第6話 霧の中の声 6
ロンドンの霧は、ますます深く、冷たくなっていた。まるで街そのものが、暗闇と白い霧に包まれ、息を潜めているかのようだった。ガス灯の光はもはや頼りなく、通りを歩く者たちは誰が隣にいるのかさえわからない。シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンは、アデリーヌ・ルヴァンの後を慎重に追っていた。
ホームズは常に一歩先を見据えているように、霧の向こうを鋭く見つめていた。ワトソンは、その後ろから少し距離を置き、拳銃を手にしながら警戒を怠らない。
「ホームズ、彼女の言うことは信用できるのか?」
ワトソンは、ホームズに尋ねた。彼の声は霧の中に吸い込まれるように低く響いた。
ホームズは、返事をせず、目を細めたまま歩き続けた。彼の長いコートが、夜風にわずかに揺れている。ワトソンはホームズが何かに集中していると知っていたので、それ以上の質問は控えた。やがて、アデリーヌが小さな脇道に入って行くのが見えた。
「ここだ、ワトソン。注意を怠るな。」
ホームズは小声でささやくように言うと、彼もその狭い路地へと足を踏み入れた。
路地は、まるで暗い迷路のようだった。左右にそびえる古い建物は影を落とし、ガス灯の光も届かない。アデリーヌの姿は完全に霧の中に溶け込み、どこにいるのかすらわからない。
「奇妙だ…」
ホームズは立ち止まり、辺りを見回した。ワトソンは、少し焦りながら彼に近づいた。
「どうした、ホームズ?彼女の姿が見えない。」
ワトソンは声をひそめて尋ねた。
ホームズは答えず、代わりに路面をじっと見つめた。彼の視線は、濡れた石畳に残されたわずかな足跡に向かっていた。その足跡は、つい先ほどアデリーヌが歩いたものだろう。しかし、その先が急に途切れている。
「足跡が消えた…まるで彼女がこの霧の中に消え去ったようだ。」
ホームズは静かに言った。彼の声には、どこか冷たい鋭さがあった。
ワトソンは周囲を見渡したが、霧がさらに濃くなり、何も見えなくなっていた。まるで街そのものが、ホームズとワトソンを閉じ込めるかのようだった。
「ホームズ、彼女はどこへ行ったんだ?」
ワトソンは、焦りを抑えきれずに聞いた。
ホームズはしばらく無言だったが、やがて静かに答えた。
「彼女は、ここに来るように仕向けた…何者かに。」
その瞬間、霧の中から再び足音が響き始めた。それは、さっきとは違う、明らかに別の存在だった。足音は二人の背後から近づいてくる。ホームズはすぐに鋭い声で命じた。
「ワトソン、構えろ!」
ワトソンは素早く拳銃を取り出し、霧の向こうに向けた。足音はますます大きくなり、誰かが彼らに近づいていることがはっきりとわかった。しかし、その姿は見えない。
ホームズは冷静さを保ちながら、その場に立ち止まっていた。彼は、その足音のリズムや歩き方から相手の性格を瞬時に分析しているかのようだった。やがて、霧の中から影が現れた。背が高く、黒いコートをまとった男だ。
「動くな!」
ワトソンが叫んだ。
しかし、その男は立ち止まることなく、ゆっくりと彼らに近づいてくる。ホームズは、一歩前に出て、その男に冷静な声で話しかけた。
「誰かは知らないが、我々に近づく理由があるのだろうな?」
その男は、ホームズの言葉に何の反応も示さず、さらに歩み寄った。次第にその顔が見えてきた。無表情で、冷徹な目をしている。
「君が何者であろうと、我々を尾行するのは得策ではない。今夜のことを我々に話せば、事態が悪化する前に手を引く機会を与えよう。」
ホームズの声には、いつもの冷静さの中に不気味な威厳があった。
男はついに立ち止まり、低い声で答えた。
「あなた方に関係のないことだ、ホームズ。」
「そうか…ならば、話は別だ。」
ホームズは一瞬、目を鋭くし、ワトソンに軽く合図を送った。
その瞬間、男が懐から何かを取り出そうとした。しかし、ワトソンはその動きを見逃さなかった。銃声が、霧の中に響いた。男は驚いたように立ち止まり、次の瞬間には膝から崩れ落ちた。
「くそ…」
ワトソンは、すぐに男の元に駆け寄り、倒れた男を調べた。
「まだ息がある。だが、彼は何かを持っていた。」
ワトソンは、男の懐から取り出したのは、小さな紙切れだった。そこには、ただ一言だけが書かれていた。
「バルドレッド家。」
ワトソンが読み上げると、ホームズは静かに頷いた。
「やはり、奴らが背後にいる。」
ホームズは冷静に言った。
ワトソンが男の脈を確認している間、ホームズは周囲を再び見渡した。霧が彼らを再び包み込み、その中に潜む影を隠している。しかし、ホームズの目はすでに次の手掛かりを追い始めていた。
「ワトソン、これで十分だ。次は、バルドレッド家そのものを追わねばならん。」
ホームズは、再び冷静さを取り戻し、歩き出した。
「だが、ホームズ、彼女は一体…」
ワトソンが言いかけたところで、ホームズが振り返り、静かに言った。
「アデリーヌは我々を試しただけだ。だが、真実にたどり着くには、まだ時間がかかる。我々はその一歩を踏み出したに過ぎない。」
再び霧の中に消えゆくホームズの姿を見つめながら、ワトソンは不安を感じつつも、友人の後に続いた。ロンドンの夜は、さらに深く、冷たくなるばかりだった。
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