第5話 霧の中の声 5

ロンドンの霧は、なおも濃さを増し、街のすべてを呑み込むように漂っていた。夜の冷たい風が背中を押すたびに、ワトソンは思わず襟を立て、歩調を早める。トビアス・フランクリンからの情報は、明らかに新たな局面を告げていた。ホームズは黙ったまま、ただひたすら足を進めるが、その頭の中ではすでにいくつもの仮説と推論が浮かんでは消えているのだろう。


「バルドレッド家…表向きはすでに消えた家系だが、背後に暗躍しているということか。」

ワトソンがため息をつきながらつぶやいた。


ホームズは頷きもせず、視線を前に据えたまま短く答えた。

「その可能性が高い。だが、すべてが繋がるには、まだいくつかの鍵が必要だ。」


「では、次はどこへ向かうんだ?」

ワトソンが尋ねると、ホームズはようやく足を止め、振り返ってワトソンを見た。


「バルドレッド家が関わっているとなると、この事件は単なる殺人ではない。もっと大きなものが動いている。だが、まずは手元の事実を固めるべきだ。ペンダントがバルドレッド家のものであるなら、次に必要なのは、彼らの隠れ家を突き止めることだ。」


ホームズが再び歩き出そうとしたその時、霧の中からかすかな物音が響いた。足音だ。誰かがこちらに近づいているのがわかった。


「待て、ワトソン。今夜の霧は、我々を包むだけではない。別の者も隠している。」

ホームズの声はいつもよりさらに低く、警戒心に満ちていた。


ワトソンは自然と手に拳銃を取ったが、ホームズは片手を上げて制した。

「まだだ、ワトソン。相手が誰かを見極めるまでは、慎重に。」


足音は一瞬止まり、再び響き始めた。霧の中から浮かび上がったのは、背の高い影だった。ゆっくりと近づいてくるその影は、まるでロンドンの霧そのものが形をとったかのようにぼんやりとしている。やがて、その影が完全に姿を現すと、ワトソンは驚きの声をあげそうになった。


「これは…!?」


そこに立っていたのは、一人の小柄な女性だった。彼女は震えながらも毅然とした表情で、ホームズとワトソンに向かって足早に歩み寄ってきた。青白い顔色と、深い闇をたたえた目が、ただならぬ事情を物語っている。


「あなたが…シャーロック・ホームズね?」

女性の声は、まるで力を振り絞るかのように震えていた。


ホームズは冷静に彼女を見つめ、短く頷いた。

「そうだ。何か私に用があるのか?」


彼女はホームズの質問に答える前に、周囲を警戒するように見渡した。誰かに追われているかのようなその様子に、ワトソンも一瞬緊張を強めた。


「ここでは話せません。ついてきてください。」

彼女は急いでそう言うと、すぐに背を向け、霧の中に消えていこうとする。ワトソンは驚いて一歩踏み出そうとしたが、ホームズはその場にじっと立っていた。


「待ちなさい。」

ホームズの鋭い声が彼女を止めた。

「あなたの名前も、状況も知らずに、ついていく理由があると思うか?」


女性は一瞬立ち止まり、そしてため息のように小さく呟いた。

「アデリーヌ・ルヴァン…テムズ川で死んだのは、私の妹です。」


その言葉がホームズの目を鋭くした。彼女の妹こそ、先ほどホームズとワトソンがテムズ川で見つけた若い女性だったのだ。彼はその事実を把握すると、すぐに冷静に状況を把握した。


「そうか。では、話を聞こう。ただし、こちらも慎重に動く。あなたは我々を試しているのかもしれないし、逆にあなたが何者かに追われているのかもしれないからな。」

ホームズは静かに言いながら、女性に再び歩み寄った。


アデリーヌは少し戸惑いを見せたが、やがて決心したようにホームズに向き直った。

「分かりました。妹は、何かに怯えていました。ここ数週間、誰かにつけられていると何度も話していました。そして、今日の夜…彼女はテムズ川に消えました。」


「何か具体的な脅迫を受けていたのか?」

ホームズの質問は、いつも通り鋭く的を射ていた。


アデリーヌは首を振った。

「それがわからないのです。ただ、彼女が持っていたこのペンダントが…何かの手掛かりになると信じています。」


「ペンダントについて何か知っているのか?」

ホームズが問いかけると、彼女は涙ぐみながら小さく首を横に振った。


「いいえ。ただ…そのペンダントは、妹が亡くなる直前に誰かから贈られたものだと話していました。それが誰なのかは教えてくれませんでした。」


ホームズはその言葉を聞くと、一瞬黙り込んだ。そして、再びアデリーヌを見据え、冷静に言った。

「あなたの妹は、危険な何かに巻き込まれていた可能性がある。私たちは、その真相を暴こうとしている。だが、あなた自身も危険だ。今夜、あなたを助けるために我々は動く。」


彼女はわずかに震えながらも、感謝の表情を浮かべた。

「ありがとうございます…ホームズさん。」


ホームズは軽く頷き、ワトソンに目をやった。

「さあ、ワトソン。これで次の手掛かりが揃った。アデリーヌ、案内してくれ。我々もすぐに行く。」


アデリーヌは静かに頷き、再び霧の中へと消えていく。ホームズとワトソンもその後を追い、ロンドンの夜の中に歩みを進めていった。

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