第22話 赤い薔薇の謎 3

その晩、ラトクリフ邸は冷たい霧に包まれ、薄暗い月がその光をわずかに地面に落としていた。シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンは、ラトクリフ家の広々とした玄関ホールで黙って待機していた。家全体が不気味なほど静まり返り、まるで誰も息をしていないかのようだった。唯一聞こえるのは、古びた時計の規則的な針の音だけだった。


「今夜こそ、その薔薇を置く人物の正体を突き止める。」

ホームズは低くつぶやいた。彼の目は鋭く、暗闇の中でも一点に集中している。パイプを咥え、落ち着いた表情だが、その瞳には鋭い探偵の洞察力が宿っていた。


「まるで幽霊でも待ち構えているかのようだな、ホームズ。」

ワトソンは緊張感を和らげようと冗談めかして言ったが、内心はひどく張り詰めていた。


「幽霊ではなく、人間の手によるものだ、ワトソン。だが、その手が何を象徴し、何を伝えようとしているのかが問題だ。」

ホームズは一瞬だけワトソンに視線を送った。


彼らが待っていると、邸内の空気が変わったように感じた。まるで何かが動いたかのような、しかし決して音を立てない微妙な変化だった。ワトソンは背筋を伸ばし、玄関扉の方に目を向けた。


「何か来る…」

ホームズが低くささやいた瞬間だった。


彼らが待っていた玄関の外で、かすかな足音が聞こえた。普通の人間なら聞き逃してしまうような音だったが、ホームズの敏感な耳はその異変をすぐに捉えた。足音は非常に軽く、慎重に地面を踏みしめるように響いた。そして、音が一瞬止まると、次に聞こえたのは、何かが静かに置かれるかすかな音だった。


「来たな。」

ホームズは無言のまま、手の合図でワトソンを玄関の方へ促した。


彼らは素早く、しかし音を立てずに玄関に向かって身を潜めた。外には、霧に包まれた夜空が広がっており、その中にぼんやりと浮かび上がる人影があった。年老いた女性が一人、赤い薔薇をそっと玄関の階段に置き、顔を上げた。その顔は、深い皺に覆われた悲しげな表情であり、目には決意と憎しみが同居しているように見えた。


「見えるか?彼女だ。」

ホームズは声を低くし、そっとワトソンに指示を与えた。


「誰なんだ、この老女は?」

ワトソンは小声で尋ねた。


「それをこれから確かめる。」

ホームズは慎重に玄関のドアを開け、外に出た。足音を忍ばせ、老女の背後に接近しようとしたが、彼女はまるで気配を察したかのように振り向いた。


老女の顔には、驚きよりもむしろ覚悟のようなものが浮かんでいた。彼女の目はホームズを見つめ、その瞳の中には長年の苦しみが刻まれているようだった。


「あなたが、この家に薔薇を置いていたのですね。」

ホームズは静かに言った。


老女は一瞬だけ躊躇したが、やがて細い声で答えた。

「そうだ、私が毎晩ここに薔薇を置いている。私が、ラトクリフに彼の罪を思い出させるために…」


その声はかすれていたが、冷たい決意が込められていた。彼女の姿は、ただの貧しい老女ではなく、長い間復讐心に囚われ続けた人物のように見えた。


「あなたの名前は?」

ホームズは一歩前に進み、彼女に問いかけた。


「私の名は必要ない。だが、私の娘の名はルイーズ・ウォレン。彼女はあの男に裏切られ、命を落とした。それ以来、私は彼にその罪を忘れさせないためにここに来ている。彼が何をしたのか、彼自身が理解するまで…」

老女の声は震えていたが、その言葉には激しい怒りが込められていた。


ワトソンはその場に立ち尽くし、老女の話に驚愕していた。フィリップ・ラトクリフの過去に、そんな悲劇が潜んでいたとは、予想もしなかったのだ。


「では、この薔薇は復讐の象徴というわけですか。」

ホームズは静かに問いかけた。


老女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

「復讐などではない。ただ、彼に自らの罪を償わせたいだけだ。私の娘が感じた痛みを、彼もまた感じるべきだと。それが、私が生きている理由だ。」


ホームズはしばらくの間、沈黙したまま老女を見つめていた。彼は彼女の背負う苦しみと、長年の復讐心が絡み合っていることを感じ取っていた。


「あなたの娘の死について、フィリップ・ラトクリフが果たして本当にどれほどの罪を背負っているのか、真実を明らかにする必要があります。ですが、今は、あなたの心の平穏を取り戻すためにも、全貌を探りましょう。」

ホームズは穏やかに言ったが、その言葉には鋭い確信が含まれていた。


老女はしばらく黙っていたが、やがて悲しげに頷いた。

「彼が何をしたのか、すべてを明らかにしてください。私はただ、それを知りたいだけです。」


ホームズは彼女の言葉を受け、最後に軽く頷くと、老女を見送りながら玄関に戻った。彼女の背中は霧の中に消えていき、やがて闇の中へと溶け込んだ。


「ホームズ、彼女は復讐に取り憑かれている。それだけが彼女をここに毎晩呼び寄せていたのだろう。」

ワトソンは深いため息をつきながら、静かに言った。


「そうだ、ワトソン。だが、復讐の裏には必ず真実が隠れている。彼女の娘、ルイーズの死にフィリップ・ラトクリフがどのように関わっていたのか、それが我々の次なる課題だ。」

ホームズは再び冷静な顔つきに戻り、玄関ホールに戻った。


「この事件は、単なる復讐劇では終わらないだろう。過去に埋もれた真実が、徐々に明るみに出るだろう。今夜の出来事は、その入り口に過ぎない。」

ホームズの声には、事件の本質に迫る探偵としての鋭さが込められていた。

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