第7話 霧の中の声 7

ロンドンの霧は今夜、街全体を包み込んでいた。テムズ川の冷たい水面がかすかに波立ち、その上に立ち込める霧は、まるで白い壁のように視界を遮っていた。シャーロック・ホームズは、深い思索に沈みながら、慎重に歩を進めていた。ワトソンは、少し後ろを歩きながら、今夜起きた出来事を頭の中で整理しようとしていた。


「ホームズ、今夜の出来事はどうも理解しにくい。アデリーヌの消失、彼女を追ってきた謎の男、そして…このバルドレッド家の名前。全てが霧に包まれたままだ。」

ワトソンは、ため息をつきながら言った。


ホームズは、まるでワトソンの言葉が聞こえていないかのように、じっと前方を見据えながら歩き続けていた。その足取りには、何か確信めいたものがあり、ワトソンは自然と黙り込んだ。ホームズがこういう時、答えは既に彼の頭の中にあるのだ。


やがて、二人は大きな屋敷の前にたどり着いた。白い大理石の柱と、重厚な木製の扉が、その威厳ある外観を誇示していた。ホームズは立ち止まり、目を細めて屋敷をじっと見つめた。


「ここだ、ワトソン。バルドレッド家の旧邸だ。」

ホームズの低い声が、夜の静寂を破った。


「ここが…?だが、この屋敷は長い間無人だったと聞いている。」

ワトソンは驚いた様子で屋敷を見上げた。


「表向きはな。だが、表向きの情報が常に真実とは限らない。バルドレッド家は、貴族社会から姿を消したかもしれないが、その影響力は今も残っている。そして、この屋敷がその中心だ。」

ホームズは扉に手をかけ、そっと開いた。


扉はわずかな音を立てて開き、二人は静かに屋敷の中へと足を踏み入れた。中はひどく暗く、霧が入り込んだかのように白く薄暗かった。古い家具が埃をかぶり、どこかから微かな風が吹き込んでいるようだった。


「まるで霧そのものがこの屋敷を支配しているようだな。」

ワトソンは、周囲を見回しながら言った。


「霧はただの隠れ蓑だ、ワトソン。今夜の霧は、人々の目を欺くために使われている。そして、我々がここに来たことを知っている者がいる。」

ホームズは、慎重に部屋の奥へと進みながら言った。


彼らが廊下を進むと、どこか遠くで足音が響いた。ホームズはその音に反応して、すぐに立ち止まった。ワトソンもそれに気づき、身構えた。


「誰かがいる…!」

ワトソンが声をひそめて言った。


「静かに、ワトソン。」

ホームズは冷静に指示し、足音の方向に向かって歩き出した。


屋敷の奥へと進むにつれ、足音は次第に大きくなり、やがて誰かが階段を上っていることがわかった。ホームズは、音を頼りに慎重に階段を登り始めた。階段は古びており、一歩一歩が軋む音を立てている。


二人が2階にたどり着いたとき、再び足音が途切れた。ホームズは廊下をじっと見つめ、何かを考え込んでいるようだった。


「奇妙だな…音は確かにこの階に来たはずだ。だが、誰の姿も見えない。」

ワトソンが疑問を口にすると、ホームズは目を細めて応えた。


「まさにそれが、相手の狙いだ。バルドレッド家は、ただ影の中に隠れるだけではない。彼らは、影を操り、我々を試している。だが、影の中にいる者も必ず足跡を残すものだ。」

ホームズは、廊下の端にある扉に目を向けた。


「この扉の向こうに何があるか、見てみよう。」

ホームズは、慎重に扉を押し開けた。


部屋の中はさらに暗く、古いカーテンが窓を覆い、ほとんど光が差し込んでいなかった。だが、その中央には、一つの机が置かれており、その上には一枚の紙切れが置かれていた。


ホームズはゆっくりと紙に近づき、それを拾い上げた。ワトソンも彼の後ろから覗き込むようにして、紙の内容を確認した。そこには、短い言葉が一言だけ書かれていた。


**「この霧の向こうに真実がある」**


「どういう意味だ?」

ワトソンは困惑した表情で尋ねた。


ホームズはその紙をじっと見つめ、深く考え込んだ。そして、ふと顔を上げ、再び廊下の方に目を向けた。

「ワトソン、我々はすぐにここを離れる必要がある。相手は既に我々を誘い込んでいる。」


「何を言っている?今の紙が手掛かりではないのか?」

ワトソンは驚いて聞き返したが、ホームズは首を振った。


「これはただの煙幕だ。この紙に書かれていることは、我々を混乱させるためのものだ。だが、ここに来たことで一つの確信が得られた。」

ホームズは、静かに言いながら部屋を出ていった。


「何がわかったんだ?」

ワトソンは急いで彼の後を追いながら尋ねた。


「バルドレッド家は、この霧の中で動いている。そして彼らが操っているのは、単に人々の目を欺くだけではない。我々は、彼らの罠にかかる前に、一歩先を行かねばならん。」

ホームズの声には、いつもの冷静さの中に鋭い決意が感じられた。


二人は、再び霧の中へと戻っていった。ロンドンの夜は静かに、しかし何か大きな謎が動き始めているような感覚を、ワトソンは肌で感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る