或る事象

ミヅハノメ

ある友


 黒々とした瞳が、つやつやしたからすのように輝いていた。彼のことを思い出そうとすると、いの一番に思い出すのはそのことであった。彼はいつでもまっすぐに私の瞳を見て、私の言葉にうなずき、そうして楽しそうに口許を緩めていた。次に思い出されるのは、そのどこか昏く、だが艶然とした微笑だ。


 ア、こいつは死ぬな、と思ったのは、初対面の時であった。


 大戦が終わっていくらかしたころ。都会ばかりが息を巻き戸惑う民の首根っこを引っつかんでいざ行かんとするのを、田舎の連中がごうごうと荒れ狂う遠い海の嵐を眺めるように時代。

 彼はぽつねんとして、立ち尽くしていた。まだ何も知らぬ赤子のようであった。いや、泣いて周りに存在を知らしめられる赤子のほうがまだ、世間の渡り方を知っているように思えた。


 おもしろいかね、と訊ねたのは、私のほうであった。

 どこもかしこも古くさく、白髪交じりの老けた店主がポックリいっちまったら潰れてしまいそうな本屋だ。そこに彼はいた。私の本を手に取っていた。大戦中は発禁処分を受けていたが、もうこんなところにまで回っているらしかった。


 私より十も二十も下に見えた彼は僅かに身じろぎ、私の言葉を反芻するようにその射干玉の闇をじっとこちらに向けたかと思うと、微笑んだ。エエ。おもしろいです。


 その瞬間、ア、こいつは死ぬな、と思ったのだ。完全なる直感であった。直感だなんてものを明確に人生で知覚したのはこの日が初めてであった。


 それから彼とは何度か話をした。彼の死を引き留めるためではない。全く身近ではない、赤の他人が、どのように死んでゆくのかをこの目で見てみたかった。たった一言と、そのわずかな仕草だけで他人に死を連想させることのできる人間が、どのように果てるのかを見たかった。そうして本にしてやろうと思った。


「ぼくは文字となるのですね」


 一度その本音を喋ったとき、彼はそう言った。私は瞬きをした。自分がただの娯楽として消費されうる可能性を、なんとも思っていないようであった。

 このとき既に彼と出会ってから数年が経っていたが、いまだ私は彼のことをちっとも知りやしなかった。名前。蜜柑オレンジと海が好きなこと。体が病弱なこと。それくらいしかはっきりと言えることはない。私は彼と会う間もいくらか小説を書いていたが、彼について触れた小説はいまだ出せていなかった。


 何度か探りをいれたことはあるが、彼はのらりくらりと質問をかわし、また空虚な議論へと話をすり替えるのだ。彼について何かを語れるほど、私は彼の心の在処を確認していなかったのだ。


「本になるならば、ぼくは死にませんね」


 緑茶をひとつすすって彼は言った。そうだろうか、と私は言った。死には完全なる定義があるだろう。人が人であるように、男が男であるように、水が水であるように。肉体が朽ち果てば、それはいくら文字として残っていようと、それは死ではないのかね。


「いいえ」


 彼は微笑った。どきり、とした。妙に気まずい気持ちになり、先刻の彼と同じように茶をすすった。美味くも不味くもなかった。



「それは死ではありません」



   *  *



 ある日、家に手紙が届いた。妻が「どちら様からです?」と訊ねてきたが、手紙の外に記してある番地に、私は覚えがなかった。ただ、いやに達筆だなあ、と思いつつ開封した。『先生』──その単語だけで、私はこれが誰から送られてきたものなのかを理解した。

 そこには私への感謝と、私の小説の感想と、また何に対するものかわからぬ謝罪があった。長く、冗長な文章で、仔細は望洋として掴めない。ただ、ある一行、目を引くものがあった。


『死ではないことを、証明します』




 そのとき唐突に、もっとはやく小説を書くべきだったな、と思った。




   *  *



 あの青年はいなかった。代わりに同じ顔を持ち、同じ名前を持ち、同じ声を持つ青年がそこにいた。


「僕ではないぼくが度々会っていた先生というのは、あなただったのですね」

「……、ど、……どういう、」

「彼はもういません。僕もわからないのです。ただ、彼は――僕と別の人格だった彼は、もういなくなった、ということだけ申し上げます。あなたに手紙を出したのは、そのようにという彼の書置きが残されていたからなのです」


 呼吸の間も、声遣いも、なにもかもが違う。彼ではない。彼ではあるけれど、彼ではない。は、と息が自然と荒くなる。ぶわりと額から玉のような脂汗が滲みはじめる。指先は氷水にあてたかのように細かく震えていた。


「……あなたの本を、僕も読みます。とても面白いですし、深く考えさせられることばかりです。──けれど最初にあなたの本を買ってきたのは、僕ではなく、彼でした」


 青年はそれだけ言って退出した。あとにはただ独り、私だけが残った。体のどこか大事な部分の切り取られた私だけが。

 ときおり話すだけの関係であった。約束をしようとはしなかった、次にいつ来れるのかもわからないと話していた。二月空くこともあれば、連続して私に会いに来たこともあった。ただ、会うときまって、先生、と呼ぶのだ。少年のような素朴な笑みが溢れるので、遠くからでも彼の存在がわかった。


「あ、ああ」


 嗚咽が漏れる。大の大人がみっともない様子で、背中を曲げていることだろう。脳髄が沸騰するほど熱い。ぼろぼろと硝子玉のような涙が着物を濡らした。爪が畳をひっかき、繊維の切れる不愉快な音が耳を叩く。


 ──友人であった。親子ほども歳が離れていたけれど、確かに彼は私の友人であった。



『それは死ではありません』



 いいや。死だ。きみは儚くなってしまった。もう二度と私と喋ることはないのだろう。きみは確かに私の本を読み、私の経験談に微笑み、私とともに食事をした。きみに肉体がなくとも、きみに生まれたという概念がなくとも、きみは生きたのだ。生きていたのだ。そうして、私がまだ到達したことのない遠くへと往ってしまった。



『ねえ、先生。ぼくがもしいなくなったら、蜜柑をくださいね。そうして、海で待っていてください。そうだな、鎌倉がいいです、あそこは人が多いから』

『きっとぼくはそこにいますよ』



 けれど、本に残ることが、死ではないというのなら。

 他でもないきみが、そう言うのであれば。






       ――――この文は友に捧ぐ

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