第7話  6人のプロジェクトメンバー

 夏休みも半分を過ぎた頃、プロジェクトの6人が集まった。それぞれ昨日まで、塾の夏期講習などで勉強に忙しかったという話で持ちきりだった。部活動を引退してしまってエネルギーを持て余しているメンバーがほとんどだった。リーダーの山口だけは、吹奏楽コンクールのために夏休み中も登校していて、そのたびに職員室を覗きに来ては、私が悪戦苦闘しながらも楽しんでいる姿を見て羨ましがっていた。


教室に入ってくるなり彼は言った。

「先生、完成したんですね。やるじゃないですか」

いつもとは違って声のトーンが高い。

「けっこう良いだろう」

「バッチシですよ。こんなにしっかり出来るとは思ってなかったすよ。本物のガンプラみたいじゃないすか」

ちょっと褒めすぎではあるが悪い気はしない。しかも山口に褒められるとなると本当に良いものなのかも知れないと思ってしまう。

「そうか!」


この子は本当に、何事にも夢中になって取り組む純粋さを持っていた。吹奏楽部での担当のトロンボーンも毎日家に持ち帰り、マウスピースだけで音階を練習したあとで、必ず楽器の手入れをしているという。

学期毎に行われる懇談での母親の悩みは

「勉強もこれくらい夢中になってくれればいいんですけど……」

というのが毎回の定番台詞だ。

「余計なこと言うなよ……」

という本人の反応も毎回のお約束のようになっている。成績だって本当は母親が心配するほどのことはなく、勉強だってやるべきことはしっかりとやっている。二学期の最後に行われる進路相談でも同じような会話で始まるのだろうが、自分の目指す進路はしっかりと見据えている数少ない生徒の一人だった。だからこそ何にでも本気で夢中になれるし、正しくないことに対しては先生に対しても正面から向かっていけるのだ。プロジェクトのリーダーとして、プレゼン発表会を紛糾させたことにも、彼は未だに自分達の正しさを主張して止まないのだ。


「えー、カッコいい!これガンダム?!……ザク?!」

一年生の時に網走から転校してきた中島美南は、まだしっかりと両腕と額に日焼跡を残しているテニス少女だ。

「これやってみたい人いるか?」

そういう問いかけに、どんな時でも必ず手の挙がる子だ。物語を朗読させても、歌を歌わせても、照れることなく完全に「なりきる」ことのできる稀有な存在だ。

中学生は三年生にもなると、自分だけが目立ってしまうことを嫌い、なかなか本気の姿を見せるのをためらうようになってしまう。それはきっと、そうすることが大人になることだと互いに思い込んでしまう傾向にあるからなのだ。そして、恥ずかしさやかっこ悪さを敏感に感じ、相手の反応を必要以上に気にするようになるからなのだろう。


真面目にやることをカッコ悪いと感じたり、馬鹿らしく思ったり、本気になることに恥ずかしさを感じるようになる。「そんな『アホ』なことするなよ」と担任である私はいつも強く叱責するのだが、思春期とはそういうものらしい。だが、それは集団の意識のあり方で変えられる。本気であることを絶賛し、真面目に取り組み続けることをしっかりと評価してやれば良い。周りが冷やかしたり、嫉妬したり妬んだり、という雰囲気で固められてしまうとなかなか立て直すのは難しい。だから、何につけても本気の取り組みだけをほめちぎり、真面目な取り組みは最大限に評価し続ける。そんな、我々大人たちの対応の仕方が必ず伝わるものだと思っている。そして、中島美南のように、しっかりとそのことを体現している生徒の仲間を増やしてやることが大切なのだ。彼女が孤立してしまうと、本気も真面目も陰に隠れてしまうからだ。


彼女は部活のテニスでもかなり有望な選手で、市内でも名前が挙がることが多かったらしいが、中体連では不運が重なり全道大会への出場を逃してしまった。それでも、今までと同じように人よりたくさん努力することを楽しいと感じられる限り、彼女のテニスの腕は上がっていくだろう。その考えは、スポーツ選手には絶対に欠かせないことだからだ。「苦しい練習に耐えて……」という思いが強さを引き出すと言われることが少なくない。それも確かなことだろう。でも、ほんとに強くなる選手は、苦しさよりも楽しさを感じられる人なのだ。


「こんな小っちゃいの?」

「出来てるー……」

そう言いながらジャージ姿で入ってきたのは、バレー部のセッターをしていた山本美幸とリベロの福地真奈美。口数は少ないが、言いにくいことでも最後にズバッと言ってしまえる山本は、クラスのアネゴ的な存在だ。

「バッカじゃない!」

そういう一言でやんちゃな男の子にも一目置かせる存在だ。同じように言ったところで他の女の子ではそうはいかない。男の子がそういってしまうと、当然けんかになる。だからクラスにとって彼女の存在はとても大きいのだ。


そして、いつも彼女の後ろから付いて来る福地の方は、下働きや裏方が大好きな小さな子だ。バレー部でも道具の出し入れや後輩の面倒見を一番多くやっていたという。学級のなかではその小さな体に似合わず存在感は抜群で、班ごとに毎日変わる給食当番でも、彼女だけは毎日手伝うのを特権?として認められている。彼女の指示にはみんな文句を言わないという不文律さえあった。当番活動を嫌う生徒が多い中で、毎日やりたがるのだから誰も文句なんか言いっこない。レシーブを上げることに特化したリベロというポジションの彼女は、どんな時でも誰かの次の行動に結びつく作業を怠らないのだ。たとえ誰に言われることなどなくとも、自分は一心にボールを拾いセッターにボールを上げ続ける。攻撃は一切しない。この三年間、彼女はそんな生活をし続けてきた。それをみんなが知っていた。だから誰も文句など言うはずもなかった。


「オーットー、緑色のザクだー!」

人一倍大きな声で盛りあがってくれたのは、柿崎裕也。男の子には珍しく、読書大好き、文章大好きのちょっと変わった子、と思われている。彼の読書感想文は一風変わった書き出しで、2年連続北海道コンクールで入賞を果たしている。朗読したときの表現力も誰にもまねできない独特の表現力を持っていた。ボツになってしまったステージ発表のシナリオも彼の力作だった。セリフもストーリーもなかなかの作品だと感心させられるものだった。演技指導の中心も彼の役目になっていた。それでも、仲間たちに言わせると「変なヤツ」「オタク」という一言で片付いてしまう。彼のこういう才能というのはどこで花開くものなのだろうか。残念ながら中学校ではその開花を見ることが出来ないままだった。


「ワー、先生、スゴイねー、これ!」

去年まで生徒会副会長をやっていた関口真弓が大きな目をさらに見開いた。

「もっと雑なもんだと思ってた」

と言って、ガンダムを持ち上げて裏側を見ながら、頬を赤らめた。この顔は彼女が乗り気になった時のものだ。彼女は「二次元」大好き少女でもあり、「アニソン」を歌わせると抜群に上手い。

二年生で副会長をやっていたのだから、本来であれば三年生では会長候補となるはずだった。昨年の秋、生徒会本部を降りるときに、担当の先生との考えの違いを二時間以上も泣きながら話し続けた。その頃の彼女は、相手の言葉の一言一言に敏感に反応しては自分で傷ついてしまう女の子だった。感情的にうまく乗れた時とダメな時の差が極端に顔に表れてしまう。


「子供過ぎて駄目だよ!あいつは」

生徒会担当として彼女をうまく使えなかったTは、担任の私にそういって何度も愚痴った。それは愚痴などではなく、自分の手に負えなかったことへの理由付けに多弁だったのだ。そう私は感じていた。

「気分家過ぎて……」

「子供なんだから、みんなそうだろう!」


私には彼の方が子供っぽくて気分家だと思うところもあった。残念ながら、彼とはどうしても意見の合わないことが多くあった。職員会議でやりあうことも多い相手だった。私には、生徒会から離れて学級で働くほうが彼女にとってははるかに良いことに思えた。子供が大人の都合の良い存在になんかならない方がいいのだ。


「生徒が自分たちで考えて進めることですから、見守ってください」

というのが生徒会担当の先生たちの口癖だ。いや、口癖というのではなく、彼らの一番の指導方針らしい。

「生徒が自主的に進めるからこそ価値がある」ということを絶対的なものと考えている。そうやって教師生活を送っている。

はたしてそうだろうか。「自主性」と「責任のありか」とをはき違えた部分もあるように私は感じていた。残念ながらそういうタイプの先生に限って、企画が失敗した時には、「この生徒がだめで……」と責任を転嫁してしまうことも多い。


「違うだろう。任せたあなた方の責任だよ!」

子供たちが自主的に進めるような形を作るためには、教師である我々が万全なおぜん立てをするからこそ成功するのだ。その部分をわからなくてはいけないのだ。中学高校時代に、生徒会長や生徒会の役職を経験してきた教師たちはたくさんいる。しかし、自分たちの取り組みの前に、関係する先生たちがどれだけ準備したのかを気づくことなく生きてきたと思える人たちも多い。成功した結果だけを経験してきたのではないだろうか。自分たちがイメージする成功の形が、どのような準備や裏からの支えで成り立っていたのかを知らなければ、教える側の期待だけが先行してしまって、うまくいかないことが多いのだ。そのうまくいかない原因を、実行している生徒達に求めてしまってはいけない。大人である我々の中に何か足りないものがあったに違いないのだから。計画の不備なのかもしれないし、互いの会話や理解の不足だったのかもしれないのだ。


中学校の先生達は「優秀な生徒」として学生時代を過ごしてきた人たちが多くなった。もちろん、優秀な人材が教育の世界にやって来るのは素晴らしいことだ。だが、残念なことに「優秀じゃなかった」生徒達のことを知らないまま生きてきたのかもしれない。成功ばかりの生活なんてあり得ないことで、むしろ我々の現実の世界には「成功できなかった」事柄の方が多く存在している。生徒達だって、「優秀ではない生徒」の方が多いに決まっている。でも彼らだって、いや彼らこそ失敗を経験し、それをくぐり抜けて乗り越えるすべを知らなくては、これからの人生に結びついていかないのだ。


はたして

「任せられた」

「うまくいかなかった」

「怒られて終わった」

では、どんな成長が見込めるだろう。

「うまくいかなかった」で終わってしまった経験が、次の一歩を諦めさせる結果を作りはしないだろうか。


今までいくつかの学校に勤務してきた中で、うまくいかなかったことを生徒のせいにして終わらせてしまう場面を何度か見てきた。そこには、教師としての責任ある自分の存在や、有効な指導や、その形跡は感じられなかった。実行する子供たちの方が、教える側のそういう視点の欠けているのを見つけた時にはうまくいくのだが、そんなことに生徒たちが気付くほうがまれでしかない。教師である自分たちがそのことに気づかない限り、何年やってもその繰り返しばかりでうまくいかない。大きな問題なく進めることだけに腐心した結果、形だけを整えるために生徒たちを下請け作業の専門家にしてしまうことだって多いのだ。それは、彼らを労働力として使っているだけでしかない。


そうして、教師も生徒たちも物事を進めることの大変さと見返りの少なさに意欲を失っていくことになるのだ。生徒会活動はそうやって縮小していき、なり手も少なくなってしまう。それでも、生徒会という「子供たちの活動を企画する大変な指導」にあたった彼らは、そのうちに管理職となり、ゆくゆくは校長として壇上から立派なことをしゃべり始めるのかもしれない。そして、そんな「子どもたち側の本質」に迫れない話を聞いた子供たちは、ますます大人に不信感を抱いていくことになってしまうかもしれないのだ。


「先生これ、大きくなるんですか?」

山口がこれからのことを考え始めたらしい。

「うん、計算では、2メートル40くらいになるはずなんだけど」

「そんなに」

中島南美の目が大きくなった。

「2メートル40って言うと……」


小さな福地真奈美が入り口のドアに向かった。

「このドアの上のガラス位?」

「俺が手を伸ばすとちょうど2メートル20のはずだから……」

ドアの上に伸ばした私の右手の先が、窓ガラスの3分の1くらいのところまで届いた。

「結構デカいじゃん!」

柿崎裕也も何かを想像しているようだ。


「カッコいい」

「カッコ良くなるかどうかは、わからんぞ」

「先生、始業式でみんなに発表ですね!」

「学活の時、これ見せようと思ってんだけど」とガンダムとザクを指差した。

「どうやって大きくすんですか」

「拡大印刷機でな……チョト難しそうなんだけど……」

「段ボール集め大変ですねこれ」

「いや、普通の段ボールじゃむりだ」

「なんで?」

「小さすぎるから?」

「うん、それと箱だと折り目ついちゃってるだろ」

「買うんですか?」

「去年生徒会で使った板段ボールだってあんまり大きくなかったですよ。ベニヤ板と同じだと思うけど」

「調べたんだけどさ……」

プロジェクトのメンバーに白石先生からの情報を交えて説明してみたが、実物がないことにはうまく伝わりそうもなかった。

さて、段ボールをどうしようか?

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