7


「分かるか!」



みっ、と彼女が肩を揺らした。その拍子にクッキーの箱が床へ落ちる。かなり勢いがよかったから、何枚かは割れてしまったかもしれない。

ぐしゃ、と乱暴に手の泡を流してタオルで拭いて、テーブルに向かう。その足音は心なしか、普段よりも荒い気がした。


「あ、」


だんっ、とテーブルに手をつく。勢いを殺さずに椅子に座った。


「の、ね!」


驚いた表情。箱を落とした姿勢で静止した彼女。声を荒げた私。嗚呼なんてアンバランス。


「気の迷いだろうがなんだろうが、優は一瞬でもそう思ったんでしょ。事実なんでしょ。じゃあそれをほったらかしになんてしたくないんだけど!」


やめてよ。今ここでこの話を放置したら、絶対に未来に響く、分かりきったことだろう?なかったことになんてしないでくれ、お願いだから!


「…だから」


懇願の色を込めて叫んだ。すると、驚いていた彼女の顔が、だんだんとうんざりした様に変化する。私は今不快になりましたよ、と伝えるように。


「朝のは違ったんだって。間違えたの。だからもう掘り返さないでよ。不愉快」

「嘘つくな」

「嘘じゃない」

「嘘だよ」

「あのさあ!」

「だって普段から思っていなかったら、あんなこと言わないだろ!」


彼女につられて私も声を荒げてしまう。はっ、として両手で顔を覆う。すう、はあ、と何度か深呼吸をした。


落ち着け。激情を抱えたまま話はできない。話し合いは常に冷静でなければ。そうじゃないと、分かることも分かれない。落ち着くんだ。

思考がクリアになってくると共に、やっぱりこの子も冷静ではないのだということに気がついた。


共同生活において冷静な話し合いはマストだ。避けては通れない。だから普段の優なら、ここで声を荒げることなんてしないはずなのだ。もしもそうだったとしたのなら、この共同生活はとっくに破綻している。ということはやはり、彼女には何か思うことがあるということで。


ごめん、と呟いて顔を上げる。苦みの混じった声音。彼女も私と同じように、気まずそうに視線を落としていた。

それを見て、カッ、と再び激情が上ってきた。違う。そんな顔をさせたいんじゃない。そんなことを、させたいんじゃなくて。


「…私は、ただ…」


目は合わなかったけど、視線は逸らさなかった。


「ただ、優に…」


どうか、私を見てくれ。

それはある種の祈りだった。祈りをこめて、言葉を紡いだ。


「苦しんでほしくなくて…」


それだけ。私が彼女に願うことは、結局のところそれだけだった。

苦しまないでほしい。泣かないでほしい。幸せであってほしい。

多様性とか、社会とか、本当はどうでもよかった。どうだっていいのだ。大切なのはそんなものじゃない。私が大切にしたいのは、ただ一つ。一人だけ。彼女だけだった。


「…私は、多様性とか、そういうのはよく分かんないけど」


でも、優は違うのかもしれない。君はそれで苦しんでいるかもしれない。それは嫌だった。絶対に。それだけは嫌だった。

君に大丈夫だと、そう伝えたかった。


「優に泣かないでほしい」


優が言いたくないなら言わなくたっていい。本質はそこじゃないんだから。

だから、そんな顔をしないでくれ。私は君に笑っていてほしいのだ。


彼女がこちらを見た。

でもその表情から、君が何を思っているのかうまく読み取ることはできなかったから。とりあえずにへ、と笑っておく。

顰めっ面や無表情よりかは、笑っていた方が幾分かは素敵だろうと思った。うまく笑えているかは分からなかったけど。


そうして、ようやく君が笑った。今日初めて見る笑顔だった。



「あなた、私のこと、好きねえ…」



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