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あなたはいつだって純粋だった。



「それが時折、羨ましい」


あなたの行動原理は単純で、大体は「好き」を原動力にしている。一度決めたら、他人の意見では滅多に動くことがない頑固者。でも。


「すごいことだと思うよ。私はそうはなれないから」


顔が覆われているせいで、彼女の話す声はくぐもって聞こえた。


「私は女で、空も女の子、だから、だからさ」


あなたが私から離れたいと思ったら、それを止めることなんてできないじゃん。だって、どう考えても男の子と付き合った方がいいんだから。


そう言って、天板に寄りかかりながらゆっくりと崩れ落ちた。キッチンに遮られて彼女の姿が見えなくなってしまったから、慌てて彼女の姿を追う。彼女は三角座りでうずくまって、膝におでこをうずめていて。その肩は震えていた。


「できるわけないじゃん、縛ることなんて。あなたが私から離れていくとき、わたしはそれを止める術なんて何一つ持ってない」


ぞっとした。失ったときのことを想像して。その先の未来を、真っ当に生きれる気がしなかったから。


「だから、ね、いいでしょ。お互いそっちの方が健全だよ、きっと」


彼女が手の平で目元を擦る。優、と呼びかけても反応はなかった。泣いている彼女にどうしてやることもできなくて、私はすとん、と彼女の前に座る。どうすることもできなかったけれど、どうにかしてやりたかった。

しばらくの間戸惑って、やっぱりどうすることもできなかったから。彼女に手を伸ばす。頭を撫でてあげようと思った。しかしその寸前で、「わたしがこんなことをしてもいいのか」という気持ちが芽生えた。さっきから、彼女は私に拒絶の意ばかり示していたから。


少しの逡巡の後、恐る恐る、そうっと優しく髪の毛に触れる。よく手入れされた、ブラウンの細い毛。たまに私が手入れしてやることもあった。鎖骨下で保たれた美しいそれをゆっくりと撫でた。ふわ、といつも使っているシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。

香水をふっていない彼女は、私と同じ香りをしていた。


「あなたに、私は必要ない」


そうでしょう?

ぐし、と目元を袖で拭って告げる。濁った黒い声色をしていた。見上げられた前髪の隙間からは、光のない真っ黒の瞳が覗く。


「優」

「!」


ぐっ、と首をこちらに引き寄せてやる。

そうして、ちゅ、と唇をくっつけた。ビクッと肩を跳ねさせて、眼が見開かれる。大層驚いたことだろう。まぁ当たり前である、三年付き合ってきて初めてのキスなのだから。


「優」


おまけでペロ、と表面を撫ぜてやってから口を離す。ああ、君ってそんな顔もできたんだ。初めて知ったよ。


「確かに、私は一人でも幸せになれるけどさ」


己の胸に彼女の顎を落ち着かせて、さらさらと髪の毛をを遊ばせる。目を見開いた驚愕の表情が、蒼白に塗りつぶされていく。宥めるように後頭部をさすってやった。


「でも君がいたらもっと幸せだから、」


そばにいたいよ。

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