第一話


 落神となった雪珠は、同じく落神となった元同胞の狐の落神に追われていた。

 理由は単純だった。

 仲間を殺せば、落神としての質が上がるからだ。

 形を崩さず、朽ちることもなく、ただただ強くなる。その為だけに狙われた。

 しかし、雪珠にその気はなく、同胞を殺してでも強くなりたいという欲はなかった。

『ハァ、ハァ、ココマデカ……』

 あの村を滅ぼしてから数十年、落神となって気まぐれに人間を襲い、食らって生き延びてきていたが、それにもそろそろ飽きてきていた。だから、いつ消えてもいいという思いはあったが、それでもかつて神だった頃の矜持は僅かにあって、心のどこかで誰かの役に立ちたいと思っている。

 過ちをもう一度繰り返したいなんて、馬鹿げている。

 なのに、落神として人を、生者を殺し尽くしたいという矛盾した本能が雪珠を生にしがみつかせていた。

 本性である狐の姿になり、同胞から逃げ回る何とも情けない姿に呆れる。

 雪珠はこの時、狐の姿を保つので精いっぱい程度の力しかなく、かなり弱った状態だった。

 その村へたどり着いたのも偶然で、恐らく弱っていたせいだろう。結界に弾き飛ばされなかったのは。

 その村は高位神の結界で守られた村。落神は入ることは出来ず、弾き飛ばされるが、今にも消えそうな落神や悪霊であれば迷い込むことは稀にあった。

 結界の中に入れなかった同胞は、随分悔しそうな顔をしていた。結界を壊そうとしているのが分かったが、雪珠はよろよろとその場を離れようとして力尽きた。

 『アア、我ハ、ココデ終ワルノカ……』

 天狐と言っても所詮末席。九尾にもなれないただの化け狐の最期なんて、こんなものだろう。

 そう、諦めていた。


「あなた、落神ね」


 幼い少女の声だった。

 のろのろと顔を上げると、たいそう美しい八つほどの娘が雪珠を覗き込んでいた。

「こんなところでどうしたの? とても弱っているわ。こっちへいらっしゃい、傷を治してあげる」

 少女はにっこりと微笑み、手招きする。

(コノ娘、巫女カ……)

 食えばさぞ甘美な味がするのだろう。だけど、今の雪珠にその力はない。

 もはや動く力もないと目を閉じる。

 少女は首を傾げると自分から近寄って行った。

「ごめんなさい、そんなに弱っていたなんて気付かなくて……。ちょっと待ってね」

 少女は小さく祝詞を唱える。暖かな霊力が、雪珠を包んで傷を癒す。

「真っ白な狐さん。ふわふわで可愛い……」

 血で汚れていただろう身体は本来の色を取り戻す。それを見た少女はキラキラと目を輝かせた。

「落神って、真っ黒いのしかいないと思ってたけど、あなたはとてもきれいね。ふふ、あったかぁい」

 まるで愛玩動物のように抱きかかえられるが、不思議と嫌だとは思わなかった。

「あなた、元はとても格の高い神様だったのね。魂の色、今は濁っているけどとても綺麗な形してる」

『我ガ恐ロシクハ無イノカ?』

 少女はきょとりと目を瞬かせる。

「どうして? こんなに可愛くて綺麗な狐さん、わたし初めて見たもの。落神になったのも、きっと辛い思いをしたからでしょう? だから、怖くないわ」

 すりすりと背中に顔を擦りつけて毛並みを堪能しながら少女は答える。

「あ、でもここにいたら他の巫女に祓われちゃう! どうしよう……」

 今度はおろおろと周りを見渡すが、今のところ誰もいない。

「早く逃げたほうがいいわ。あ、でもまだ力が出ないかしら? うーん、うーん……」

 少女は小さな頭を捻りながら妙案が無いかと考える。

「はっ! そうだ。あなた、わたしの眷属にならない?」

『ハ?』

「落神でも巫女なら使役できるって聞いたことあるもの! そうすれば、あなた祓われなくていいし、元気になったら好きなところに行けばいいのよ!」

 なんともおかしなことを言う娘だと思った。

 確かに、落神を使役する術者はいるだろう。だが、巫女と落神は相いれない存在だ。

『オ前ハ、我ガ元ノ力ヲ取リ戻セバ食ワレルノカモシレナイノダゾ』

「……わたしを食べたいの?」

 恐怖でもなんでもない、純粋な疑問だった。

「うーん、痛いのは嫌だけど、あなたがそうしたいならいいわ」

『ナッ……!』

「だって、わたし……」

 俯く少女は何処か泣きそうな表情をしていた。

 少女が何かを言う前に、近くに人間の気配があった。

「巫女姫様ー!」

 少女はハッとしたように雪珠を草むらに隠す。

「はぁい。ここにいるわ」

「まったく、探しましたよ」

 少女を探しに来たのは、少女よりいくらか年上の少女だった。

「ごめんなさい、落神の気配を感じたのだけれど、逃げちゃったみたいで……」

「まぁ、そうだったんですか?」

 すぐそばに落神がいるのだが、彼女は気付いていないのか首を傾げている。

「うん、でも結界も無事だったし、もう来ないと思うわ」

「それならいいんですけど。とにかく、早くお戻りください。皆が心配してますよ」

「もうちょっと結界の確認してから戻るわ。探してくれてありがとう」

 少女はにこりと笑うが、探しに来た少女はめんどくさそうに離れていく。

「まったく、なんであたしが罪人の娘の世話なんて……」

 ぶつぶつと文句が言うのが聞こえたが、少女は聞かない振りをする。

 姿が見えなくなってからほぅっとため息を吐く。

「ごめんなさい、いきなりこんなとこに放り出して」

 少女は雪珠を再び抱き上げる。

『行カナクテイイノカ?』

「……そうね、行かないと。皆、心配してる、から……」

 ぽたり、と雪珠の背中に温かな水があたった。見上げれば少女は泣いていた。

 雪珠はどうしていいかわからず、そもそもいまだに動けるほどの力もないのだが、ただ大人しくしていた。

「っ、ごめんなさい。わたし、巫女姫なのに、こんなことで泣いちゃうなんて……」

 少女は袖でごしごしと涙を拭う。

「わたし、揚羽っていうの。あなたお名前は?」

『サテ、モウ忘レタ』

 ”雪珠”という名前はあったが、それは神だった頃の名だ。落神となった今はもう、名など意味がない。

「お名前がないの? あ、でもそうね、格の低い神様はお名前がないと聞いたもの。でも、あなたはそうは見えないし……」

 困った、という顔をする少女――揚羽にこう答える。

『好キニ呼ベバイイ』

「いいの? 本当に眷属になっちゃうわよ?」

『フン、力ヲ取リ戻シタラスグニ貴様ヲ食ッテヤル』

 そっぽを向く雪珠に、揚羽はくすりと笑う。

「うん、いいわ。あなたの力になれたら、わたしも嬉しい。だってわたし――」


 ――いらない子だもの。


 揚羽の呟いた言葉の意味は、この時の雪珠にはわからなかった。

 揚羽はその後、雪珠に”白狐びゃっこ”という名前を付けた。

『安直ダナ』

「え、嫌だった? わたし、誰かに名前を付けるなんて初めてだから……、あなたが呼ばれたい名前があるなら言って?」

 おろおろする揚羽。しかし好きにしろと言った手前嫌だということも出来ない。

『マァイイ。好キニシロ』

「本当にいいの?」

『フン、ハナカラ子供ニ期待ナドシテイナイ』

「そうなの? でも、本当に嫌なら言ってくれないとわたしわからないわ」

『クドイ、食ウゾ』

 がぶりと噛む真似をすれば、揚羽はぽかんとする。

 しかし怯えた様子はない。

「大きな口ね。わたしなんて丸呑みされちゃう」

『ソウダ。オ前ノヨウナ子供ナド、一口ダ』

「それなら痛くないかしら?」

『知ラヌ。眷属ニスルナラサッサトシロ。我ノ気ガ変ワラナイウチニ』

「もう、素直じゃないんだから」

 頬を膨らませる揚羽。だが、その表情はどこか楽しそうだ。

「じゃあ、始めましょう。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」

 白狐の頭に小さな手が添えられる。

 霊力の高い娘だと感じていたが、実際にその力を受けると、想像以上に拘束力が強く驚いた。

「これでよし。巫女姫であるわたしが落神を眷属にしたらいろいろ煩そうだから、少しだけ強めの拘束にしてあるけど、落神の気配は隠れたわ。だから大丈夫だと思うけど、変なところある?」

 魂を鎖で絡めとられているような不快感はあるが、一方で巫女姫の保護もかけられている。

 落神として、人間を殺したい、食らいたいという衝動は限りなく無に抑えられている。

(ナルホド、コレダケ強イ力デアレバソウソウバレルコトハ無イダロウナ)

 巫女姫と呼ばれるだけのことはある。かつての住処にも巫女はいたが、ここまで強い力を持った娘は見たことない。

 この娘の両親もさぞ強い力を持っているのだろう。

『特ニ問題ハナイ』

「良かった。じゃあ、わたしのおうちに案内するわね」

 揚羽は白狐を抱えて屋敷に戻る。

 広い屋敷の中は、どこか静かだった。

「みんなもう帰っちゃったみたいね。わたしが落神の気配があるって言ったからかしら?」

『我ノ気配ニ気ヅイタノデハナイノカ?』

「どうかしら。今、この村にわたしよりも強い霊力を持った巫女はいないはずだけど……」

『揚羽、オ前親ハドウシタ』

 揚羽はどう見ても成人前の娘だ。巫女姫であっても親の庇護下にいていいほど幼い。

「……いないわ。父様も、母様も、一度も会ったこと、ないの」

 揚羽の声は暗く、寂しげで、幼い娘の孤独を垣間見た気がした。

『ソウカ』

「そんなことより、お腹空いたでしょう? わたしもお腹すいちゃった」

 揚羽は慣れた手つきで火を熾し、用意されていた夕食を温め直すと白狐の前にも置く。

「いただきます」

 ひとりで食事する揚羽。いつもの事だと笑っていたが、寂しさそのものは隠しきれていなかった。

 それから日課だという祝詞を祭壇の前で唱え、床に就く。

「ふふふ、白狐はふわふわだからあったかそう」

 横になる揚羽の前で尻尾を振って見せれば目を輝かせて掴もうと手を伸ばしてくる。

 それをひょいと避けると悔しそうにするのが面白くて、その日の晩はその尻尾で遊んでやった。

 翌日、揚羽の禊と修業が終わると、白狐を連れて村を歩いた。

 揚羽が言うには、この村は鳳凰神の加護を受けた村で、現在巫女姫と呼ばれるほど霊力が高い娘は揚羽ひとりだという。

 確かに、村を見て回っても揚羽よりも霊力の高い人間はいなく、格の高い神の加護を受けているという割には平凡な村だった。

 しかし、揚羽と一緒に村を見て回ってわかったこともある。

「ほら、巫女姫様よ」

「今日も守り人探しかしら。村の男どもは皆嫌がるけど……」

「仕方ないわよ、釣り合う霊力の男もいないし、あの兄妹の娘じゃあねえ」

 そんな声がこそこそと聞こえる。

 揚羽も聞こえているだろうが、何も言わない。

(コノ娘ハ、独リ、ナノダナ)

 住処だった村を滅ぼして、独り彷徨った自分と何となく重なった。

 そっと、揚羽の足に頭を擦り付ける。

「慰めてくれるの?」

 揚羽はふっと笑うと小さな声で「ありがとう」と呟いた。

「今日も結界は何もなさそうね。そうしたら、今日のお勤めはもうないから、白狐、一緒に遊びましょう!」

 そう言って揚羽は細身の木の棒を拾うと構える。

『剣ノツモリカ?』

「そうよ。だってカッコいいじゃない! まぁ、巫女としてはお転婆すぎるってお祖父ちゃんに言われちゃったから、本当は良くないんだけど……」

 確かに、巫女――というより年頃の少女が遊ぶものとして選ぶにはいささか物騒だが、揚羽には守り人がいない。なら、自分を守る術が必要だろう。

 白狐は意識を集中させると、大人の男へと姿を変えた。

「わ、キレイ……」

 揚羽は驚いたように白狐を見る。

 銀色の髪に金色の瞳。美しい顔の長身の男の姿。狐の耳と尻尾は仕舞っているのか見当たらない。

「わたし、父様に会ったことないの。わたしが産まれる前に死んじゃったんだって。でも、すごくきれいな人だってみんな言うの」

『父親ガ恋シイノカ?』

「うーん、わかんない。でも、父様がいたらこんな感じなのかしら?」

 白狐は揚羽の父親は知らない。だから幻術で姿を見せることは出来ない。

「ねえ、あなたのこと、”父様”って呼んでもいい?」

『我ハ落神ダゾ』

「うん、知ってる。でも、わたしの眷属ってことは家族だもの。それに、わたしよりもずっと年上で、いろいろ知っていそうだから、いろいろ教えてほしいの」

 にこにこと揚羽は無邪気な目を白狐に向ける。

『好キニシロ』

「ありがとう。ねえ、早速だけど、あなた剣は使える?」

 白狐は頷く。元は神だったから一通りのことは出来るのだ。

 それから、白狐は揚羽に請われるまま様々なことを教えた。

 天気の事や、星の読み方。風の流れ方や言葉の意味、剣術も弓術も教えた。

「ふふふ、やっぱりあなたといると楽しいわ! たくさんの事が分かって、たくさんのことが出来るようになって、わたし、父様と一緒にいると全然寂しくないわ! あなたが本当の父様だったら良かったのに……」

 揚羽の本当の父親は、もうこの世にはいない。

 白狐が村人から聞いた話では、兄妹で契りその罰を受けたのだと。

(クダラナイ。兄妹ナンテ神デモザラニイルトイウノニ。本当ニ、人間トハ愚カダ)

 愛を信じているわけではないが、揚羽が本当に必要としているものを白狐は与えられない。

 それが、なんだか無性に悔しい。

「父様? どうしたの?」

『……イイヤ、何デモナイ』

 いつか、この娘を本当に愛する男が現れて、本当の家族が作れたらいいと、白狐は落神になって、初めて人間を愛おしく思った。

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