月光の魔法使い

 魔法使いが少年の手を引いてやってきたのは、街の中心部から少し離れた川岸にある、小さな小屋だった。

 橋と背の高い木に隠れるように建つその小屋は、もし月の光がなければ、見つけるのは非常に難しいだろう。橋の上からのガス灯の明かりも、この小屋までは届かない。

「……ここが、私の家だよ」

 そう言いながら、魔法使いは錆びかけた鍵を取り出し、扉を開ける。

 小さな窓から入り込む満月の光のおかげで、明かりがなくても室内の様子をぼんやりと見ることができた。広さもなく、数少ない家具はやや古びているが、居心地の良さそうな部屋だった。

「すぐに暖かくするからね。そこに座って待ってて」

 魔法使いは少年に声をかけ、二人掛けの小さなソファを示した。

「……うん」

 少年はおずおずとソファに近づき、浅く腰を掛ける。

 魔法使いの方を見ると、ちょうど暖炉に火をつけようとしているところだった。

「見ててね」

 魔法使いは少年の方を振り返ってそう言った。そして、小さな暖炉に薪を入れる。魔法使いはそのまま立ち上がったが、すぐに、薪が燃え始めた。

「何もしていないのに……」

「ふふ、すごいでしょ」

 少年が思わず呟くと、魔法使いは得意げに笑う。

「どうやったの?」

「内緒。……ほら、こっちに来てみて。火の近くはもう暖かいから」

 魔法使いに言われ、少年は暖炉の前に移動して座る。それから、不思議そうな表情のままじっと火を見つめていた。

 しばらくすると、魔法使いも隣にやってきて、少年にマグカップを差し出した。

「はい、熱いから気をつけてね」

 マグカップの中には、湯気のたつココアがたっぷりと入っていた。

 魔法使いは少年の隣に座って、少年がココアを飲んでいるのを、微笑みながら眺める。

「……そろそろ、寝ようか」

 マグカップが空になった頃を見計らって、魔法使いが声をかける。

 体が温まったからか、少年は眠たそうな表情で、マグカップを持ったままぼんやりしていた。

「……うん」

「じゃあ、こっちにおいで」

 魔法使いは少年からマグカップを受け取り、空いている方の手で少年の腕を引いて立ち上がらせる。

 少年は魔法使いに手を引かれるまま、もといたソファのところまで戻った。

「ごめんね、ベッドがないから、このソファを使って」

「……うん」

 魔法使いは少年をソファに座らせ、自分が着ていた上着も手渡す。

「この上着もかけて寝れば、朝まで暖かいはずだよ」

「……うん」

 少年が横になったのを見て、魔法使いは暖炉のそばに戻った。

 そして、表紙の色褪せた本を膝の上に開き、読み始める。

 それからは、部屋には薪が燃える音と、魔法使いがページをめくる音だけが聞こえていた。

「……ねえ」

 しばらくした頃、魔法使いの背中に少年の声がかかった。

 魔法使いは本から顔を上げ、少年の方を見る。

「……寝られないの?」

「ううん、眠いんだけど……」

「じゃあ、どうしたの?」

 本を閉じて近づいてきた魔法使いに向かって、少年は躊躇いがちに言った。

「……魔法使いさんは、寝ないの?」

 魔法使いはその言葉を聞いて、ああ、と納得したような表情になる。

「……うん、私は、寝ないよ」

「……僕が、ソファを使ってるから?」

「違うよ」

「じゃあ、どうして?」

「それは……」

 魔法使いは、ソファを背もたれにして床に座り、言った。

「……寝てしまうのが、怖いから」

「……え?」

「なんでかわからないし、いつからかもわからないけど……。私、寝ると『誰か』のことを忘れてしまうの」

 魔法使いは、はちみつ色の髪の毛を指に巻き付けて遊びながら、少し寂しそうに話を続けた。

「その他のことは全部覚えているのに、昨日やその前に会った『誰か一人』のことだけ、まるで何もなかったかのように忘れているの。だから……」

 手を離すと、巻かれていた髪の毛はさらりともとに戻る。

 それを見て、魔法使いは小さく溜息を吐く。

「……だから、今日は寝ない。せっかく会った人のことを、忘れてしまうのが怖いから」

「……」

 少年は、何も言わなかった。黙ったまま、じっと魔法使いを見つめている。

「……もう、寝ちゃった?」

 魔法使いが振り向こうとすると、少年は目を閉じて、寝ている振りをした。

「そっか……。おやすみ、よく寝てね」

 魔法使いはそれに気付いていない様子で、少年の頭を優しく撫で、暖炉の前に戻って再び本を読み始めた。

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