかった美女となり、真面目で優しく、聡明でもあった。


当主夫人の仕事の合間の、彼女の楽しみは貧しい少女時代から続いている物語を読むこと。

貧しい生活の慰めは、貴公子との恋愛物語だった。

もちろん今の夫を愛しているが、物語を空想する楽しみはやめられなかった。


さて、この2年でポトフ領に隣接するソーダ侯爵家の内紛は更に深刻となり、もはやポトフ伯爵家から燃料を補給しなくとも燃え盛っていた。

戦火が領内に広がり、多くの難民がポトフ領に逃げ込んできた。ポトフ家では鉱山などの職を斡旋するが、一部は盗賊などとなって治安を悪化させ、領民から難民を追い出せという声が上がる。

ライアンと家臣はその対応に頭を痛めた。


「ソーダ侯爵家が弱体化するのはいいことだが、荒廃してこちらに迷惑がかかるのは困る。

難民救済など対症療法を続けても金が出ていき、治安も悪化する。

いっそこちらから攻め込み、彼の地を安定させた方がよかろう。

この2年の間に家臣も増強して、余裕もできた。

我らの実力からすれば併合することも視野に入れられる。

そうすればシャロンとの子どもに残せるものも増えるというものだ」


ライアンはそう決断する。


と言ってもいきなり攻める訳にはいかない。名目が必要だ。

まずはタンドリー侯爵に王宮工作を依頼し、ソーダ領の治安維持を目的とした侵攻の許可を願ったところ、多額の賄賂と引き換えに認められることとなった。


「シャロン、ソーダ侯爵領に行ってくる。

奴らは内戦で疲れ切っているので大した戦争にはなるまい。

うまく収まれば併合して、生まれてくる子供のための富を増やしてやろう」


狩りに行ってお土産を持って帰るという気軽さでライアンは話す。 

多くの紛争を重ねてきた伯爵家の兵は精強であり、ライアンは戦に巧みである。 

金に任せて傭兵も雇っており、この程度の戦争であれば容易いものであった。


「旦那様、ご無事でお帰りください。

旦那様が不在の間、ちょうど王都の弟の卒業式があるので、久しぶりに両親と行ってまいります」


「そうだな。私も行ければ良かったが。 

弟さんと妹さんによろしく。


もうシャロンも貧乏貴族の娘ではなく、堂々たる伯爵夫人だ。

自信を持って王都では楽しく過ごせば良い。


ただし社交界には気をつけたほうがいい。

あそこは表面は華やかだが、裏に回れば人を貶め合う恐ろしいところだ。

決して人の甘言に乗って深入りしないように」


ポトフ伯爵家の財力で、卒業後は彼らの希望に沿って、弟は政府の高級官僚に就職が、妹は法衣貴族の子爵嫡子と婚約が決まっていた。

妹は縁戚であるタンドリー侯爵夫人の紹介で社交界にも出入りし、姉にも手紙で自慢していた。


ライアンは、貧困から立ち直ってから寄り親であるタンドリー侯爵夫妻に連れられ、婚活を兼ねて社交界にデビューした経験がある。

しかし、幼くして当主となり、領地の救済のために王宮や有力貴族に嘆願して回っていた彼は、乞食伯爵が何しに来たと当時のことを嘲笑われていた。


更に、苦労して掴んだ金を王都で浪費するのを嫌うライアンは、洗練された礼儀作法や流行のファッションに疎いことを陰で馬鹿にされ、金蔓としてだけ見られていたことを知った後、二度と顔を見せることはなかった。


シャロンと両親が王都に到着すると、弟妹が迎えにやってきた。


彼らはポトフ伯爵から多額の援助を受け、子爵家子弟として相応しい生活を送れるようになり、貧しい時代とは見違えた様子だった。

両親と姉を王都のあちこちに案内する。

お金がないときには来ることも食べることもできなかった場所だ。


(お金があれば、王都はこんなに楽しい場所だったのね)

王都にいたが、貧しくて家の周辺しか行けなかったシャロンは思う。


その晩は高級レストランで家族水入らずで食事を取った。


「こんな高そうなところに来て大丈夫なの?」

母が心配するが、弟は笑い飛ばした。


「確かにここは貴族子弟でもなかなか行けないところだよ。

姉さん、芋伯爵からたくさん小遣いを貰ってきたんだろう。

お金の使い方を知らない田舎者の代わりに使ってやればいい。

そうそう、ポトフ伯爵は昔貧しくてパンを買えずに芋を食べて働いていたと学校で笑い者にされていたよ」


「ジョゼフ、なんてことを言うの!

ライアン様に申し訳ないと思わないの!」


シャロンは怒ったが、妹も弟の肩を持つ。


「あの義兄さん、王都の社交界で評判悪いのよ。

引きこもりの成金とか、鉱夫あがりの貴族失格とか。

だから私もポトフ伯爵の義妹とは言わずに、タンドリー侯爵の姪だと言っているわ。

姉さんは養女だし、タンドリー侯爵夫人も認めてくれたわ」


「馬鹿な。

タンドリー侯爵など結局何も助けてくれなかった。

お前達の学費もポトフ伯爵に出してもらっているんだぞ」


父が怒るが、弟妹は相手にしない。


「お父さんが借金するのが元凶でしょう。

それで姉さんがあんな野蛮な男に身を売るようなことになって。

姉さんはイケメンの貴公子に嫁ぎたかったんだ。

あの男の金なんていくらでも使ってやればいい」


弟は怒ったように言う。


「もうやめて!

旦那様はとても良くしてくれている。

悪口を言わないで!」  


シャロンの叫びで一旦は収まるが、弟妹の悪口は収まらない。

嗜めていた両親も援助を受けているのに思うところがあるのか、酒が入ると伯爵の悪口を言い出す。


「ポトフ伯爵のあのゴツい身体は貴族というよりも鉱夫だな。

最初見たときは護衛かと思ったよ」


父の軽口に家族だけの会話と気が緩んだシャロンも口を滑らせる。


「確かに旦那様の手は節くれだって、ゴツゴツしていて、物語に出てくる貴族の優雅な、白くて細い指とは大違いとは思いましたけど」


「そうでしょう。

ここは家族だけだから、姉さんも鬱憤を晴らしていいのよ」

妹が焚き付ける。


ケバブ家の会食は大いに盛り上がった。


それからシャロンや両親は王都の高級ホテルに滞在する。

タンドリー侯爵夫人もやってきて、義理とはいえ娘だからと高級店へ連れて行き、伯爵夫人に相応しい格好をするように強く勧める。


弟にも言われたが、ライアンからは妻が恥をかかないよう多額の小遣いを渡された。


シャロンはこれまで領地の店で仕立てた服を着ていたが、侯爵夫人や妹に見すぼらしいと非難されたため、店員の勧めるがままに、高価な服、アクセサリーを揃えていく。


様相を整えて、侯爵夫人に付き添われた社交界のパーティーは、シャロンにとってこれまで読んでいた物語に出てきた夢の場所だった。


そこでは、綺羅びやかな衣装を纏った貴族の貴公子や令嬢が、華やかに踊り、歓談している。


怖気づくシャロンを侯爵夫人が知人に紹介していくと、みな笑顔で歓迎してくれる。

貴族の当主やその夫人はポトフ伯爵の富裕ぶりと若い妻への溺愛が噂として伝わり、愛想を売って損はないと思われていたし、若手貴族はシャロンの美貌を見て近寄ってきた。


シャロンは夫の言いつけも忘れ、社交界でチヤホヤされ居心地よく入り浸ってゆく。


しばらくして、シャロンが社交界になれた頃、男たちからは婉曲に愛人にならないかという誘いがやってきた。


驚いたシャロンは拒絶するが、侯爵夫人からは、貴族の夫妻がお互いに愛人を持つのは当たり前のこと、いかにいい愛人を持つかが貴族の格を示すのよと言われ、更に驚く。


パーティー会場で、侯爵夫人から、「あそこの公爵夫人はあの若い子爵が愛人で、あそこの伯爵は男爵夫人を愛人にしているわ。私もいるのよ」とダンディな中年貴族を紹介される。


「私達は政略結婚だから、正式な夫や妻は変えられないけど、別に本当に好きな人を持たないと生きている甲斐がないわ。

あなたもいい人がいれば愛人を作ればいいのよ」


そう言われて、自分に言い寄る男を見ると、武骨な夫とは異なる、物語の王子様のような貴公子がたくさんいる。


(まるで絵本に出てくるお姫様のよう)


侯爵夫人の貴族の当たり前という言葉を免罪符に、シャロンはすっかり舞い上がり、貴公子たちとの恋愛ゲームに興じた。


その中でもシャロンが気に入ったのは、シェラスコ公爵の次男のジョージだった。

その輝くような容貌に洗練された風采、高価な装飾品、まさにシャロンの幼い頃の憧れの王子様そのもの。

その白く美しい手をとって踊った時、シャロンは、ゴツゴツとした岩のような手をした夫と比較し、ジョージの手を芸術品のようだと思った


何度も舞踏会のパートナーを務め、食事をともにし、周囲からも恋人と思われていたが、シャロンは身体だけは許さなかった。


貞操を失えば、夫に申し開きできないという思いが彼女を引き止めていた。


しかし、ソーダ侯爵領の平定が終わったので領地に戻るという、夫からの手紙を見て、シャロンの気は変わった。


領地に戻れば、もとの田舎暮らしで、今度は子育ても加わる。


シャロンの夢のような楽しい時間は終わってしまう。


「ジョージ様、明日の晩、時間を取れますわ」

シャロンの言葉に待ちわびていたジョージは大喜びする。

早速ホテルを予約し、明日を約束する。


次の日、シャロンはこれまでにないほどのおめかしをし、パーティーに出かける。


そして、その後ジョージと馬車に乗り合わせて、ホテルに入った。


ドキドキしながらシャワーを浴び、待っていたジョージと抱き合う。


(これが最後。

あとはこのことを思い出に、領内で貞淑な妻として大人しく暮らすので許してください)


夫に心の中で詫びを言う。


ドーン!

その時、ドアが蹴破られて、まさにその夫、ポトフ伯爵が数人の部下を連れて入ってきた。

その顔つきはシャロンが今まで見たことがない険しいものであった。


凍りつくシャロンを尻目に、ジョージは裸のまま窓から飛び降り、逃げ出す。


ライアンは、窓に近づくと、弓を構え狙いをつけて矢を放つ。


その矢はジョージの尻に深々と当たるが、彼は血を流しながらも隠れていた従者から受け取った服をまとい、逃走する。


ライアンは部下に命じる。

「間男を追え。

捕まえたら生かして連れてこい。

生まれてきたのを悔やむほどの苦痛を与えてやる」


そしてシャロンを冷たく見下ろし言う。


「お前のことを放置しておいたと思っていたのか?

伯爵夫人になぜ誰もついて来ずに、家族だけで過ごせたことを不思議に思わなかったか。

オレから離れて王都でどう振る舞うか、その心根を見定めるためだ。


これから子どもも産まれれば、次期伯爵の母ともなり、本気で伯爵夫人として家を束ね、領地の政治も担ってもらわねばならない。

貴族令嬢としての教育を受けてこなかったお前にその覚悟があるのかを確認したかったのだ。


これまで遊べなかったのだ。

多少羽目を外すことは多めに見ようとは思っていた。


王都での振る舞いが怪しいと護衛を兼ねた諜者から連絡を受け、言動を調査し、すべて把握している。


イケメンの愛人を欲しがったことも、俺の手が鉱夫のようだと莫迦にしたこともな」


「あれは家族だけで話したのに何故?」


「誰が聞いているかわからないレストランで話すのは、人混みで話すのと同じ。

おまけにお前の弟妹は友人とやらにオレの悪口をベラベラと話しているな。

あのジョージという男、貴族の人妻を弄んで捨てるたちの悪い男で有名だ。

お前の社交界の友人とやらはそんなことは何も知らせずにあの男と付き合うのを勧めていたのだろう。


自分は一文無しで、家族を支援してもらっている夫を馬鹿にする、そんな奴に近づくのは腹に一物ある奴だけだ。


オレは社交界は怖いところだと言っただろう。

みな、貧乏貴族の娘が成金の妻となり、立派な格好をしているのが気に食わず、墜落していくところが見たかったのだ。

悪意の塊だ、貴族社会という所は」


「でも、愛人を持つのは貴族にとって当たり前と聞きました」


「よく見てみろ。貴族でも夫婦円満なところはいくらでもある。

愛人を持つのは、仲が悪いが利害関係に縛られ離婚できない夫婦だ。

それでも最低でも世継ぎを生んでから、夫婦の合意が条件だ。

我が家はどの条件にも当てはまらない。

そんなことはすぐにわかること。

聡明なお前が気づかなかったのは知りたくなかったからだろう」


自分の思っていたすべてが崩れ去り、シャロンは呆然として、膝から崩れ落ちる。


それを見たライアンは問答に疲れたようにシャロンから顔を背け、部下に言う。


「侍女長、この女に服を着せろ。夫以外に裸を見せてはいけないということを知らないようだ。

お前達、帰るぞ。

そして、俺をコケにした奴らにそのツケを高く支払わせてやる」

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