第23話 赤い薔薇の謎 3
次の日の朝、ラトクリフ邸はまだ眠りから覚めきっていなかった。冷たい朝霧が庭を包み込み、昨日の夜の出来事がまるで幻だったかのように静けさが戻っていた。しかし、その静けさの中に、ラトクリフ家に渦巻く不安と罪の意識がはっきりと感じられた。
ホームズは、邸宅の広間で落ち着いて新聞に目を通していたが、その鋭い目はページの文字よりも、目の前に起こるであろうフィリップ・ラトクリフの告白を待ち構えているかのようだった。ワトソンは、彼の隣でコーヒーカップを片手に、不安げに玄関ホールを見つめていた。
「彼が話す準備ができるかどうか、それが問題だな、ホームズ。」
ワトソンは口を開いた。
「彼が逃げられる場所などない。真実は、いつもその人間の心の内に存在し、いくら隠そうとしても、必ず表に出てくるものだ。」
ホームズは冷静に答え、パイプに火をつけた。
しばらくして、フィリップ・ラトクリフが静かに広間へと入ってきた。彼の顔には深い疲れが刻まれ、その目は憔悴していた。昨夜の出来事が、彼に何か重大な決断を迫らせたのは明らかだった。彼は一瞬、立ち止まり、重く溜息をついた後、意を決したようにホームズの前の椅子に腰を下ろした。
「ホームズさん、私は…もう逃げられない。過去の亡霊が、今になって私を追い詰めているのだ。」
フィリップは低い声で言った。その声には後悔と恐怖が滲み出ていた。
ホームズはフィリップの目を鋭く見つめた。
「では、すべてを話してください。昨夜の老女が言ったことが本当ならば、あなたには重い秘密がある。それが赤い薔薇の謎を解く鍵だ。」
フィリップはしばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「彼女は…ルイーズ・ウォレンの母親です。私が若い頃、ルイーズと愛し合っていたのは事実です。しかし、その愛は…私の不誠実さが原因で破綻してしまった。私は彼女に結婚を約束しましたが、結局それを果たすことはありませんでした。」
フィリップの顔に苦悩の色が浮かんだ。彼の言葉はまるで自分自身に鞭を打つかのように、断片的に吐き出されていった。
「ルイーズは私に全てを捧げました。彼女は私を心から信じ、私たちの未来を夢見ていました。ですが、私は…あまりにも若く、責任を取る覚悟ができていなかった。私は彼女を裏切り、他の女性との結婚を選んだのです。」
ワトソンはその話を聞きながら、胸の中にわずかな怒りが湧き上がるのを感じていた。彼はフィリップがルイーズを裏切ったことを非難せずにはいられなかったが、ホームズは依然として冷静だった。
「ルイーズはその後、どうなったのですか?」
ホームズは感情を挟まずに尋ねた。
フィリップは顔を覆い、しばらくの間沈黙していたが、やがて再び話し始めた。
「彼女は…絶望の末に命を絶ちました。私はそれを知ったとき、恐怖と罪悪感に苛まれましたが、それでも私は自分の行いを正当化しようとしました。結婚後、私は彼女の死を忘れることに努めましたが、それは不可能でした。彼女の母親は私を憎み、復讐を誓ったのです。私が今、毎晩赤い薔薇を見せられるのは、その罪の報いなのです。」
フィリップの言葉には深い後悔が込められていた。彼の目には涙が浮かび、震える声で続けた。
「私は彼女に、そして彼女の家族に、償うべきだとわかっています。だが、私はどうすればいいのか、もうわからないのです。赤い薔薇は、私に自らの罪を突きつけている。しかし、私はそれに向き合う勇気を持てないでいるのです。」
ワトソンはその話を聞き、心の中でフィリップに対して複雑な感情を抱いていた。彼が行った裏切りは確かに許されるべきものではなかったが、今こうして彼が過去に向き合おうとしている姿に、同情の念もわずかに芽生えていた。
ホームズは一瞬、パイプを口から外し、深く吸い込んでから言葉を発した。
「あなたは過去を避け続けたことで、今こうして追い詰められた。しかし、赤い薔薇はあなたに再びその過去と向き合うよう促している。そして、ルイーズの母親が何を求めているのか、それは明白だ。彼女はあなたに償いを求めている。」
「償い…?」
フィリップは顔を上げ、戸惑いながら言った。
「そうだ、フィリップ。ルイーズの母親は復讐心に囚われているが、それだけが目的ではない。彼女は娘を失った悲しみと共に、あなたに罪を認め、真摯に向き合ってほしいと望んでいるのだ。」
ホームズは静かに語りかけた。
その言葉に、フィリップは一瞬息を飲んだ。そして彼の肩は落ち、まるで長年抱えてきた重荷がその言葉によって解放されるかのように、深い溜息をついた。
「ホームズさん、私はどうすればいいのだろう?彼女に謝罪し、すべてを償うことができるのだろうか?」
フィリップは震える声で尋ねた。
ホームズはしばらくの間、フィリップの目を見つめた後、静かに答えた。
「過去を変えることはできない。だが、あなたが真実と向き合い、誠実に償おうとする姿勢を見せることで、少なくともその重荷を軽くすることはできるだろう。あなたは彼女に、そして自分自身に対しても、もう一度向き合わなければならない。」
フィリップはその言葉を深く胸に刻み込み、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。私は、彼女の母親に会い、すべてを話すことにします。私が彼女に何をしたのか、そしてどれほどの後悔を抱えているのかを…」
ホームズは再びパイプに火を灯し、冷静な表情で頷いた。
「それが最初の一歩です、フィリップ。」
ワトソンはこの瞬間、ホームズが単に謎を解く探偵ではなく、人間の感情と罪を理解し、その解決に導く役割をも果たしていることを改めて感じた。事件は単なる復讐の物語ではなく、過去に向き合う勇気と、それによって救済がもたらされる物語へと展開していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます