5

静かな言葉。彼は笑っていなかった。真面目な顔。

それにつられて、思わず私も真顔になった。すす、と伸ばした手を机に戻す。


「お前本当に分かっていないのか」

「…んん、主語を言ってくれないかな。分かるものも分からないから」


そう言うと、李川はぎゅ、と眉間に皺を寄せて顔を顰めた。あからさまな不愉快の顔。私は何か機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのかしら。かくん、と首を傾ける。


「『性別の壁』」

「……、ああ」


そういえば最初にそんな話題が出たっけ。そうか。まだそっちの可能性も残っているのか。…難しいな。


「…えー、でもさぁ、もしそうだったとしたらさぁ。それはもう、本人に聞くしかなくない?ていうか、それ以外どうしようもなくないかな」

「そうかもしれないけど。それ以前に、お前のその態度に問題があると言っているんだ」

「例えば?」

「正直言って、全部」

「抽象的だなぁ」

「あのな」


だってしょうがないだろう。LGBTとかさ。多様性とかが注目されるようになった昨今、よく叫ばれていることだけれど。私そんなのを気にしたことなんてあんまりないし。大学でそういうのを専攻しているわけでもないから、人より知識があるなんてこともない。


「興味がゼロなわけじゃないよ、そりゃあ。一般人と同程度の興味くらいはあるさ。でも、普通の人よりもそういうことについて興味関心がありますか、と訊かれたら、答えは多分NOだ」

「お前、仮にも当事者の立場でそれを言うか」


…。私は当事者なのだろうか。そんな実感はないのだけれど。


なんだか今日は考えることが多くて、頭が痛みを訴え始めてきた。

優に関することはまだいい。私にも非があったんだろうし、人とお付き合いなるものをしているんだから、まぁ…義務とまではいかずとも、ある程度は仕方ない。そこは納得しているし、理解している。でも。


ぐりぐり、と人差し指でこめかみをほぐす。袖口から漂ってきた、いつも使っている柔軟剤の香りが、私のこころを少しだけ安らげた。


「蓮水さんがレズなのかバイなのか、それとも別のものなのか、俺は知らないけどさ。事実として、蓮水さんは女のお前と付き合ってる。分かるか?お前は社会問題の当事者なんだよ。それなのにこんなにも無関心なのは、正直どうかと思うぞ」

「んむ…」


じ、と蔑みも嘲笑もこもっていない目で見つめられる。居心地の悪さが最高潮に達して、もう帰りたくて帰りたくて仕方がなかった。

実際にもう帰ろうかな、と思ってビジョンを描いてみたりもしたけれど。そうしたらあの子の傷つく顔が思い浮かんでしまって、やめた。あの子を傷つけたいわけではないのだ。


私はどうして、こんなにも居心地悪く感じているのだろうか。

さっきからずっと居心地が悪い。その「社会問題」とやらって、そんなにも敏感に気にしなきゃいけないこと?


「…L、GBTとかさ。否定する気はこれっぽっちもないんだ。実際問題、それで苦しんでいる人たちは存在するわけだし。あの子も苦しんでいるのかもしれないし…」


ぽつ、ぽつ、と、どうにか頑張ってこころを言語化していく。ああ、普段使わないところを使って考えているから、思考のスピードがものすごく遅い。もどかしくって仕方がない!


「でも、でも、…それってそんなに気にしなきゃいけないこと…じゃないと、…。…、分かんない、違うかもしれないけど、」

「違う。必ずしも気にしろって強要しているんじゃなくて、付き合っている相手がいる以上、最低限の知識は必要だろ、って。そういうこと言ってンだよ」


何お前、本当に小学生なのか。呆れたため息と共に溢された言葉。伸ばしていた足を胴体に引き寄せて、椅子の上できゅうと身体を小さくして、膝を抱えた。


「…わたしは、」


頑張る。頑張って頑張って、声を出した。ここで話すことができなかったら、きっとあの子にも伝えられないだろうと思ったから。


「そういうことに、興味がないわけじゃないよ。知りたいとも思う。でもそれは、私が「女の子と付き合ってる」からしゃなくて、「あの子が気にしている」からで。だから、そこに性別の差異はなくてさ、……んん、例えば。例えばね?仮に付き合っているのが男の子だったとして、その人がそういうことに興味があったとしたら、私も気にするって、そういう話なんだけど。…、分かる?」


分かってくれるかな。そういうことなの。

社会がいうから気にするんじゃなくって、あの子が気にしているから気にするの。


世界はなんだか、いろんなことをしているのかもしれないけど。知らないよそんなの、正直。勝手にやっていれば良い。

だって私、そんなに大勢のーあまりにもたくさんの、苦しんでいる人たちを救うことなんてできないし。

世界は変わってきていて、それはとても良いことだと思うけれど。でもそれが、私に、私たちに影響を及ぼすかと言われれば、必ずしもそうではない。


「大好きなあの子が言っていることだから、理解したいと思うの。優が考えていることを、少しだけでも分かることができればいいなと思うんだよ。それがジェンダーの問題でも、季節の感じ方でも、ご飯の美味しさでも。全部おんなじだよ。なんにも変わらない」


だから、つまり。私は何が言いたいのかというと。


「…社会じゃなくて、私を見て。会ったこともない大多数を気にするよりも、目の前にいる私と話をしようよ、って、」


そういうことを伝えたかった。



言いたいことは言いきれたから、顔をあげて彼を見た。己の不安はきっと隠せていなかっただろう。恐る恐る、という表現が相応しいようなそれに違いなかった。


そんな私の予想を反して、彼は怒りの表情を浮かべてはいなかった。呆れも、不満も、蔑みも。なんにもなかった。ただ少しだけ、目を細めていて。そのまま、ほんの僅かな間だけお互いに見つめ合う。

そして彼は、ふは、と笑った。何も混ざっていない。それはきっと、純粋な笑顔だった。


「言う相手が違うだろ」

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