第一章 ヴェリスの金融商人 その①
国内最大の商業都市として知られるヴェリスは、ロングブーツのような形をしたこの国――イカリヤ王国にあって国土の北東部に位置し、街の東側から南側にかけては、その美しさから『真珠の海』とも称されるドドリア海に面する。
【ドドリア海の女王】とは、そんなヴェリスに付けられた異称であり、事実、国内随一の商業都市を彩る華やかさや闊達さは陸路からではなく、ほぼすべて海路からもたらされる。国内外からの交易船、人間、物産などがドドリア海を通じて入ってくるからだ。
そのヴェリスに幾つかある海港の内、一番北側に位置する小さな港にラモンを乗せた船が着いたのは、その日の
客船とは名ばかりの、物資や鳥獣などが「乗客」の八割を占める「人が乗るってレベルじゃねーぞ!(18歳・乗客)」での数日に渡る船旅は、若いとはいえラモンの心身を疲弊させるのに十分であったが、それも港に降り立つまでのことだった。
港を埋め尽くす数多の船舶と、そこで働く大勢の人間が生み出す喧噪や熱気を肌で感じた瞬間、船旅の疲れなど一瞬で吹き飛んでしまった。
「これがヴェリスか。さすがに賑やかだなあ!」
すっかり元気を取り戻したラモンは意気揚々と港を出て、そのまま市街地に向かったのだが、それがまた新たな感動と驚きをラモンに与えた。特にラモンが驚いたのは、街中の路面という路面がすべて石畳造りで舗装されていることだ。
馬車や貨車が行き交う大通りはもちろん、人が歩く歩道もである。平たく加工された石材が隙間無く敷きつめられて整備され、馬車が頻繁に行き交っても土が跳ねるようなこともなければ、砂埃すら舞い立つこともない。
土、砂、泥がむき出しになっていて、雨が降った日などはくるぶしの上くらいまで泥濘んで、とても歩けたものでない故郷の村道とは天地の差だ。
むろん驚いたのは街路だけはない。街の景観の主役とも言うべき建物群も然りである。
花崗岩、大理石、赤レンガ材など、様々な種類の石材で建造された複数階層の建物が、通りや歩道沿いにひしめくように建ち並んでいる。それは視線のはるか先まで続いており、果てがないものとさえ感じられた。
街中を往来する数多のヴェリス市民の群にくわえ、初秋の柔らかな陽射しにも煽られ、街の至る所が圧倒されそうな熱気に満ちている。
そんな街中の歩道を歩きながらラモンは、その喧騒に包まれた街並を半ば恍惚とした態で眺めていたのだが、
「おっと、いけね。のんびり眺めている場合じゃないや」
ヴェリス来訪の目的が観光などではなく、立身を図るための「就活」にあることを思い出したラモンは、さっそくロベルトが働いているという《シャイロック商会》に向かうことにした。しかし――。
「それにしても、ここはヴェリスの何処なんだろう?」
ロベルトからの手紙に記載されていたこともあって、屋号と住所は知っているのだが、現在自分が街のどの辺にいるのかわからないのでは、住所を知っていてもほとんど意味のないことにラモンはようやく気づいた。
とりあえず警吏隊の駐在所でも探して、そこで聞くか。そう考えたラモンは大通りを横切るべく歩道から出たのだが、ここで田舎にいた時の「クセ」がつい出てしまった。ろくに周囲を確認せずに、歩道からひょいと飛び出してしまったのだ。
人の往来がまばらな故郷の村道であれば、いきなり道の外に飛び出そうがはみ出そうが何の問題も危険も無い。せいぜい道端に排泄された馬糞や牛糞を踏みつけるくらいである。
しかし人の往来が激しいヴェリスではそうはいかない。
案の定、周りを見ることなくひょいと跳びだした次の瞬間、通りを走ってきた一台の荷馬車にラモンは危うく轢かれそうになったのだ。
「危ない!」
という人の叫び声と馬のいななく声とで、ようやく荷馬車の存在に気づいたラモンは、その声が聞こえてきた方向に慌てて顔を向けた。
そこに見たのは一頭立ての簡素な造りの荷馬車と、その手綱を握って馬を御している一人の若い男の姿だった。
二十代半ばと思える青年で、まるである種の宝石を溶かして染めあげたような、光沢のある赤毛が印象的である。
とっさのことにラモンが呆然とその場に立ち尽くしていると、ようやく馬を落ち着かせた馭者の青年が、怒気を露わにした一語をラモンに投げつけてきた。
「おい、君。いきなり飛び出してきたら危ないじゃないか。あやうく轢くところだったぞ!」
「す、すみません。つい……」
と、叱責されたラモンは恐縮した態で何度も頭を下げたのだが、そのラモンを見やる青年の表情が微妙な変化を見せたのは直後のことである。
「その訛りのある
「……オノボリさん?」
意味がわからず、困惑したように目をパチクリさせるラモンに、赤毛の青年が微笑する。
「そう。この街では国都ロマーナ以外の地方都市からやってきた人間を上都者と言うのさ」
「そ、そうですか……あ、はい。南部のギランという村からやってきました」
「やはり南部の人か……いや、南部出身の知人と訛りの語調が一緒なので、そうじゃないかと思ったんだ」
「訛りですか……」
訛っていると言われても、ラモン自身にはまるで自覚がない。
それも当然で、故郷の村で交わされている語調こそ、村から出たことのないラモンにとっては「標準語」なのだから。
「とにかく道を渡るときは、周囲をよく確認してからにしなさい。見てのとおり往来が激しいし、人と違って馬車や貨車は急に止まれないのだからね」
優しく諭すようにそう言うと、馭者の青年は別の質問を口にした。
「それで、ヴェリスには観光にでも来たのかい?」
「いえ、仕事を紹介してもらうために、この街に住んでいる知人を訪ねてきました。《シャイロック商会》というお店で働いているらしいのですが」
「なに、シャイロック商会だって?」
一瞬、赤毛の青年は驚いたように目を軽く見張り、ラモンの顔を見つめた。そして訊ねる。
「立ち入ったことを聞くけど、君の知人の名前は?」
「ロベルトと言います。同じギラン村の出身です」
「やはり彼のことか……」
という青年の声は蚊の羽音並に小さく低かったので、ラモンの耳には届かなかった。
青年の方もそれ以上何も口に出すことなく、無言のままそれまでとは異なる目色でラモンをまじまじと見やるだけである。
「あの、何か……?」
不審の響きを含んだ声をラモンに向けられた青年は、微笑まじりに首を振り、
「いや、なんでもない。それよりも、よかったら私の荷馬車に乗りなさい。シャイロック商会まで乗せていってやるよ。場所を知っているからね」
「えっ、本当ですか?」
驚くラモンに、赤毛の青年は温雅な笑みで応え、
「ああ、帰路の途上にあるからね。遠慮しなくていい。荷物は後ろの荷車に載せなさい」
「は、はい、ありがとうございます!」
やったあ、こりゃツイてるぜ! と、思いがけない幸運に喜び勇んだラモンは躍るような動きでその場から駆けだし、荷馬車にわずかな手荷物を載せると素早い動きで馭者台へと飛び乗った。青年の気が変わらぬうちに、という気持ちがあったかもしれない。
「じゃあ出発するよ」
そう言ってから青年は、軽やかな手綱さばきで馬を走らせた。ラモンが「異変」に気づいたのはそれから程なくしてのことだ。
(なんだ、この荷馬車。ほとんど揺れないじゃん!)
ラモンは内心で驚嘆を禁じ得なかった。
ラモン自身、村にいた頃は家が所有する荷馬車に乗って村の内外を頻繁に行き来していたが、その度にお尻に痛みを覚えていたものである。
今乗っている荷馬車のように、馭者台に革張りの緩衝材など付いていないこともあるだろうが、一番の理由は路面が整備されていることということはラモンにもすぐにわかった。
なにしろ故郷の村道は人や牛馬が通れればいいという感じの、雑木林や雑草帯をただ切り開いて造っただけの代物なので、当然ながら地面の整備など一切されていない。
そのせいでラモンなどは、父や兄が駆る荷馬車に乗っていた際に、地面から突き出した石に車輪がぶつかり、その衝撃と弾みで御者台から吹っ飛んで宙空を舞ったことも一度や二度ではない。
内心でヴェリスの街路地の素晴らしさに感嘆の声を上げていると、そのラモンに馭者の青年がふいに聞いてきた。
「ところで君、名前は?」
「僕はラモンと言います。あなたは?」
「私はカイル。よろしくな、ラモン君」
かくして二人を乗せた荷馬車は市街の大通りを走り進んでいったのだが、その途中、反対側の歩道の一角に建つ奇妙な銅像がラモンの注意を引いた。
それは何かの怪物を象ったものなのであろうか。一見、人間のような身体をしているものの四肢が異常に長く、手足の指も三本しかなく、爪はさながら猛禽類のような鋭い鉤爪をしている。頭部にいたってはもはや人間の片鱗すらなく、完全に「鳥」であった。
カラスにも似た鳥の頭を二つ持つ、見たことのない「鳥頭人体の怪物」の銅像……。
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