8

今更?



そう言おうとして、寸前で口を閉じた。横向きに座っていた彼女が私に向かって座り直したから、何か言いたいことがあるのだろうな、と思って。


「多様性の話は空発祥じゃないな。だれ?」

「李川」

「ああ」


納得、と言って小さく笑った。それは純粋な笑いではなくて、なにかが含まれたものだったけれど。残念ながらその正体は分からなかった。


「まあ、そうだよ。正解。私が悩んでいたのはそのことについて。正直気づくとは思わなかった」

「実際、李川に言われなかったら気づかなかっただろうけど」

「そうだね」


笑った拍子に、さらりと一房髪の毛が滑り落ちる。それを耳に引っ掛けて、はぁ、と一つ息を吐いた。


「そうだね。空がそういうことに興味がないのはよく知ってる。だって三年付き合ってるのに、そういう話、全然しないんだもの。いやでも察するよね、興味ないんだって」

「う…」


やっぱりそれが嫌だったんだな。苦い表情を浮かべると苦笑された。違うよ、と。


「そこに関しては気にしていない。本当に。むしろあなたのそれに救われていたこともたくさんあるんだ。だから、これは私の問題」


かたん、と小さな音をあげて立ち上がって、キッチンに向かう後ろ姿。がさ、と少し棚をいじって、彼女はいつも飲んでいる珈琲を手に取った。

空も飲む、と聞かれたから横に首を振る。その答えは予測されていただろう。私が珈琲を飲めないことを彼女は知っているから。そっか、と一言だけ返される。

そしてそのまま流れるように体を動かして、冷蔵庫から牛乳を取り出した。彼女は珈琲に砂糖もミルクもいれない。だからそれが私のためのものであろうことは容易に理解できた。


「…この間私、友達の結婚式に行ったでしょう」


そういえば、そんなこともあったっけ。たしかちょうど一週間前。記憶が正しければ、高校の頃の友人だとか言っていたはず。


「それを見て、いろいろ考えてしまって」


とくとく、私のマグカップに牛乳を注ぐ。電子レンジにカップを入れて、ピピ、と操作をした。


「私たちは女の子だから、結婚ができない」


電子レンジの方を向いて、私に背を向けたまま続ける。


「家族にはなれない。何かあったとき、お互いの命綱になることが、私たちにはできない」


その指摘はもっともだった。

例えば、事故にあったときとか。夫婦ではなく、血も繋がっていない私たちでは、相手の命に判断を下すことはできない。

家族なら当たり前にできることが、私たちはできない可能性がある。


「そう考えたときに、私はー私たちは、一緒にいないほうがいいんじゃないかって」


思って。そう告げて、くるりと回れ右。キッチンの天板に肘をつく。


「私たちは、お互いの幸せを制限してしまうかもしれないから」


伏目がちに、息を吐くようにそう言った。

空間に沈黙が落ちた。なにか言わなければ、と思って口を開いたときに耳に入った声。


「と、いうのが一つ」


被せられたそれに、開きかけた口を閉じる。


「もう一つはシンプルに、あなたに私は必要かな、と思ったんだよ」

「…ん?」


朝の話題に戻ったかのかしら、と思った私の気持ちが分かったのだろう。あはは、と控えめに笑われる。いや、笑いごとじゃないんだけど。じとりとその姿を見つめると、彼女は笑うのをやめた。


「気持ちを疑ってるんじゃなくてね、そのままの意味。疑ったんじゃなく、あと周りに左右されたのでもなく。ただ純粋な私の気持ちだよ」

「そっちの方が心外なんだけど。なんでそう思ったのさ」

「だってあなた、私がいなくても幸せになれるでしょ?」


…笑っていた。彼女は笑っていた。眉を下げて。仕方ないな、とでも言いたげな表情で。


「私がいなくたって、あなたは変わらずに毎日を過ごせる。まあ多少は引きずるかもしれないけど、でもそれだけでしょう?だったら、さっきも言ったように一緒にいない方がいいんじゃないかなって思って」


それにほら、私たちって普通じゃないんだし。もうそろそろ普通に戻ってもいいんじゃない?

にこ、と綺麗に笑った顔。ただ笑顔がいつもと違ったから。本心ではないんだろうな、とすぐに気がついた。


「優」


彼女の体が揺れる。それと一緒に、上がった口角もヒク、とほんの僅かに歪んだ。


「だって、同性で付き合ってる人なんてそういないし。皆男の子と付き合ってるじゃん」

「優」

「それに私たち、もう子供じゃないじゃん。二十一だよ?もう。いつまでも若気の至りなんて言い訳通用しない」

「優」

「お酒も煙草もできるようになって、こんなこと。皆に笑い飛ばされちゃう」

「優」

「もう結婚している人だっている。いい加減現実見なきゃだめだって、そうでしょう」

「優!」

「だって!」


ぴん、と張り詰めた空気。それを壊したのは、私でも彼女でもなく、さっき操作した電子レンジだった。

ピー、ピー、と鳴く呑気な電子レンジ。それを合図にして、彼女ははあ、と一つ、大きな息を吐いた。ゆっくりと手で顔を覆う。


「…だって」


その声は震えていた。



「だって、あなた、私がいなくたって生きていけるじゃん…」



じゃあいらないじゃん、私。そりゃ、私だって一緒にいたいよ。いたいけど、でも、だって、ずっとは無理だよ。好きって、それだけじゃずっと一緒にいることなんて無理でしょ。


「空には分かんないよ、私の気持ちは」


そう、突き放すように言われた。首が持ち上げられて、潤んだ瞳と視線が交わる。


「だって、あなたは怖かったことなんてないでしょう?」





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