蝶子と白狐

序章


「じゃあ、父様、ちゃんと見ていてね!」

『アア。行ッテオイデ』


 舞台袖から、指定位置に立つ蝶子の真上に、スポットライトが当てられる。

 艶やかな赤い髪、吸い込まれるような翡翠色の瞳は勝気な色をたたえて、観客を魅了する。

 重いドレスを軽やかに翻して、楚々として歩けば誰が見ても上流階級の貴族の姫君。

 そこにはいつもの蝶子ではなく、女優として、その世界に生きる一人の男を愛する令嬢としての姿があった。


『わたしはこの国の王妃になる。でも、それはわたしの望みじゃない。わたしはただ、あの方に愛されたかっただけ……』


 幼い頃に両親が取りつけた王太子との婚約。

 王妃になる責務と重圧に耐えながら、憧れの王子様に愛されたくて努力した日々。

 だけど、突如現れた下流貴族の娘に王子は心を奪われる。


『わたしが何もわかっていない? 当然じゃない。だってあの方は、わたしの事なんて一度も見てくれなかった! わたしは、ずっと、ずっとお慕いしていたというのに!』


 嘆き、膝から崩れ落ちる。

 その口からは怨嗟が漏れる。


『悔しい、妬ましい、嫉ましい。羨ましい、嫌い、憎い……。憎い憎い憎い! あの女も王太子も、みんな、皆呪われてしまえ!』


 令嬢の心は負の感情に呑みこまれる。

 その演技は誰もが息を呑むほど、心を締め付けられるような悲嘆の声だった。


『神よ! どうかあの者たちに天罰を! わたしの命なんてどうでもいい、あの二人に、死という名の恐怖と絶望を、我が望みに応えて!!』


 令嬢の叫びと同時に照明が落ち、光と音で稲妻が再現される。

 蝶子の演技と舞台の演出に、観客たちは次の展開を期待に満ちた瞳で見つめる。

 その様子を舞台袖から見ていた白狐は、ふと過去の自分を思い出す。

(――コノ空気ハ、ドコカ懐カシクサエアルナ)

 今となってははるか昔の事だ。

 思い出したところで何とも思わないが、もしあの時蝶子――揚羽と出会えなかったら、いったいどうなっていただろうか。






 それは、はるか昔。今からもう千数百年も前の事。

 神と崇められる天狐の末席に名を連ねていた頃。当時名を”雪珠せつじゅ”といった。

 小さい村の守り神として祀られ、人の姿を模して、そこに住む村の人々と平穏な日々を過ごしていた。

「雪珠様、この間は崖から落ちた孫を助けてくださりありがとうございます」

「雪珠様、今年は豊作でした、ありがとうございます!」

「雪珠様、最近雨があまり降らないようで、どうか水を……」

 村人たちの全部の声を拾えるわけではなかったが、それでも彼らに頼られ、必要とされるのは嬉しかった。

 雪珠は村人を助け、村人は雪珠に供物をささげる。

 どこにでもあるような、神と人間の営みだ。

 だけど、雪珠は万能ではない。村人のすべての声に応えることは、出来ないのだ。

「雪珠様! どうか、妻を助けてください! 先日子が生まれましたが、産後の肥立ちが悪く、日に日に弱っているのです!」

「雪珠様、わしは死にとうありませぬ! 老いたとはいえ、まだ孫の顔も見ずに……。どうか、永遠の命を!」

「雪珠様」

「雪珠様!」

 雪珠が村人の要求を叶えるごとに人間の欲はより業が深くなる。

 雪珠ではどうにもならないことも増えていった。

『すまぬ。命だけは我にはどうにも……』

「っ、この出来損ないが!」

「貴様にいくら貢いだと思っている!」

「所詮狐だもの、化かされているんだわ」

 心無い罵倒、怨嗟、八つ当たり。人々の負の感情の吐き出し口になることは、心が痛かったがそれでも、この頃はまだ雪珠を慕う村人が多く、雪珠は神としての役目を果たせていた。

 しかし、その年は違った。

「ああっ! 川の水が村に!」

「連日の長雨で川が増水して……」

「雪珠様! どうか我が故郷をお救いください!」

 その年の夏は、雨が長く降った。

 雪珠はどうにかして雨を止ませようとしたが、雪珠よりも高位の神が操っているせいか、どんなに雲を晴らしても雨が止むことはなかった。

 そして、恐れていた洪水が起きた。

 大量の水は、村を呑みこんで、辛うじて逃げ延びた人間達を保護しながら、雪珠は山を登った。

 しかし、そこで待っていたのは雪珠への感謝ではなく、呪いの言葉だった。

「この役立たず!」

「村が沈んでしまった、もう帰るところがないわ! どうしてくれるのよ!」

「こんな襤褸っちい祠だけが残りやがって。自分だけ助かろうとしたんだろ!」

 それは違う。この祠を建ててくれた当時の人間達は、雪珠を大切にしてくれた。川に流されないように、いつまでも手を取り合って共存できるようにとここに建ててくれたのだ。

 しかし、この祠が建てられてから百年以上経った今、そんなことを知る人間なんていなかった。

『っ、すまない……』

 どうしていいか、わからなかった。

 人々の怒りを鎮める方法が、雪珠にはわからなかった。

 どんなに人の姿を偽っても、神に等しいとされる天狐の一族の生まれでも、しょせん一匹の狐と言われてしまえば、それだけの存在だった。

「あんたなんか神様でもない! ただの化け物よ!」

「化け狐なんかに食わせるものはねえ、出ていけ!」

 村を救えなかった雪珠に、村人たちは石を投げた。

 その石が、雪珠の頭に当たると、額から血が溢れる。

「ひっ、なんて汚らしい。さっさとどっかにいっちまいな!」


 ――どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 雪珠はただ、平穏に暮らしたかっただけだ。

 神として奢るつもりもなかった。ただ、自分に出来ることをしていただけだった。

 

 ――人間は、身勝手だ。愚かで、かわいそうで、弱い生き物だ。


 昔は、そんな存在が愛おしかった。だからこそ、裏切った人間へ感情は、憎悪に変る。


 ――ああ、ああ。なんて、なんて愚かで馬鹿だったのだろう。憎い、憎い! 人間が、神が、すべてが憎い!!


 信仰を失った雪珠の身体が、徐々に黒い靄で覆われる。


 ――憎い、憎い。呪われてシマエ、絶望スレばいい! オ前たちハソの愚かさユエニ破滅すルノだ!


 雪珠の身体が、黒い靄で全て覆われ、やがて瘴気をその身に纏うようになる。

 狐の顔に、屈強な男の身体。尾は五本の化け狐。

 神だった雪珠はもうそこにはいない。

 そこにいるのは邪心に囚われた憐れな落神だった。


『我ヲ愚弄スル愚カナ人間ドモ。ソレホド言ウノデアレバ呪ウテヤロウ!』


 狐が吠えると、その場一帯には瘴気が満ちた。

「ひっ、化け物!」

「せ、雪珠様が落神に……!」

「逃げろ、祟られるぞ!」

「ぐぁっ、なんだこれ、息が……」

 ばたばたと人が倒れる。瘴気にあてられ、人々は苦しみもがく。

 その瘴気につられ、付近の悪霊や格の低い落神が集まってくる。

「ひぇ、あ、悪霊が、これほどまでに……」

「ど、どうかお助けください、雪珠様!!」

 今まで、雪珠が悪霊や落神から村人を守っていたが、その守りが解かれれば当然こうなる。

 それをわかっていなかった村人たちは、何とも都合がよすぎる言葉を雪珠に向けた。

『今サラモウ遅イ。我ハ落チタ。貴様ラノセイデ、落神トナッタ。モハヤ尽クス謂レハナイ!』

 雪珠だった落神がもう一度吠える。

『サァ、同胞タチヨ。コノ愚カナ人間ドモニ復讐ヲ!』

 集まってきていた悪霊や落神が、その言葉で村人たちを一斉に襲った。

 その後の有様は凄惨だった。

 あちこちから悲鳴があがり、男も女も老人も子供も関係なく、食い荒らされていく。

 雪珠だった落神は、その様子を冷めた目で嘲笑した。

 すべてが終わると、残った落神の胸には虚しいという感情だけがあった。

 あまりにも呆気ない人間の末路。

 もはや気に掛ける価値もないと、雪珠はかつての自分の住処を後にした。

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